10
日曜日の午後。外はまだ雨が降っていた。
桜雪の着ていたワンピースは、ハンガーで窓辺に掛けられている。
あの服を、もう着たくはなかった。どんなに高価で素敵なデザインの服よりも、もっと着心地の良い服を知ってしまったから。
大きめのTシャツを着た桜雪の隣で、小さなコンビニのケーキを、梓がフォークで半分に分けた。そしてイチゴののった方を、桜雪にくれた。
何だか申し訳なくなった桜雪の横で、梓はフォークを持って言う。
「いただきます」
「あ、あの……霧島くん」
顔を上げた梓と目が合う。
「あの……お誕生日おめでとう」
桜雪の言葉に、梓が小さく笑った。
隣に並ぶように座って、甘い生クリームを口にする。半分だけのケーキを、大事に大事に味わって食べる。
コンビニのショートケーキを、こんなに美味しいと思ったのは初めてだ。
そんな小さな幸せに浸っていた桜雪の耳に、梓の声が聞こえた。
「小さい頃からさ、俺、母親に誕生日を祝ってもらったことなくて」
「え?」
桜雪がフォークを持つ手を止めて、梓を見る。
「どうして? 霧島くんのお母さん、あんなに霧島くんのこと、可愛がっていたのに」
ケーキを口に運びながら、梓は少し笑ってつぶやくように言う。
「今日は……俺の父親が亡くなった日でもあるから」
「あ……」
そう言えば前に梓から聞いた。お母さんの陣痛が突然始まって、駆け付けようとしたお父さんが自転車で事故に遭ったと。その日、梓が生まれたというのか。
「毎年この日になると思うんだ」
そうつぶやいた梓が最後の一口を口に入れ、ワンピースの向こうの雨を眺める。
「俺の母親は、もしかしたら俺のこと恨んでいたんじゃないかって。だって俺が生まれなかったら、あの人の好きだった『梓』は死ななかったわけだし」
「なに言ってるの?」
桜雪は梓の横顔に言う。
「そんなことあるわけないでしょ? 霧島くん、そんなこと考えてたの? お父さんが亡くなったのは、霧島くんのせいじゃないし、お母さんが霧島くんを恨むわけなんかない」
初めて会った日、幸せそうな表情で、梓に寄り添っていた母親のリエ。息子を溺愛しすぎていたほどの彼女が、梓を恨むなど考えられない。
リエが梓の前から消えたのは、桜雪が彼を「自由にしてあげて」と言ったからだ。
「あれからお母さんとは?」
たったひとりの家で、母親の帰りを待っていた梓の姿を思い出す。
「いなくなって何年かして、手紙が来たよ。でも俺にとっては今さらって感じで。無視してたら最近来た手紙に、もう出さないって書いてあった。私のことは忘れてって」
そう言って、あきらめたように笑う梓の笑顔は、きっと嘘だ。
「いいの? 霧島くんはそれで」
桜雪はフォークを置いて、梓に言った。
「忘れられるの? お母さんのこと」
「忘れられるわけないだろ」
梓が視線を桜雪に移した。そしてかすかに口元をゆるませ、低い声でつぶやく。
「俺、母親に押し倒されて、無理やりキスされたことあるんだ。中学の時。一回だけだけど」
桜雪は言葉を失った。こんな時、何と言ったらいいのかなんて、わからない。
「嫌で、やめてほしかったのに……ただその時はされるがままだった。あの和臣って人が言ってたことは、ある意味本当だったんだよ」
うつむいた桜雪の耳に、梓の声が聞こえる。
「引くだろ? 気持ち悪いと思っただろ? 俺たちのこと」
ただ黙って首を横に振る。そんな桜雪を見て、梓が小さく笑う。
「いいよ、はっきり言って。そんな汚らわしい唇で私にキスなんかするなって。そう言ってよ」
「そんなこと……思ってないよ」
「あの人が見てたのは、最後まで死んだ『梓』のほうだったんだ。俺のことなんか、一度だって見てなかった」
違う。違う。そんなことはない。そう思うのに――。
どうしていいかわからずに、桜雪は手を伸ばし、梓の身体を抱きしめた。桜雪のかすかに震える腕の中で、梓がつぶやくように言う。
「ずっと忘れてたはずなのに。最近そのことを思い出して、吐き気がする。俺は綾瀬より、ずっと汚いことしてる」
梓の身体を抱きしめたまま首を振る。触れたTシャツの上から、梓の身体も震えているのがわかる。
「どんなことがあったって、霧島くんは霧島くんだから……私は霧島くんのこと、嫌だなんて思わないよ」
ため息をつくように息を吐き、梓がかすれる声でつぶやく。
「誰にも言えなかったんだ、こんなこと。四年間付き合った一香にも……」
ゆっくりと身体を離し、梓が桜雪に言った。
「だけど誰かに聞いて欲しかった。吐き出したかったんだ。たぶん……ずっと」
「……うん」
梓の声は、自分の声だ。
苦しさを胸の中に抱え込んで、身動きが取れなくなってしまった自分の……。
いつの間にか、雨の音は消えていた。
窓から差し込む薄い日差しに目を向ける。
窓辺に掛けられたワンピースが、外から入った風にあおられ、ふわりと揺れた。
――もう……帰らなくていいよ。
さっき言われた言葉を思い出す。
――あんな男のところに、帰るなよ。
泣きたくなるほど嬉しかったはずなのに……だけどそれと同じくらい不安な気持ちもあった。
抱き合っても、キスをされても、今の自分たちでは、お互いの苦しさを拭ってあげることはできない。
梓の手が、桜雪の手を引き寄せる。手を握り合ったまま、ふたりとも何も言わなかった。
中学生の頃と同じだ。
何かを話したら、この手が再びほどけてしまいそうな気がして。
なにもできない自分がただもどかしくて、桜雪はその手を握り返す。
やわらかい西日に包まれながら、梓が深く息を吐いたのがわかった。




