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古くて立派な門を開け、白く染まった庭を歩く。
敷地内に建つ三軒の家は、全部親戚だ。その中の一番大きな母屋に、桜雪は両親と祖父と住んでいた。
玄関を開けると母がすぐに顔を出してきて言った。
「お帰り、桜雪。降ってきたね」
ランドセルをおろし上着を脱ぐ桜雪に、母がタオルを差し出してくる。
「風邪、大丈夫だった?」
「うん、平気」
「今日はお父さん、お部屋にいるから」
「はい」
洗面所で手を洗い、古い廊下を歩いて居間へ向かう。その途中の縁側に、祖父がぼんやりと座っていた。
「おじいちゃん」
桜雪の声が聞こえていないのか、祖父はこちらを向こうとしない。ただじっと、窓の外に降り続く雪を眺めている。
桜雪はその姿に、今日初めて会った梓の姿を重ねた。梓もこんなふうに、どこか遠くを見つめるような目で、空から降る雪を見ていた。
「おじいちゃん、ただいま」
少し大きな声でもう一度言うと、祖父がゆっくりと振り返った。そしていつものように柔らかく微笑んで言う。
「ああ、桜雪だね。お帰り」
桜雪は祖父に小さく笑いかけてから、父のいる居間へ向かった。
「お父さん、桜雪です」
そう言ってから襖をそっと開けると、父が炬燵の上に書類を広げ仕事をしていた。
「ただいま帰りました」
「お帰り、桜雪」
学校から帰って父が家にいれば、まず父に挨拶をする。畳の上にきちんと正座をして。それが桜雪の家の決まりだ。
「桜雪、今日はテストが返ってくる日だったな」
父が桜雪に向かって聞く。
「はい」
桜雪はさっきランドセルの中から取り出した、九十五点だったテストを父に渡した。
父は黙ってそれを確認したあと、半分に畳んで桜雪に返してくる。
「また満点がとれなかったのか?」
「でもクラスで一番だったよ」
「父さんが桜雪くらいの頃は、満点がとれて当たり前だった。桜雪にもできるはずだ。次は頑張りなさい」
そんなことを言われても……この点をとるのに桜雪がどれだけ努力をしたか。父はいつだって褒めてくれない。
成績の話はしたくなかったので、桜雪は話をそらした。
「お父さん、今日ね、東京から転校生が来たんだよ」
その声に、父が顔をしかめる。
「霧島さんちの子だな?」
「霧島くんのこと知ってるの?」
「知っているとも。町を出て行ったあの家の娘が、息子を連れて戻って来たと、すっかり噂になってる」
父はかけていた眼鏡を外し炬燵の上へ置くと、ため息を吐くようにつぶやいた。
「まったく、あの女。よくこの町に戻って来れたものだよ」
父が梓の母親のことを「あの女」と呼んだ。
なにか悪いことをしたのだろうか。梓のお母さんのリエさんは。
「梓が死んだのは、あの女のせいなのに」
「梓?」
思わずその名を声に出す。わけのわからない桜雪に向かって、父が言う。
「綾瀬家の娘だったら、あの親子に関わってはいけない。わかったな? 桜雪」
関わってはいけないって、どうして? 父の口にした「あずさ」って誰なの?
「桜雪」
襖の陰から、母が桜雪を呼んだ。
「お台所を手伝ってちょうだい」
「は、はい」
あわてて立ち上がったけれど、体がよろけた。そんな自分を黙って見ている父の視線が怖くて、桜雪は急いで母の元へ行く。
「お母さん」
居間を出て、母と台所に立った。
「お父さんが変なこと言った。うちの学校に転校して来た子のお母さんのこと……梓が死んだのは、あの女のせいだって……」
「桜雪。その人たちに関わったら駄目よ」
母が水道の蛇口を開け、桜雪の顔を見ないまま言う。
「どうして……」
「あなたはお父さんの言う通りにしていればいいの。逆らったら駄目」
逆らうつもりなんてなかった。ただどうしてだか知りたかっただけだ。
母はそれ以上何も言わずに、食事の支度を始めた。桜雪もそれ以上は聞けなかった。
以前この町の町長を務めたこともある桜雪の祖父は、血のつながり合った家ばかりが集まるこの部落を、ずっとひとりでまとめていた。
今では桜雪にとって優しい祖父であるが、昔は誰よりも権力を持ち、親戚の大人たちも近所の人も、祖父に逆らうことはできなかったそうだ。
そして今、この家を仕切っているのは町議会議員をしている父だった。母でさえ、父に意見することはできない。
桜雪も幼い頃からそう教えられてきた。この家にいる限り、これからもそうやって生きていかなければならないのだ。
*
「熱、上がっちゃったわね」
昨日の夜、寒気がすると思っていたら、風邪がひどくなっていた。
「今日は学校休みなさい」
桜雪は布団の中で、母の声にうなずく。
昨日一日降り続いた雪はやんでいた。けれど二階の窓から見える景色は、二十四時間前と全く変わっていた。
あたりは白一色に染まっていたのだ。
ひとりで学校に行けただろうか。雪が積もって喜んでるだろうか。
布団の中で桜雪は思う。転校してきたばかりの梓のことを。けれどそんな淡い気持ちも、昨日聞いた父の言葉に打ち消される。
――梓が死んだのは、あの女のせいなのに。
怖くなって布団を頭からかぶった。体中が熱くて、また熱が上がりそうだ。
ぎゅっと強く目を閉じたら、深い雪の中へずぶずぶと沈んでゆくように、眠りに落ちた。
「桜雪? 具合はどう?」
その低い声にうっすら目を開けると、部屋の中は夕焼け色に染まっていた。
どれだけ眠っていたのだろう。自分自身にあきれているうちに、視界がはっきりとしてきた。
「えっ……和くん?」
ベッドに腰掛け微笑むその顔が、パジャマ姿の自分に向けられていることに気づき、桜雪はあわてて布団をかぶる。
「やだっ、恥ずかしい!」
「何言ってるんだよ、今さら。熱出したんだって?」
そう言って笑うのは、幼い頃から仲の良い、六つ年上の安達和臣だ。
町で一番大きな建設会社の前社長であった和臣の祖父と、町長をしていた桜雪の祖父は古くからの友人で、彼とは小さい頃から兄妹のように仲が良かった。
ただ和臣の祖父はすでに亡くなってしまい、今は和臣の父が安達建設の社長となっている。
「朝日屋のプリン買ってきたぞ? 食うか?」
「……いらない」
「重症だな。桜雪がプリンを食べないなんて」
ははっと笑うその声につられ、桜雪はそっと布団の陰から和臣の姿を見上げる。
ベッドに腰掛ける和臣は、県内でも有名な進学校の制服を着ていた。桜雪もそこを目指すようにと、幼い頃から父に言われている。
そしてそんな父の勧めで週一回、桜雪は和臣から勉強を教えてもらっていた。
「これじゃあ今日の勉強は無理だな」
「うん」
「せっかく来たのに。残念」
そう言って笑ったあと、和臣がじっと桜雪のことを見つめた。桜雪もそんな和臣の顔を見る。
幼い頃から見慣れた優しげな表情。和臣は昔から、桜雪が何をしても許してくれるような、包容力を持っていた。そんな穏やかさの反面、実はものすごい自信家で、自分の意思を最後まで貫く強い面もあった。
十二歳の桜雪にとって、六歳年上の彼は、強くて優しい大人に見えたのだ。
そんな和臣の顔が、ゆっくりと桜雪に近づいてくる。いつものように、桜雪は静かに目を閉じる。するとほんのかすかに、ふたりの唇が触れ合った。
「じゃあ、また来週」
立ち上がった和臣が小さく笑って、部屋を出て行く。
布団の中に横たわったまま、桜雪は指先で自分の唇をなぞった。
和臣と初めてこんなことをしたのは、夏の終わり。
いつものように勉強をして、部屋を出て行く前に、和臣は桜雪にキスをした。
「……なんで?」
「桜雪がかわいいから」
「かわいいとこんなことするの?」
「そうだよ」
照れることもなくそう言って、和臣はいつもと変わらない笑顔を見せる。
和臣がしたのは、かわいい妹にするようなキスなのだろうか。いや違う。妹にキスなんてしない。だったらどうして、こんなことをするのだろう。
この行為にどんな意味があるのか、桜雪はいまだにわからない。
そしてこのことは、他の誰にも話せなかった。