13
アパートの階段をのぼり部屋のドアを開けると、カレーの匂いが漂ってきた。
「あ、霧島くん」
玄関のすぐそばにある狭いキッチンで、桜雪が恥ずかしそうに微笑む。
「おかえり」
「ただいま」
「あのね、居候してるだけじゃ悪いから、今日はカレー作ってみたの」
梓から目をそらした桜雪が、お玉で鍋をかき回す。
食欲をそそるような匂いが、梓の鼻をくすぐった。
「霧島くん、お腹すいてる?」
「うん」
「ちょっと待ってて。もうすぐできるから」
そう言ってこちらを見た桜雪が、梓が持っているコンビニの袋に気がついた。
「何か買ってきたの?」
「ああ、これ。あげるよ」
梓が差し出した袋を、桜雪が受け取る。中にはコンビニで買ったプリンがひとつ入っている。
「え、私にくれるの?」
「そんなものでよければ。好きだったよな? 確か」
「うん」
桜雪が本当に嬉しそうに笑った。こんな安物より、もっと美味しいものを食べているはずなのに。
「それから、さ」
「なに?」
桜雪の顔をまともに見れなくて目をそらす。
「今日学校に、和臣って人が来たよ」
「え……」
「綾瀬の親が心配してるって。だから帰って来いって」
ちらりと桜雪のことを見る。かわいそうなくらい青ざめた表情で、桜雪は小さくつぶやく。
「霧島くんも……そうして欲しいと思ってる?」
桜雪の声に胸が痛くなる。
「私に……帰って欲しいと思ってる?」
桜雪がコンビニの袋を握りしめた。その手がかすかに震えている。
「霧島くんがそうしろって言うならそうする」
「俺は……」
――一言、帰れって言ってくれるだけでいい。
さっきの和臣の言葉が頭に渦巻く。
「俺も、そうしたほうがいいと思う。やっぱり綾瀬はあの家に帰るべきだよ。こんなところにいても、幸せにはなれないから」
桜雪が小さく息を吐いたのがわかった。
「ごめん」
傷痕を消すようにキスをして、その身体を抱きしめた。一香が言ったみたいに、このまま連れ去ってしまおうかと思った。
だけど勢いだけで突き進んだら、きっと失敗する。自分の両親のように、きっとふたりとも不幸になる。
少しの間黙り込んでいた桜雪が手を伸ばし、ガスコンロの火を止めた。カチリと響く金属音が、何かの終わりを告げているような気がした。
「ううん、謝るのは私のほうだよ。付き合ってもいないのに押しかけて、ご飯なんか作っちゃって……迷惑だったよね?」
迷惑だなんて思ってない。だけどその言葉は口に出せない。
「それにあの人、大学にまで来るなんて……また何かひどいこと言ったんじゃないの? 私のせいで本当にごめんね?」
うつむいて、ぎゅっと手をにぎりしめる。桜雪がいま、どんな顔をしているのかわからない。
梓の前から離れ、桜雪が部屋の奥へ行く。
わずかな荷物をまとめたあと、桜雪は梓に背中を向け、おもむろに着ていたTシャツを脱いだ。
ベランダの窓から西日が差し込んでいた。桜雪の背中のラインが、梓の目に映る。
綺麗だと思った。涙が出るくらい、綺麗だと思った。
このまま手を伸ばし、背中からその身体を抱きしめたかった。
身体中にキスの痕をつけて、自分のものにしたかった。
桜雪が最初の日に着ていたワンピースに袖を通す。和臣が選んで買ってくれたと言っていたワンピースだ。
結局それを脱ぎ捨てられずに、桜雪はまたあの部屋へ帰っていく。あの男の待つ部屋へ。
「霧島くん。ありがとうね」
荷物を持った桜雪がそう言った。
「これ、もらっていくね」
手に持ったコンビニの袋をかざして、桜雪が小さく笑う。
「小学生の頃を思い出しちゃった。霧島くんがうちに、給食のプリンを届けてくれた日のこと」
そうだよ。何気なく立ち寄ったコンビニでプリンを見たら、あの日のことを思い出して、それを買ったんだから。
忘れるはずはない。どんなに時が経っても。あの頃のことを忘れるはずはない。
「じゃあ」
それだけ言って桜雪が背中を向けた。そして振り向かないまま、玄関から外へ出る。
あっけなくドアが閉まった時、梓はその場に座り込んだ。
どうしようもない気持ちがあふれそうになって、だけどそれを吐き出せなくて、握ったこぶしで床を叩いた。
「くっそ……」
カレーの匂いが漂う部屋で、うずくまる。
ほんとうは自分でもわかっていた。
彼女の幸せのためだなんて嘘だ。もっともらしい理由をつけて、実は勇気がないだけなのだ。
あの子の手をとって、ここから逃げ出す勇気が。
ひとりは慣れているはずなのに、桜雪のいなくなった部屋は、ただ寂しくて哀しかった。




