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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
33/50

13

 アパートの階段をのぼり部屋のドアを開けると、カレーの匂いが漂ってきた。

「あ、霧島くん」

 玄関のすぐそばにある狭いキッチンで、桜雪が恥ずかしそうに微笑む。

「おかえり」

「ただいま」

「あのね、居候してるだけじゃ悪いから、今日はカレー作ってみたの」

 梓から目をそらした桜雪が、お玉で鍋をかき回す。

 食欲をそそるような匂いが、梓の鼻をくすぐった。

「霧島くん、お腹すいてる?」

「うん」

「ちょっと待ってて。もうすぐできるから」

 そう言ってこちらを見た桜雪が、梓が持っているコンビニの袋に気がついた。

「何か買ってきたの?」

「ああ、これ。あげるよ」

 梓が差し出した袋を、桜雪が受け取る。中にはコンビニで買ったプリンがひとつ入っている。

「え、私にくれるの?」

「そんなものでよければ。好きだったよな? 確か」

「うん」

 桜雪が本当に嬉しそうに笑った。こんな安物より、もっと美味しいものを食べているはずなのに。


「それから、さ」

「なに?」

 桜雪の顔をまともに見れなくて目をそらす。

「今日学校に、和臣って人が来たよ」

「え……」

「綾瀬の親が心配してるって。だから帰って来いって」

 ちらりと桜雪のことを見る。かわいそうなくらい青ざめた表情で、桜雪は小さくつぶやく。

「霧島くんも……そうして欲しいと思ってる?」

 桜雪の声に胸が痛くなる。

「私に……帰って欲しいと思ってる?」

 桜雪がコンビニの袋を握りしめた。その手がかすかに震えている。

「霧島くんがそうしろって言うならそうする」

「俺は……」

 ――一言、帰れって言ってくれるだけでいい。

 さっきの和臣の言葉が頭に渦巻く。

「俺も、そうしたほうがいいと思う。やっぱり綾瀬はあの家に帰るべきだよ。こんなところにいても、幸せにはなれないから」

 桜雪が小さく息を吐いたのがわかった。

「ごめん」

 傷痕を消すようにキスをして、その身体を抱きしめた。一香が言ったみたいに、このまま連れ去ってしまおうかと思った。

 だけど勢いだけで突き進んだら、きっと失敗する。自分の両親のように、きっとふたりとも不幸になる。


 少しの間黙り込んでいた桜雪が手を伸ばし、ガスコンロの火を止めた。カチリと響く金属音が、何かの終わりを告げているような気がした。

「ううん、謝るのは私のほうだよ。付き合ってもいないのに押しかけて、ご飯なんか作っちゃって……迷惑だったよね?」

 迷惑だなんて思ってない。だけどその言葉は口に出せない。

「それにあの人、大学にまで来るなんて……また何かひどいこと言ったんじゃないの? 私のせいで本当にごめんね?」

 うつむいて、ぎゅっと手をにぎりしめる。桜雪がいま、どんな顔をしているのかわからない。

 梓の前から離れ、桜雪が部屋の奥へ行く。

 わずかな荷物をまとめたあと、桜雪は梓に背中を向け、おもむろに着ていたTシャツを脱いだ。

 ベランダの窓から西日が差し込んでいた。桜雪の背中のラインが、梓の目に映る。

 綺麗だと思った。涙が出るくらい、綺麗だと思った。

 このまま手を伸ばし、背中からその身体を抱きしめたかった。

 身体中にキスの痕をつけて、自分のものにしたかった。


 桜雪が最初の日に着ていたワンピースに袖を通す。和臣が選んで買ってくれたと言っていたワンピースだ。

 結局それを脱ぎ捨てられずに、桜雪はまたあの部屋へ帰っていく。あの男の待つ部屋へ。

「霧島くん。ありがとうね」

 荷物を持った桜雪がそう言った。

「これ、もらっていくね」

 手に持ったコンビニの袋をかざして、桜雪が小さく笑う。

「小学生の頃を思い出しちゃった。霧島くんがうちに、給食のプリンを届けてくれた日のこと」

 そうだよ。何気なく立ち寄ったコンビニでプリンを見たら、あの日のことを思い出して、それを買ったんだから。

 忘れるはずはない。どんなに時が経っても。あの頃のことを忘れるはずはない。


「じゃあ」

 それだけ言って桜雪が背中を向けた。そして振り向かないまま、玄関から外へ出る。

 あっけなくドアが閉まった時、梓はその場に座り込んだ。

 どうしようもない気持ちがあふれそうになって、だけどそれを吐き出せなくて、握ったこぶしで床を叩いた。

「くっそ……」

 カレーの匂いが漂う部屋で、うずくまる。

 ほんとうは自分でもわかっていた。

 彼女の幸せのためだなんて嘘だ。もっともらしい理由をつけて、実は勇気がないだけなのだ。

 あの子の手をとって、ここから逃げ出す勇気が。

 ひとりは慣れているはずなのに、桜雪のいなくなった部屋は、ただ寂しくて哀しかった。

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