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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
29/50

 小さな傘にふたりで入り、梓のアパートへついて行った。

 二階への階段をのぼる背中を見つめながら、桜雪はものすごく悪いことをしている気持ちになった。

 一香にはもちろん、和臣にさえ。

 けれど引き返すつもりはなかった。梓はこんな自分のことを、どう思っているのだろう。


「上がっていいよ。狭いけど」

 ドアを開けた梓が、後ろに立つ桜雪に向かって言った。

 桜雪は言われたとおりに靴を脱ぐ。

 玄関を上がると小さい流しやコンロがあって、そのすぐ向こうにはベッドがほとんどの場所を占めている、フローリングの部屋が見える。

 桜雪の部屋とは違い、数歩歩けば突き当りのベランダに出てしまいそうだ。

「いま、タオル持ってくる」

 玄関の近くに立ったまま、桜雪はぼんやりと濡れた服を見下ろした。

 和臣が選んで、和臣が買ってくれたワンピース。

 ――桜雪のことなら、僕が一番よく知ってる。

 そう言って、誇らしげに笑う和臣の顔を思い出し、両手でその服をぎゅっと握りしめた。


「綾瀬」

 戻ってきた梓が桜雪の前に立つ。

 そして持っていたタオルを、黙って桜雪の前に差し出した。

「なにも……聞かないの?」

 うつむいたままつぶやく。

 雨の中、髪も服もびしょ濡れになって、傘もささずに立ち尽くしていた。誰が見てもおかしかったに違いない。

「綾瀬が話したいなら話せばいいよ。話したくないなら話さなくていい」

 ゆっくり顔を上げた桜雪の胸に、梓がタオルを押し付けた。

 桜雪はそれを受け取り胸に抱きしめる。そして静かに目を閉じ、昨夜のことを思い出す。

 力ずくでベッドに押し倒された。自由を奪われ、無理やり身体を支配された。

 だけど一番悔しいのは……そんな自分勝手な男の行為に、この身体が悲鳴を上げながら悦んでいたこと。


「霧島くん……」

 中学生の頃、こんな自分のことを「きれいだ」と言ってくれた梓。今でもその言葉を思い出すたび、胸が締め付けられるように痛くなる。

「私は、きたないの……」

 顔を上げ、目の前に立つ梓のことを見る。

「中学の頃よりも、もっともっときたない。私はこんな自分が大嫌い」

 息を吸い、それを深く吐き出しながら声を出す。

「でもどうしたらいいのかわからないの。変わりたいのに変われなくて……すごく苦しい」

 雨の音に消えてしまいそうな細い声は、梓の耳に届いただろうか。


「綾瀬」

 しばらくの沈黙のあと、梓の手が桜雪の手首に触れた。桜雪の身体がぴくりと震える。

 梓はきっと気づいている。和臣に手首をつかまれ、身体を押さえつけられた時についた痣に。

「もう……帰らなくていいよ」

 掠れた声でつぶやいた梓が、桜雪の手首をとり、そっと唇を押し当てた。

「あんな男のところに、帰るなよ」

 そう言って梓は、桜雪の首筋にもキスをする。

 和臣につけられた痕を、ひとつずつ消していこうとするように。

 桜雪の目から涙が落ち、その口から深い息が漏れた。


 梓に身体を引き寄せられた。それに応えるように、桜雪は背中に両手を伸ばす。

 雨の音が聞こえる部屋で、抱きしめ合った。

 自分はいつからそれを、望んでいたのだろう。

 中学生の頃。庭に転がった傘とトマト。降り続く雨。薄暗い部屋。顔を見ないまま握り合った手。

 あの頃から……もしかしたら、もっと前から。

 梓の肌に触れ、その息づかいを感じ、お互いの身体をあたため合うことを……桜雪はずっと望んでいた。



 しばらく抱き合った後、惜しむようにゆっくりと身体を離した。

 目の前の顔を見ることができなくて、ただ熱に侵されたように身体が熱い。

「服……」

「え……」

「着替えたら?」

 顔をそむけた梓が言った。桜雪のワンピースはまだ雨に濡れたままだ。

「俺の服でよかったら貸すから。寒かったらシャワー浴びてきなよ」

 寒くなんかない。身体はどうしようもなく火照っている。

 けれどびしょ濡れのままで部屋にいるわけにはいかなくて、桜雪はうなずき、服とタオルとバスルームを借りた。


 狭いユニットバスの中で、濡れたワンピースを脱ぐ。

 熱いお湯を身体に浴びると、夢から覚めるように、急に現実に引きずり戻された。

 梓にキスされた首筋を指でなぞる。頭に浮かぶのは、一香の顔と和臣の顔。

 何気なく壁の鏡を見ると、腕と首筋以外にも、小さな痣のようなものが身体にいくつもついていた。

 ――好きなんだ、桜雪のことが。他の誰にも渡さない。

 その言葉を桜雪の身体に刻み付けるように、和臣が強く口づけた痕だ。

 ふるりと身体を震わせ、シャワーを止めた。

 借りたTシャツを着て、ハーフパンツをはく。

 タオルで髪を拭いてから、恐る恐るバスルームを出た。ここを出たら、本当に夢から覚めてしまうような気がして、怖かった。

 ドアのすぐ前は小さなキッチンで、梓はそこに立ち、沸いているやかんをぼんやりと見つめていた。


「霧島くん……」

 声をかけると、梓はハッとしたように後ろを振り返り、桜雪の姿を見た。

 きっと梓も考えている。どうしてあんなことをしてしまったのかと。

「あの……服、ありがとう」

「ああ、いや、新しい服じゃなくてごめん。でもちゃんと洗濯してあるし、汚くないよ」

 桜雪がほんの少し笑ってうなずく。梓はそんな桜雪から視線をそらす。

 お互い妙にぎこちなかった。それはきっと、少しの罪の意識と少しの後悔を感じていたから。


「なにか飲む? それともなにか食べる?」

 やかんの火を止めた梓が、背中を向けたまま言う。

「もしよかったら……ケーキ食べない?」

「ケーキ?」

「さっき落としちゃったから、形は悪いけど」

 そう言って梓は冷蔵庫を開け、コンビニの袋から小さなケーキを取り出した。

 確かに形の崩れた、イチゴののったショートケーキだ。

「でもこれ……霧島くんが食べようと思って買ったんでしょ?」

「うん。今日、誕生日だから」

「え、そうだったの?」

「寂しいヤツだろ? 自分でケーキ買って、自分で祝うなんてさ」

 梓が桜雪を見て小さく笑う。桜雪はそんな梓に向かって言う。


「でも一香は? 一香に会わなくていいの? 誕生日なのに」

 桜雪の言葉に、一瞬黙り込んだあと、梓が答えた。

「一香とは……別れたんだ」

「え……」

 なんで? どうして? 頭の中に、その疑問だけが渦を巻く。

「俺が一香を傷つけた。悪いのは俺。だからもう、誰も傷つけたくない」

 そうつぶやいた梓が、持っていたケーキを桜雪の胸に押し付ける。

「あげるよ」

「え、だめだよ。これは霧島くんのだもん」

「いいよ。だって綾瀬、欲しそうな顔してる」

 そんな顔しているつもりはないけど……朝から何も食べていないのは事実だった。

「ありがとう。じゃあふたりで食べよう?」

 ケーキを受け取って、桜雪が言う。

「半分こして食べようよ」

 梓は桜雪の顔を見て、少し笑ってうなずいた。

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