18
「安達さんのところに寄ったら、和臣くんが帰省しててね。今夜はちょうど桜雪も帰ってくるから、夕飯でも一緒にどうだいって誘ったんだよ」
「まぁ、そうだったの?」
「すみません、突然お邪魔して」
「いいのよ。ゆっくりしていってちょうだい」
和臣は母にもう一度頭を下げたあと、ゆっくりと顔を上げる。そして呆然と立ち尽くしている桜雪に向かって、余裕の顔つきで笑いかけた。
桜雪が今日、実家に帰ることを、和臣は知らないはずだった。だからこれはただの偶然だ。
だけどもしかしたら……和臣は何かの手を使って、桜雪が実家に戻る日を調べていたのかもしれない。
そんなことを悶々と考えながら、夕食の食卓を囲む。
和臣にビールを勧めている父と、嬉しそうに手料理を運ぶ母。桜雪の隣には和臣が座り、しかしそこに祖父の姿はない。
父は客が来ると、祖父を居間に来させないのだ。久しぶりに孫娘が帰ってきた、こんな夜でも。
「和臣くん、最近はよく実家へ帰って、お父さんの仕事を手伝っているらしいね」
「はい。週末は父の会社に出向くことが多いです」
「少しずつ引き継いでいけばいい。いずれは和臣くんがあの会社を仕切るのだから」
「まだまだ先の話です。今は東京の仕事も忙しいですし」
「大変ねぇ、和臣くんも。明日はお休みなんでしょう? よかったらうちに泊まっていって」
母の言葉に、桜雪は耐え切れずに声を出す。
「お母さん! やめて」
父と母が不思議そうに桜雪を見る。
「お父さん、今日は私、聞いて欲しい話があってここへ戻ってきたの」
隣に座る和臣が、じっと桜雪を見ているのがわかる。その視線に少しの恐怖を感じながらも、小さくひとつ息を吐き、桜雪は口を開いた。
「お父さん、お母さん。私、和臣くんとは結婚できません」
桜雪の言葉に一瞬父の表情が強張り、しかしすぐに声を立てて笑い出す。
「なにを言い出すんだ、突然」
「突然なんかじゃない。ずっと考えてたの。好きじゃない人とは結婚できないって」
「桜雪!」
母が声を上げ、桜雪の言葉を遮る。
「和臣くん、ごめんなさいね。失礼なことを言ってしまって……」
「いいんですよ」
そんな母に笑いかけ、和臣は言葉をつなげる。
「桜雪には好きな男がいるんです。だからこんなことを言い出したんでしょう」
驚いた顔つきの父と母が、桜雪の顔を見つめる。
「好きな男って……誰なんだ?」
父の低い声に答えたのは、桜雪ではなく和臣だった。
「霧島さんちの息子ですよ。今は桜雪と同じ大学に通ってるんです。アパートも近いですし。もしかしたら偶然じゃないかもしれませんね」
なにを……なにを言っているのだろう、この人は。
「この前は桜雪と連絡が取れなくなり、心配しました。その時数週間、彼のアパートに泊まっていたようなんです」
桜雪は膝の上のスカートを握りしめ、隣にいる和臣を睨むように見る。
連絡が取れず桜雪の両親が心配してる――そう梓に言ったという言葉は、梓の部屋から桜雪を取り戻すための嘘だったのだ。それを今、こんな形で桜雪の両親に伝えるなんて……。
「でも仕方ないです。それが桜雪の本当の気持ちなら。きっと僕に魅力がなかったんでしょう。桜雪の幸せを考えれば、僕は身を引くしかないのかもしれません」
「和臣くん! ちょっと待ってくれ」
父が声を上げ、それから桜雪のほうを見る。
「桜雪、今の話は本当なのか? 霧島の息子と付き合っているのか?」
「付き合ってなんか……ない」
「じゃあその男の部屋に泊まったというのは?」
「それは……」
父の前で唾をのみこむ。かすかに震える手を反対の手で抑えつける。
「ほんとうです。私、霧島くんの部屋に行きました」
桜雪の近くで、母が息を吐いたのがわかった。
「桜雪。お前は付き合ってもいない男の部屋に、数週間も泊まったのか? 和臣くんという立派な婚約者がいるというのに」
父も母も知らないのだ。桜雪と付き合いながらも、今まで和臣が何人もの女と身体の関係を結んでいたことを。
「父さんはお前を、そんな汚い娘に育てた覚えはないぞ!」
「お父さん」
父の顔を見る。身体が震える。けれど今、言わなければならない。
「お父さんの言う通り、私はきたないよ。和くんと付き合いながらも、ずっと霧島くんのこと好きだったんだから。だけどそれが私のほんとうの気持ち。だから和くんとは結婚できない」
その言葉を言い切ると同時に、頬に鈍い痛みが走った。手を当て、静かに顔を向けると、母が怒った顔で桜雪を見ていた。
「桜雪! 和臣くんに謝りなさい。あなたは自分のしたことをわかっているの?」
頬をおさえたまま、首を横に振る。そんな桜雪の前で父が立ち上がる。
「これ以上話しても無駄だ。しばらくよく考えるんだな。それでもその男のほうがいいというのなら、和臣くんとの婚約は解消してもらう。そのかわりもうお前はうちの娘ではない。すぐにこの家を出て行きなさい」
父は和臣に向かって「申し訳ない」と頭を下げると、部屋を出て行ってしまった。母も和臣に何度も謝っている。桜雪は黙ってその場を立ち、自分の部屋へ入った。




