表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
32/50

12

 梓が声をかけられたのは、その日の午後だった。

 いつものように講義を終え、建物から外へ出た時、近づいてきた男が梓に言った。

「桜雪、君の部屋にいるんだろう?」

 ゆっくりと顔を向け、その声の主を確かめる。間違いない。そこにいるのは、桜雪の婚約者の和臣という男だ。

「悪いね。迷惑かけて。」

 和臣がどこか余裕の笑みを浮かべながら言う。

 ざわめく学生たちの中、スーツ姿の和臣がなぜここにいるのだろう。わざわざ大学まで来て、梓の帰りを待っていたというのか。

「連絡がとれなくて、桜雪のご両親も心配してる。君から帰るように言ってくれないかな?」

 梓が学校とバイトへ行っている間、ずっと部屋に閉じこもっている桜雪。

 いろいろなものから逃げるように、隠れるように。

 そんな生活がいいとは思っていない。結局あの日から、ふたりは何も変わっていないのだから。


「綾瀬は俺に苦しいって言った。だから帰るなって言ったんです」

 梓の声に、和臣がふっと笑う。

「苦しいだって? 一体何が不満だって言うんだ? 親の金で憧れの東京へ出て、好きな大学へ通って、念願の一人暮らしをして。それのどこが不満なんだ? お嬢様がわがままを言ってるだけなんだよ」

「あなたが彼女を、縛りつけてるんじゃないですか?」

 和臣は一瞬驚いた顔をしたあと、声を上げて笑い出した。

「君も言うようになったねぇ。ていうか、生意気なところは小学生の頃から変わらないか」

 そう言った和臣が笑うのをやめ、梓のことを見る。

 以前、見上げるほど大きく見えたその姿も、今では目線が同じ高さだ。


「君に何ができるんだ?」

 和臣が言う。

「金もない、ただの学生の君が、桜雪と暮らしてあの子を幸せにできるのか? 今まで何不自由なく暮らしてきたあの子を、満足させられると本気で思っているのか?」

 梓は和臣から目をそむけた。震えはじめた右手をぎゅっと握る。

「君は君の両親と同じだよ」

 和臣の声が、耳の奥に響く。

「勢いだけで町を出て、あのふたりは幸せになれたか? 仕事も将来のことも何も考えずに、その時の気持ちだけで突っ走って。たとえあの事故がなくても、ふたりはきっと幸せにはなれなかっただろう。それと同じことを、君は桜雪とするつもりか?」

 何も言い返せなかった。

 母親とふたり、見知らぬ土地を転々としていた苦労は、自分が一番よく知っている。

 父親さえ生きていれば、とも思ったが、親子三人幸せに暮らす生活なんて、想像することさえ難しかった。

「君だって馬鹿じゃないんだ。少し考えればわかるよな? 桜雪が将来幸せになるには、これからどうすればよいかってこと」

 簡単だ、そんなの。桜雪はあの家に戻って、この男と結婚すればいい。そうすればお金の苦労をしなくてもいいし、誰かに後ろ指さされることもないのだ。

 和臣が梓の肩をぼんと叩く。

「頼むよ。君が言えばあの子も言うことをきくだろうから。一言、帰れって言ってくれるだけでいい」

 そして梓に笑いかけると、学生たちの間を縫うようにして、門の外へ出て行った。


「なんなんだよ……」

 和臣の姿が見えなくなると、梓は大きく息を吐き、そばにあったベンチにどさっと腰をおろした。

 蒸し暑い風が吹き、それが肌にべったりとまとわりつく。

「さっきの人。桜雪の婚約者じゃないの?」

 突然声をかけられ、驚いて顔を上げた。すると、いつの間にか目の前に立っていた一香が、小さく笑って梓の隣に座った。

「桜雪と、何かあった?」

 一香と話をするのは、別れたあの日以来だ。だけど一香は今までと変わらない調子で、梓に話しかけてくる。

 梓は前を向いたまま、正直に答えた。

「綾瀬がいま、俺の部屋にいるんだ」

「ふうん」

 一香はどう思っただろう。一香と別れて間もないのに、もう桜雪と暮らしているなんて。

 ひどい男だと思っただろうか。だけど仕方ない。それが事実なんだから。

 けれど一香は別に驚いた様子もなく、少し遠くを見つめながらつぶやく。

「私は小学生の頃から思ってたよ。桜雪は梓のことが好きなんじゃないかって」

「え?」

「だから私、梓と付き合ったの。何でも持ってる桜雪に、梓まで取られたくなかったから。意地になってたのかもしれないな」

 そして思い出したようにふっと笑い、梓のことを見て言った。

「私たちって本当に馬鹿。お互いたいして好きでもない人と、四年間も付き合ってたなんてね」

 一香はそう言って笑ったけど、梓は笑えなかった。一香の言葉が本当なのか嘘なのか、わからなかったから。

 そんな梓に向かって一香が言う。


「で、あの婚約者に何て言われたの? 桜雪を返せとでも言われた?」

「……うん。まぁ、そんなとこ」

「まさか梓。それであの人の言う通りにするんじゃないでしょうね?」

 何も答えようとしない梓に、一香が続ける。

「桜雪は何のために梓のところに来たの? あの浮気男と別れたいからでしょ? だったら返す必要なんかない。あんたが連れて逃げちゃえばいい」

「そんな簡単に言うなよ」

 梓の声に一香が一瞬黙る。

「中学生同士が付き合うってわけじゃないんだぞ? そんな簡単にいくわけない」

「じゃああきらめるの? 桜雪のこと。あきらめてあの男に渡しちゃうの?」

「それで綾瀬が幸せになれるなら」

「バッカじゃないの?」

 一香が勢いよく立ち上がり、梓のことをにらみつける。

「それで桜雪が幸せになれるはずないじゃない!」

「俺といたって幸せにはなれないよ」

「どうしてそう決めつけるのよ! やってみないとわからないでしょ!」

「そんなお試しみたいなことしたくないんだよ。失敗して傷つけたくない。一香のこと……傷つけたみたいに」

 ぎゅっと唇をかみしめた一香が、持っていたバッグを梓に向かって振り下ろす。

「バカっ!」

「いって……」

「あんたって結局いっつもそう! そうやって人のことばっかり考えてるふりして、自分の気持ちは吐き出さない。たまには自分のしたいことをしたらどうなのよ! あんたはもう自由なんだから!」

 梓は黙って一香のことを見上げた。一香はそんな梓を見つめて、つぶやくように言う。

「桜雪はね、私の大事な友達なの。桜雪のこと泣かせたら、私、梓のこと許さないよ?」

 ふたりの前を学生たちが、笑い声を上げながら通り過ぎる。

 一香はふいっと顔をそむけて、ベンチに座る梓を残し、立ち去って行く。


「バカバカ言いやがって……」

 バッグで殴られた肩をさすりながら、空を見上げた。

 目に映るのは、赤く染まり始めた空。

 夕陽の差し込むあの部屋に、ひとりぼっちでいる桜雪の姿を想像して、梓はゆっくりとベンチから立ち上がった。

 ――桜雪が将来幸せになるには、これからどうすればよいかってこと。

 さっき聞いた和臣の言葉が頭に浮かぶ。

 ――桜雪のこと泣かせたら、私、梓のこと許さないよ?

 許されなくてもいい。

 たとえ今がつらくても、これから先の長い人生を考えれば、桜雪はやっぱりあの男のもとへ戻るべきなのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ