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小さな傘にふたりで入り、梓のアパートへついて行った。
二階への階段をのぼる背中を見つめながら、桜雪はものすごく悪いことをしている気持ちになった。
一香にはもちろん、和臣にさえ。
けれど引き返すつもりはなかった。梓はこんな自分のことを、どう思っているのだろう。
「上がっていいよ。狭いけど」
ドアを開けた梓が、後ろに立つ桜雪に向かって言った。
桜雪は言われたとおりに靴を脱ぐ。
玄関を上がると小さい流しやコンロがあって、そのすぐ向こうにはベッドがほとんどの場所を占めている、フローリングの部屋が見える。
桜雪の部屋とは違い、数歩歩けば突き当りのベランダに出てしまいそうだ。
「いま、タオル持ってくる」
玄関の近くに立ったまま、桜雪はぼんやりと濡れた服を見下ろした。
和臣が選んで、和臣が買ってくれたワンピース。
――桜雪のことなら、僕が一番よく知ってる。
そう言って、誇らしげに笑う和臣の顔を思い出し、両手でその服をぎゅっと握りしめた。
「綾瀬」
戻ってきた梓が桜雪の前に立つ。
そして持っていたタオルを、黙って桜雪の前に差し出した。
「なにも……聞かないの?」
うつむいたままつぶやく。
雨の中、髪も服もびしょ濡れになって、傘もささずに立ち尽くしていた。誰が見てもおかしかったに違いない。
「綾瀬が話したいなら話せばいいよ。話したくないなら話さなくていい」
ゆっくり顔を上げた桜雪の胸に、梓がタオルを押し付けた。
桜雪はそれを受け取り胸に抱きしめる。そして静かに目を閉じ、昨夜のことを思い出す。
力ずくでベッドに押し倒された。自由を奪われ、無理やり身体を支配された。
だけど一番悔しいのは……そんな自分勝手な男の行為に、この身体が悲鳴を上げながら悦んでいたこと。
「霧島くん……」
中学生の頃、こんな自分のことを「きれいだ」と言ってくれた梓。今でもその言葉を思い出すたび、胸が締め付けられるように痛くなる。
「私は、きたないの……」
顔を上げ、目の前に立つ梓のことを見る。
「中学の頃よりも、もっともっときたない。私はこんな自分が大嫌い」
息を吸い、それを深く吐き出しながら声を出す。
「でもどうしたらいいのかわからないの。変わりたいのに変われなくて……すごく苦しい」
雨の音に消えてしまいそうな細い声は、梓の耳に届いただろうか。
「綾瀬」
しばらくの沈黙のあと、梓の手が桜雪の手首に触れた。桜雪の身体がぴくりと震える。
梓はきっと気づいている。和臣に手首をつかまれ、身体を押さえつけられた時についた痣に。
「もう……帰らなくていいよ」
掠れた声でつぶやいた梓が、桜雪の手首をとり、そっと唇を押し当てた。
「あんな男のところに、帰るなよ」
そう言って梓は、桜雪の首筋にもキスをする。
和臣につけられた痕を、ひとつずつ消していこうとするように。
桜雪の目から涙が落ち、その口から深い息が漏れた。
梓に身体を引き寄せられた。それに応えるように、桜雪は背中に両手を伸ばす。
雨の音が聞こえる部屋で、抱きしめ合った。
自分はいつからそれを、望んでいたのだろう。
中学生の頃。庭に転がった傘とトマト。降り続く雨。薄暗い部屋。顔を見ないまま握り合った手。
あの頃から……もしかしたら、もっと前から。
梓の肌に触れ、その息づかいを感じ、お互いの身体をあたため合うことを……桜雪はずっと望んでいた。
しばらく抱き合った後、惜しむようにゆっくりと身体を離した。
目の前の顔を見ることができなくて、ただ熱に侵されたように身体が熱い。
「服……」
「え……」
「着替えたら?」
顔をそむけた梓が言った。桜雪のワンピースはまだ雨に濡れたままだ。
「俺の服でよかったら貸すから。寒かったらシャワー浴びてきなよ」
寒くなんかない。身体はどうしようもなく火照っている。
けれどびしょ濡れのままで部屋にいるわけにはいかなくて、桜雪はうなずき、服とタオルとバスルームを借りた。
狭いユニットバスの中で、濡れたワンピースを脱ぐ。
熱いお湯を身体に浴びると、夢から覚めるように、急に現実に引きずり戻された。
梓にキスされた首筋を指でなぞる。頭に浮かぶのは、一香の顔と和臣の顔。
何気なく壁の鏡を見ると、腕と首筋以外にも、小さな痣のようなものが身体にいくつもついていた。
――好きなんだ、桜雪のことが。他の誰にも渡さない。
その言葉を桜雪の身体に刻み付けるように、和臣が強く口づけた痕だ。
ふるりと身体を震わせ、シャワーを止めた。
借りたTシャツを着て、ハーフパンツをはく。
タオルで髪を拭いてから、恐る恐るバスルームを出た。ここを出たら、本当に夢から覚めてしまうような気がして、怖かった。
ドアのすぐ前は小さなキッチンで、梓はそこに立ち、沸いているやかんをぼんやりと見つめていた。
「霧島くん……」
声をかけると、梓はハッとしたように後ろを振り返り、桜雪の姿を見た。
きっと梓も考えている。どうしてあんなことをしてしまったのかと。
「あの……服、ありがとう」
「ああ、いや、新しい服じゃなくてごめん。でもちゃんと洗濯してあるし、汚くないよ」
桜雪がほんの少し笑ってうなずく。梓はそんな桜雪から視線をそらす。
お互い妙にぎこちなかった。それはきっと、少しの罪の意識と少しの後悔を感じていたから。
「なにか飲む? それともなにか食べる?」
やかんの火を止めた梓が、背中を向けたまま言う。
「もしよかったら……ケーキ食べない?」
「ケーキ?」
「さっき落としちゃったから、形は悪いけど」
そう言って梓は冷蔵庫を開け、コンビニの袋から小さなケーキを取り出した。
確かに形の崩れた、イチゴののったショートケーキだ。
「でもこれ……霧島くんが食べようと思って買ったんでしょ?」
「うん。今日、誕生日だから」
「え、そうだったの?」
「寂しいヤツだろ? 自分でケーキ買って、自分で祝うなんてさ」
梓が桜雪を見て小さく笑う。桜雪はそんな梓に向かって言う。
「でも一香は? 一香に会わなくていいの? 誕生日なのに」
桜雪の言葉に、一瞬黙り込んだあと、梓が答えた。
「一香とは……別れたんだ」
「え……」
なんで? どうして? 頭の中に、その疑問だけが渦を巻く。
「俺が一香を傷つけた。悪いのは俺。だからもう、誰も傷つけたくない」
そうつぶやいた梓が、持っていたケーキを桜雪の胸に押し付ける。
「あげるよ」
「え、だめだよ。これは霧島くんのだもん」
「いいよ。だって綾瀬、欲しそうな顔してる」
そんな顔しているつもりはないけど……朝から何も食べていないのは事実だった。
「ありがとう。じゃあふたりで食べよう?」
ケーキを受け取って、桜雪が言う。
「半分こして食べようよ」
梓は桜雪の顔を見て、少し笑ってうなずいた。




