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「これからそっちへ帰る」
駅のホームに立ち、桜雪はそれだけ母にメールで伝えた。
手に持っているのは帰省用のバッグと一香からもらったチケット。
――桜雪は一度あの町へ帰って、お父さんやお母さんとちゃんと話し合ったほうがいい。
一香の言葉を頭に浮かべる。それと同時に、特急電車の発車を案内するアナウンスがホームに響いた。
荷物を持って電車に乗り込む。
夏休みを迎えた車内はほどほどに混雑していて、桜雪は指定席の番号を確認しながら奥へ進んだ。
そして自分の席を見つけた時、驚いてその名前をつぶやいた。
「霧島くん?」
窓際の席に座り、ホームを見ている横顔は梓だった。
桜雪の声に、梓がゆっくりとこちらを向く。
「綾瀬? なんで……」
「一香に指定席のチケットをもらって……」
桜雪と同様に、驚いた顔をしていた梓が「ああ……」と少し困ったように苦笑いする。
「一香か……あいつどこまでおせっかいなんだよ」
梓の声を聞きながら、桜雪はぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
ホームに発車のメロディーが鳴り響き、始発駅から特急電車が静かに動き出す。
桜雪は梓の隣に座っていた。けれど真っ直ぐ前を見たまま、隣を向くことができない。
一香はこうなることを知っていて、桜雪にチケットを渡したのだ。きっと。
「最初はふたりで帰るつもりだったんだ。でも一香はキャンセルしたんだと思ってた」
そう言った梓も、一香から何も聞かされていなかったらしい。
「一香……なにか言ってた?」
「え?」
すぐ近くから梓の声が聞こえて、桜雪は思わず顔を向けた。
「なにか……俺たちのこと」
梓は窓の外を見ている。高いビルの隙間を、縫うように電車は走る。
「イライラするって言われた。私たち見てると」
梓が外を見たままふっと笑う。
「……一香らしい」
「うん」
うなずいて、桜雪も少しだけ口元をゆるませる。
一香のように、真っ直ぐ素直に自分の気持ちを伝えられたら……何かが変わっていくのだろうか。
「霧島くん、私ね……実家に帰って親と話そうと思ってるの」
梓の向こうに流れる、都会の景色を見ながらつぶやく。
「和臣さんとは別れるって。結婚はできないって。そう言おうと思ってるの」
窓の外を見ていた梓がゆっくりと振り返る。隣に座る桜雪と視線がぶつかり、戸惑うような表情を見せる。
「……どうして?」
桜雪はほんの少し笑って梓に答える。
「だって、好きでもない人と結婚しても幸せになれないよ」
呆然とした顔の梓に向かって、桜雪は続ける。
「心配しないで。もう私、霧島くんに頼ったりしないから。ちゃんと自分で話して親に納得してもらって、自分の将来は自分で決める」
「でも……そんなの無理なんだろ? 無理だから、今まで親の言う通りにしてきたんだろ?」
確かに今まではそうだった。親に反抗したくても上手く言葉で伝えられなくて、結局それを放棄して流されるように生きてきた。それが一番楽だったから。
だけどそれでは何も変わらないし、変われない。
「私……変わりたい」
梓が黙って桜雪の顔を見ている。
「上手くできるかわからないけど。だけど変わりたいから……だから霧島くんには、これからも私のこと見守ってて欲しい。きっと私……変わるから」
「綾瀬……」
梓の前でぎこちなく微笑む。
ほんとうは自信がなかった。あの父親を説得することは難しいと思っていたし、和臣がこのまま別れてくれるとも思えなかった。
「でももし和臣さんが、また霧島くんに失礼なこと言ったらごめんね。迷惑、かけちゃうかもしれない」
「迷惑だなんて……思ってない」
小さく息を吐くように、梓がつぶやいた。そしてそれきり、黙り込んでしまった。
電車は街中を抜け、住宅地にさしかかる。景色が少しずつ、あの町へ近づいていく。
桜雪が生まれ育って、梓と出会ったあの町へ。
「綾瀬は……」
かすかに隣から声が聞こえた。桜雪はうつむいたままの梓の横顔を見る。
「もし自分があの家に生まれなかったらって……考えたことある?」
梓の言葉を聞きながら考えた。
自分があの家に生まれなかったら……大人の言うことをききなさいと、言われ続けたあの家に。付き合う友達も結婚する相手も、全部決められてしまうあの家に。和臣と出会って、たくさんの初めてを知ったあの家に……自分が生まれなかったら。
たとえば一香の家に生まれていたら、きっと人生は変わっていただろう。
「俺は……あるんだ」
桜雪の返事を聞く前に、梓がひとり言のようにつぶやいた。
「俺があの母親から生まれなかったら……もっと普通の家に生まれてたら……どうなってたかなって」
そしてうつむいたまま、自分自身にあきれたように小さく笑う。
「そんなこと考えてもしょうがないのにな」
桜雪は黙ってそんな梓の横顔を見ていた。すぐ近くにいるのに触れることのできないその横顔を。
「もし……そうだとしても」
ゆっくりと考えて、静かに桜雪は口を開く。
「私は霧島くんに出会ったと思う」
うつむいていた梓が顔を上げる。
「私があの家に生まれなくても、霧島くんが別の家に生まれていても、私はどこかで霧島くんに出会ったと思う。なんとなくだけど……そう思うの」
梓は黙って桜雪の顔を見つめていた。
車内のアナウンスが途中駅の名前を告げ、何人かの人が立ちあがる。電車が速度を落とし駅のホームへ入る。
やがて梓が、そっと目をそらしてつぶやいた。
「綾瀬はもう……変わってるよ」
「え?」
「少し会わないうちに変わった。すごく前向きになった」
ほんの少し笑って梓は言う。
「俺は駄目だな。いつだって後ろばかり振り返ってて、全然前に進めない」
電車が駅に到着した。何人かの人を降ろし、また何人かの人が乗り込んでくる。
「こんなんじゃ駄目だって思うのに。俺も……変わりたいのに」
発車のアナウンスが流れる。駅のホームにメロディが響く。やがてふたりを乗せた電車は、また静かに走り出す。
「俺も、変わりたいんだよ」
いつだって誰かのせいにしていた。縛り付けられて動けなくなったのは、親やまわりの大人たちのせいだと思っていた。
だけど違う。誰かに手を差し伸べてもらうのを待ち続けて、動こうとしなかっただけ。
少し勇気を出して一歩前へ踏み出せば、そこから抜け出せたかもしれないのに。
遠くに山が見える。緑が増える。のどかな景色にどこかほっとしている自分がいる。あんなに嫌いだった町が、懐かしい町に変わっている。
電車の窓からその町を眺めた。梓とふたりで。
「綾瀬」
外を見たまま梓が言った。
「俺もそう思うよ」
桜雪は黙ってその声を聞く。
「もしも全く違う人生でも、俺は綾瀬に会えたって」
はじめて出会った日。雪が降ってた。梓の金色の髪がすごく綺麗に見えて。
「そして俺はやっぱり……綾瀬のことを、綺麗だって思ったと思う」
ゆっくりと振り返った梓の顔を見る。見つめ合ったら涙が出そうになって、そっと桜雪は目をそらす。
車内のアナウンスが、ふたりの降りる駅の名前を告げた。




