19
ベッドの上にうつぶせになり、布団に顔を押し付けた。開け放した二階の窓からは、蒸し暑い風が吹き込んでくる。
――そのかわりもうお前はうちの娘ではない。すぐにこの家を出て行きなさい。
この家を出て行く。つまり自由になれること。だけど今の桜雪は何も持っていない。
ひとり暮らしの部屋は追い出されるだろうし、学校にも行けなくなる。仕事もなければ、自由に使えるお金も持っていない。
結局は両親のおかげで今まで暮らしてこれたのだ。この家を出てひとりで暮らすことなど、今の桜雪には不可能だった。
どうしてこうなってしまうのだろう。ただ和臣との結婚をやめたいだけなのに。自分の素直な気持ちをわかってもらいたいだけなのに。
小さく息を吐き、布団の上に起き上がった時、部屋に和臣が入ってきた。
「桜雪」
名前を呼ばれ身体がびくんと震えた。和臣はそんな桜雪に笑いかけ、部屋のドアを閉める。
「これからどうするつもりなんだ?」
桜雪の座っているベッドに和臣が腰かける。桜雪は反射的に和臣から身体を離す。
「そんなに僕のことが嫌か?」
和臣が手を伸ばし、桜雪の頬に触れる。桜雪はそれを手で振り払った。
「やめて。出て行って」
「ひどいなぁ。この部屋で、あんなに何度もキスをしたのに」
和臣はそう言って、懐かしそうに笑う。
「桜雪のことは、ずっと前から可愛いと思ってた。他の女に手を出した時もあったけど、どいつも僕の持ってる金目当てのバカ女ばかり。みんな桜雪とは違う。僕が好きなのは、やっぱり桜雪だけだ」
息を吐き、和臣の前で首を横に振る。
「ごめんなさい。それでも私はもう、和くんとは付き合えない」
「どうしてだ? こんなに僕が想っているのに。どうして桜雪は僕を見てくれないんだ?」
桜雪はうつむいて黙り込んだ。
「そんなにあの男がいいのか? この僕よりも」
「もうやめて。この前言ったでしょう? これ以上和くんのこと、嫌いになりたくないって」
和臣の手がもう一度伸びた。今度は乱暴に桜雪の肩をつかみ、そのままベッドに押し倒す。
「やめ……」
「黙れ!」
肩を強く抑えつけられ、桜雪は仰向けになったまま和臣の顔を見上げる。
「僕は今まで、欲しいものはなんでも手に入れてきた。物も学歴も人望も職歴も。この僕が好きな女にふられるなんてありえない」
「和くん……」
「桜雪は僕だけを見てればいい。他の男なんて見るな」
スカートをまくり上げられ、足をぐっと開かれた。
「いやっ……」
「騒ぐな。こんな恥ずかしい格好、親に見られてもいいのか?」
途端に恐怖が押し寄せた。けれどこのまま流されるなんて、絶対に嫌だ。
和臣の顔が近づく。桜雪はぎゅっと目を閉じ、唇をかみしめる。
その時枕元に置いてあったスマートフォンから着信音が響いた。
「誰だ?」
ふと和臣の力がゆるむ。その隙に桜雪は身体をよじらせ手を伸ばすと、音を立てているスマホを手に取った。
そして画面に映る名前を見て、息をのんだ。
「霧島くん……」
電話の相手は梓だった。さっき別れ際に連絡先を交換したのだ。まさか電話がかかってくるなんて、思ってもみなかった。
けれど桜雪は動きを止めたままだった。今電話に出たら、きっとまた梓に迷惑がかかる。もう梓に頼るのはやめると決めたのだ。
そんな桜雪を見て、和臣が顔をしかめた。
「貸せっ!」
「あっ……」
桜雪の手からスマホが奪われた。着信音が途切れ、和臣が電話に向かって話す。
「いま取り込み中だ」
「やめてっ……」
「桜雪に二度と電話なんてかけるな! 桜雪は僕のものだ!」
手を伸ばした桜雪を振り切り、和臣はスマホを窓の外へ投げ捨てた。そして窓辺で振り返ると、桜雪のことを睨みつける。
これから何が起こるのか、何をされるのか、桜雪はその顔を見ただけで想像がついた。
起き上がりかけた身体を、もう一度ベッドに倒された。両手を頭の上で押さえつけられ、息ができないほど深く口づけられる。
苦しくて、息継ぎするように顔をそむけたら、同じように苦しそうな顔をした和臣が見えた。
「和く……」
桜雪の声を遮るように、また唇が塞がれる。和臣の身体が重くのしかかり、身動きが取れない。
――僕は今まで、欲しいものはなんでも手に入れてきた。
これではまるで、欲しいものを力ずくで手に入れようとしている子どもと同じだ。
こんなことをして身体を奪っても、心までは奪えないのに……和臣にはそれがわからないのだ。
この人はかわいそうな人――その時はじめて、桜雪は和臣のことをそう思った。
「和くん……」
一瞬自由になった両手で、その背中を抱きしめた。
「したかったらしてもいいよ」
和臣の身体がぴくりと動く。
「だけど私の心は変わらない。和くんに、私の心を変えることはできない」
しばらく桜雪の上で動かなくなった和臣が、低い声でつぶやく。
「……ふざけるな」
抱きしめた身体が桜雪から離れる。
「うちの親父の大事な取引相手だったから、お前みたいなガキと結婚してやるって言ったんだ。それなのにその偉そうな態度はなんだ? 人をバカにするのもいい加減にしろ!」
目の前で和臣の腕が振りあがる。桜雪は思わずぎゅっと目を閉じる。
けれどその手が桜雪に振り下ろされることはなかった。
「もういい。勝手にあいつとどこへでも行って、僕を捨てたことを後悔すればいい」
和臣はそのまま背中を向け、ベッドに横たわった桜雪を残し、静かに部屋を出て行った。




