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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
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11

 背中の痛みで目を覚ます。

 床に敷いた薄い毛布の上で眠るようになって一週間、やっぱりまだ身体が慣れない。

 梓はゆっくりと身体を起こした。

 ベッドの上に視線を移すと、タオルケットに包まれるようにして桜雪が眠っていた。


 ――もう……帰らなくていいよ。

 桜雪にそう言ったのは自分だ。

 痣だらけの手首と、キス痕のついた首筋に口づけて、その細い身体を抱きしめたのも。

 けれど、好きだとか、付き合おうとか言い合ったわけではない。

 桜雪に婚約者がいるという事実は、今も変わらないのだ。


「きりしまくん?」

 カーテンをそっと開けたら、ベッドの上から桜雪の声が聞こえた。

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

「ううん、大丈夫。おはよう」

「おはよう」

 寝起きの顔で、ちょっと恥ずかしそうに桜雪が笑う。

 だけど梓は思っていた。いつ覚えたのか知らない化粧なんかするよりも、素顔の桜雪のほうがよっぽど綺麗だと。

「今日もベッドで寝ちゃってごめんね?」

「いいよ。そんなの」

「私、下で寝るからいいのに」

「いいって」

 毛布を片づけながら梓が言う。

「なんか食べる?」

「うん」

「食パンくらいしかないけど」

「焼いてマーガリンたっぷり塗って食べよう? 昨日みたいに」

 桜雪がそう言って、もう一度笑った。


 床の上に置かれたローテーブルを囲んで、ふたりで朝食を食べた。

 部屋の中に漂うインスタントコーヒーとトーストの香り。つけっぱなしのテレビから、今日の天気予報が流れてくる。

 誰かと一緒に朝食を食べるのなんて、いつ以来か。

 ひとり暮らしを始める前は、祖父母の家で暮らしていた。祖父母と言っても、十二歳になるまで会ったこともなくて、自分と母親のことを迷惑がっていた人たちだ。

 母親がいなくなり、まだひとりでは生きていけない自分を引き取ってくれたことには感謝しているけど、愛情なんて感じたことはない。

 そんな人たちに心を開くこともなく、梓はいつもひとりで食事をしていた。

 だから最後に誰かと朝食を食べたのは……。


「霧島くん?」

 トーストを持った手が止まっていたことに気づき、梓は顔を上げて桜雪を見る。

「どうかした?」

「なんでもない」

 残りのパンを口に入れ、生ぬるくなったコーヒーで流し込む。

 そうだ。最後に誰かと朝食を食べたのは、十五歳の誕生日。

 あの母親とだ。


「俺、学校行くけど」

 それ以上は思い出したくなくて、立ち上がる。

「うん……」

 桜雪が困ったように、視線をそらした。

 この部屋で暮らし始めてからずっと、桜雪は学校へ行っていない。

 一度だけ、荷物を取りに自分のマンションへ帰ったようだけど、それ以外は部屋に籠ったままだ。

「私は……休む」

「そう」

 もしかして桜雪は、外へ出てあの男に会うことを恐れているのかもしれない。

 だったら……だったらどうすればいいのか。

 ――すごく苦しい。

 こんな自分に助けを求めてきた桜雪。その彼女に、自分は何をしてあげられるのだろう。


 服を着替えて荷物をまとめた。

 もうすぐ前期の試験があって、それが終われば夏休みになる。

 そういえば田舎へ帰る電車のチケットがあったことを思い出す。

 夏休みになったら、桜雪はどうするつもりなのか。実家へ帰るのか? いや、そんなことをしたら、またあの男の元へ戻されてしまう。

 ほんの少し先の未来も、梓には見えない。

 そしてその未来は、不安しかないのだ。


 テレビの画面から花火大会の映像が流れていた。

 浴衣を着て、並んで歩く幸せそうなカップル。

 桜雪がリモコンを手に取り、さりげなくテレビを消す。

「今日、いい天気だね」

 そう言って桜雪は、ベランダの窓を開けた。

 朝の風が、どこかよどんだ空気のこの部屋へ流れ込む。

「洗濯してもいい?」

「うん」

「お掃除もしておくね」

 振り向いた桜雪が、小さく微笑む。

 まるで同棲ごっこだ。こんなのは。

 いつ終わるのかわからない、とっても不安定な。

 桜雪はこんな生活を、どう思っているのだろう。


「じゃあ」

 と言って部屋を出た。

 背中に「行ってらっしゃい」という声がかかる。

 空は青く晴れていた。きっと梅雨明けはもうすぐだ。

 それなのに梓の心は、まったく晴れない。

 あの雨の日、桜雪と出会った橋の上で立ち止まる。

 桜雪に、傘をさしかけた。泣き出した彼女を抱きしめ、部屋へ連れてきた。

 だけどその傷跡に、キスをしたのは最初の日だけ。あれから一度も、梓は桜雪の身体に触れていない。

 想像できなかったのだ。

 この先桜雪と笑っている自分が。自分の隣で笑っている桜雪が。どうしても想像できなかったのだ。

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