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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
39/50

19

 ベッドの上にうつぶせになり、布団に顔を押し付けた。開け放した二階の窓からは、蒸し暑い風が吹き込んでくる。

 ――そのかわりもうお前はうちの娘ではない。すぐにこの家を出て行きなさい。

 この家を出て行く。つまり自由になれること。だけど今の桜雪は何も持っていない。

 ひとり暮らしの部屋は追い出されるだろうし、学校にも行けなくなる。仕事もなければ、自由に使えるお金も持っていない。

 結局は両親のおかげで今まで暮らしてこれたのだ。この家を出てひとりで暮らすことなど、今の桜雪には不可能だった。

 どうしてこうなってしまうのだろう。ただ和臣との結婚をやめたいだけなのに。自分の素直な気持ちをわかってもらいたいだけなのに。

 小さく息を吐き、布団の上に起き上がった時、部屋に和臣が入ってきた。


「桜雪」

 名前を呼ばれ身体がびくんと震えた。和臣はそんな桜雪に笑いかけ、部屋のドアを閉める。

「これからどうするつもりなんだ?」

 桜雪の座っているベッドに和臣が腰かける。桜雪は反射的に和臣から身体を離す。

「そんなに僕のことが嫌か?」

 和臣が手を伸ばし、桜雪の頬に触れる。桜雪はそれを手で振り払った。

「やめて。出て行って」

「ひどいなぁ。この部屋で、あんなに何度もキスをしたのに」

 和臣はそう言って、懐かしそうに笑う。

「桜雪のことは、ずっと前から可愛いと思ってた。他の女に手を出した時もあったけど、どいつも僕の持ってる金目当てのバカ女ばかり。みんな桜雪とは違う。僕が好きなのは、やっぱり桜雪だけだ」

 息を吐き、和臣の前で首を横に振る。

「ごめんなさい。それでも私はもう、和くんとは付き合えない」

「どうしてだ? こんなに僕が想っているのに。どうして桜雪は僕を見てくれないんだ?」

 桜雪はうつむいて黙り込んだ。

「そんなにあの男がいいのか? この僕よりも」

「もうやめて。この前言ったでしょう? これ以上和くんのこと、嫌いになりたくないって」

 和臣の手がもう一度伸びた。今度は乱暴に桜雪の肩をつかみ、そのままベッドに押し倒す。


「やめ……」

「黙れ!」

 肩を強く抑えつけられ、桜雪は仰向けになったまま和臣の顔を見上げる。

「僕は今まで、欲しいものはなんでも手に入れてきた。物も学歴も人望も職歴も。この僕が好きな女にふられるなんてありえない」

「和くん……」

「桜雪は僕だけを見てればいい。他の男なんて見るな」

 スカートをまくり上げられ、足をぐっと開かれた。

「いやっ……」

「騒ぐな。こんな恥ずかしい格好、親に見られてもいいのか?」

 途端に恐怖が押し寄せた。けれどこのまま流されるなんて、絶対に嫌だ。

 和臣の顔が近づく。桜雪はぎゅっと目を閉じ、唇をかみしめる。

 その時枕元に置いてあったスマートフォンから着信音が響いた。


「誰だ?」

 ふと和臣の力がゆるむ。その隙に桜雪は身体をよじらせ手を伸ばすと、音を立てているスマホを手に取った。

 そして画面に映る名前を見て、息をのんだ。

「霧島くん……」

 電話の相手は梓だった。さっき別れ際に連絡先を交換したのだ。まさか電話がかかってくるなんて、思ってもみなかった。

 けれど桜雪は動きを止めたままだった。今電話に出たら、きっとまた梓に迷惑がかかる。もう梓に頼るのはやめると決めたのだ。

 そんな桜雪を見て、和臣が顔をしかめた。

「貸せっ!」

「あっ……」

 桜雪の手からスマホが奪われた。着信音が途切れ、和臣が電話に向かって話す。

「いま取り込み中だ」

「やめてっ……」

「桜雪に二度と電話なんてかけるな! 桜雪は僕のものだ!」

 手を伸ばした桜雪を振り切り、和臣はスマホを窓の外へ投げ捨てた。そして窓辺で振り返ると、桜雪のことを睨みつける。

 これから何が起こるのか、何をされるのか、桜雪はその顔を見ただけで想像がついた。


 起き上がりかけた身体を、もう一度ベッドに倒された。両手を頭の上で押さえつけられ、息ができないほど深く口づけられる。

 苦しくて、息継ぎするように顔をそむけたら、同じように苦しそうな顔をした和臣が見えた。

「和く……」

 桜雪の声を遮るように、また唇が塞がれる。和臣の身体が重くのしかかり、身動きが取れない。

 ――僕は今まで、欲しいものはなんでも手に入れてきた。

 これではまるで、欲しいものを力ずくで手に入れようとしている子どもと同じだ。

 こんなことをして身体を奪っても、心までは奪えないのに……和臣にはそれがわからないのだ。

 この人はかわいそうな人――その時はじめて、桜雪は和臣のことをそう思った。


「和くん……」

 一瞬自由になった両手で、その背中を抱きしめた。

「したかったらしてもいいよ」

 和臣の身体がぴくりと動く。

「だけど私の心は変わらない。和くんに、私の心を変えることはできない」

 しばらく桜雪の上で動かなくなった和臣が、低い声でつぶやく。

「……ふざけるな」

 抱きしめた身体が桜雪から離れる。

「うちの親父の大事な取引相手だったから、お前みたいなガキと結婚してやるって言ったんだ。それなのにその偉そうな態度はなんだ? 人をバカにするのもいい加減にしろ!」

 目の前で和臣の腕が振りあがる。桜雪は思わずぎゅっと目を閉じる。

 けれどその手が桜雪に振り下ろされることはなかった。

「もういい。勝手にあいつとどこへでも行って、僕を捨てたことを後悔すればいい」

 和臣はそのまま背中を向け、ベッドに横たわった桜雪を残し、静かに部屋を出て行った。

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