14
薄暗くなり始めた坂道を、桜雪はひとりで歩いていた。
見えてきたのは、学生が住むのには贅沢過ぎる高級マンション。
エントランスの前で足を止める。車から降りてきた男が、桜雪の前に歩み寄る。
「桜雪。おかえり」
桜雪は黙って、その声を聞く。
目の前に立つ和臣は、そんな桜雪に笑いかけ、その手をとった。
「そろそろ戻って来ると思ってたよ。さぁ、僕の家へ行こう」
ぎゅっと握られた左手を、桜雪は黙って見下ろす。
――今日学校に、和臣って人が来たよ。
和臣が梓に何を言ったのか。聞かなくてもなんとなくわかる。
「もう二度と離さないから」
静かに目を閉じた桜雪の首筋に、和臣は印をつけるようにキスをした。
――桜雪のことなら、僕が一番よく知ってる。
その通りだ。そして桜雪も、幼い頃からずっと一緒だった和臣のことを、他の誰よりも知っている自信があった。
だけど……。
「和くん……」
握られた手をそっと振りほどく。
「私は和くんのところへは行かない」
和臣が不思議そうな顔で桜雪のことを見ている。
「私はもう、和くんとは付き合わない。結婚もしない」
しばらく桜雪のことを見つめていた和臣が、ふっとあきれたように息を吐く。
「何を言い出すんだ、急に。今さらそんなことできるわけないだろ?」
もう一度つかまれそうになった手を、桜雪は振り払った。
「和くんのことは嫌いじゃなかった。優しくて頼りになる、お兄さんだったから。お父さんたちの言う通り、和くんと結婚すれば、きっと幸せになれるんだと思ってた」
「そうだよ、桜雪。お父さんもおじいさんも、みんな桜雪の幸せを一番に考えてくれてる。だから桜雪は言う通りにしていればいいんだ」
そう言った和臣の前で、桜雪は首を横に振る。
「違うの。このままじゃ私は幸せになんてなれない。だって私の意思じゃないもの。全部周りに決められた通りに、動いてるだけだもの」
その言葉に和臣が顔を歪ませる。
「私は和くんのことが嫌いじゃないけど……だけど好きだとも思えない。ごめんなさい」
ほんとうは、もうとっくに気付いていた。それなのに、親に決められた道からそれる勇気がなかったのだ。
このまま流れるように生きて、和臣と付き合っているほうが、自分の意思で動くよりも楽だと思っていたから。
それに心のどこかで思っていた。いつかこんな自分を、誰かが救い出してくれるんじゃないかって。
もしかしたら、梓がたすけてくれるんじゃないかって。
そんな甘い期待を、桜雪は持ち続けていたのだ。
「だったらこれからどうするつもりだ?」
和臣の低い声が聞こえて、桜雪の身体がかすかに震える。
「霧島のところへ行くのか?」
桜雪は首を横に振る。
――すごく苦しい。
そう言った桜雪の手を、一度はつかんでくれた梓だったけど、今はもう違う。
甘い期待は、ただの甘えだったのだ。誰かに頼ろうとしていた、自分が甘かったのだ。
「霧島のことが、好きなのか?」
桜雪は自分の気持ちを確かめるように少し黙り込んでから、和臣の前でうなずいた。
「うん。私は、霧島くんのことが好き」
「バカな……」
あきれたようにつぶやいた和臣が、桜雪の肩を両手でつかんだ。
「桜雪! よく考えろ。あんなやつと付き合って、幸せになれると思ってるのか? 母親は頭がおかしいし、そんな母親とできてたって噂されてたようなヤツだぞ? だいたいお前の親が許すはずがない」
「和くん」
和臣が言葉を切る。
「私は和くんの、そういうところが嫌」
「桜雪……」
「自分がそんなこと言われたら、嫌な気持ちになるって考えたことないの? 小学生だってわかることだよ」
目を見開いて桜雪のことを見つめている、和臣に背中を向ける。
「もう来ないで。これ以上和くんのこと嫌いになりたくないの。お父さんには、私から話します」
それだけ言ってエントランスへ入り、オートロックのボタンを押す。その指先が震えているのがわかった。
「桜雪っ、待てよ! 桜雪!」
背中に聞こえた和臣の声は、マンションの中までは追ってこなかった。




