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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
28/50

 長い長い夜だった。

 抵抗した身体を、泥沼の底へ突き落とされた。息ができずにもがき苦しむ桜雪の姿を、和臣は薄ら笑いを浮かべて眺めていた。

 やがて差し出された和臣の手で、桜雪は沼の中から引き上げられる。全身についた泥を丁寧に舐めとられ、かすかに桜雪の身体は反応する。

 嫌なのに。こんなことは嫌なのに。身体だけがすごく熱い。

「桜雪、こっち向いて」

 唇をかみしめ、顔をそむける。

「どうして僕の顔を見ないんだ」

 目を閉じ、精一杯の抵抗をする。

「桜雪。こっちを向きなさい」

 手首を強くつかまれ、ベッドに押し付けられた。

「悪い子には、お仕置きが必要だな」

「やっ……」

 身体をよじらせ抵抗した桜雪の首筋に、和臣が唇を押し当てる。

 そしてその身体はまた、深くて暗い沼の中へ沈められていくのだ。



 永遠に続くかとも思われた、長い夜が明けた。

 いつ眠ったのだろう。気を失っていたのかもしれない。気づくと部屋は明るくなっていて、ひどく乱れたシーツの上に桜雪は横たわっていた。

「桜雪。起きたか?」

 遠くから和臣の声が聞こえる。キッチンからコーヒーの香りが漂い、リビングではほとんど音の出ていないテレビが朝の番組を流していた。

「飲むか? 桜雪の好きな甘いホットミルク」

 ぼんやりと横たわったままの桜雪の前に、カップを手にした和臣が現れる。

 幼い頃、雪に閉ざされたあの町で、母の作ってくれたホットミルクを和臣とふたりで飲んだ。

 甘くておいしいね、と笑い合いながら。

 そんな頃もあったのだ。やさしくて、あたたかい思い出も。

 だからこそこんな男に、いつまでも自分は縛られ続けるのか。

 桜雪が黙って首を振ると、和臣はそれをベッドの脇のテーブルへ置いた。


「昨日は悪かった」

 ベッドの上に腰かけた和臣が、ぐったりとした桜雪の髪に触れる。

「痛いことして、悪かった。だけど桜雪がいけないんだぞ? 僕のことをちゃんと見ないで、他の男のことなんか考えてるから」

 桜雪は何も言わずに目を閉じる。痛みも恐怖も怒りも……全部通り越してしまった。心の中はからっぽだ。

「桜雪。ここで一緒に暮らさないか?」

 和臣の声が耳の奥へ入り込んでくる。

「僕は桜雪だけを見るよ。もうよそ見はしない。だから桜雪も、僕だけを見て欲しい」

 静かに目を開くと、桜雪のことを見下ろしている和臣の顔が見えた。

「好きなんだ、桜雪のことが。他の誰にも渡さない」

 そうつぶやいた和臣が、桜雪の唇にキスをする。抵抗する力もなく、桜雪は黙ってそれを受け入れた。



 ベッドの上で下着をつけ、昨日のワンピースを着る。

 和臣が他の女と寝たこのベッドには、絶対近づきたくなかったのに。

 重たい身体を動かし、部屋にあった鏡を見た。首筋に和臣につけられた印のような痕があり、それに触れようとした手首にも痣が残っていた。

 ミルクには口をつけず、床に投げ捨てられているバッグを手に取ると、着替えをしてきた和臣が言った。

「支度できたか? 送るよ」


 食事でもしないか、という和臣の誘いを断って、車で家まで送ってもらった。

 日曜日の昼近く。街にはしとしとと雨が降っていた。

「さっき言ったこと、考えておいてくれよ」

 車から降りた桜雪に、和臣が言う。

「このマンションを引き払って、僕の部屋へおいで。待ってるから」

 和臣は軽く手を振ると、エントランス前で立ち尽くす桜雪の前から去って行った。


 車が見えなくなってから、桜雪はマンションを見上げた。

 細い雨の中に建つ立派なマンションは、桜雪の親が選んだものだ。

 住む部屋も、着る服も、結婚相手も、すべて自分で選んだものではない。

 蒸し暑いはずなのに、身体が震えた。それでもマンションへは入らず、桜雪は雨の中へ一歩を踏み出す。

 部屋を捨て、服を捨て、結婚相手を捨てる。

 そんなこと、できるわけはないとわかっているのに……それでも桜雪はもうこれ以上、ここにいたくなかった。


 静かに降り続く雨の中を濡れながら歩いた。傘をさした人たちは、雨に濡れる桜雪の姿を遠慮がちに見ては目をそらす。

 こんな自分に傘をさしかけてくれる人など、誰一人いないのだ。

 なんとなく足は大学の方向へ向かった。日曜日なので、数人の人が歩いている以外、ひと気はない。桜雪は門の前を通り過ぎ、あてもなく歩く。

 パンプスを濡らし、子どものように水たまりを踏みしめ歩いていると、小さな川に架かる橋にさしかかった。

 桜雪は橋の上で立ち止まり、欄干に手をかける。あの町の、あの場所とよく似ていた。

 川に沿って並んでいる桜の木。どうしてか、小学生の頃を思い出す。

 ――春になったら……一緒に行く?

 ――うん。連れてって。

 梓とした、ふたりだけの約束。

 川の流れを見つめながら、あきれたように小さく笑った。

 どうして今さら、そんな約束を思い出すのだろう。そんな約束、叶うわけないのに。


 欄干から手を離し、また歩き出そうとした。雨の中に一歩踏み出したら、向こうから橋を渡ってくる人の姿が見えた。

「……綾瀬?」

 コンビニの袋をぶら下げたその人が、桜雪の前に駆け寄り立ち止まる。

「霧島くん……」

「どうしたんだよ? こんなところで」

 どうもしないよ。そう言って微笑むつもりだった。いつものように。なのにそれができなくて……。

 涙が一粒、雨の雫と一緒にぽろりとこぼれた。それが足元に落ちたら、もっともっとあふれ出して止まらなくなった。

「ごめんね……泣いたりして」

 黙って首を振った梓が、持っていたビニール傘をさしかける。

 その途端、張りつめていたものが切れたように、桜雪は泣き声を上げ、梓の身体にしがみついた。

「綾瀬……」

 戸惑う梓の声が聞こえる。

 こんなことはいけないのに。一香に悪いのに。だけどもう止まらなかった。

 声をしゃくりあげ、梓の胸に顔をうずめた。ごめんなさい、ごめんなさいと、心の中で繰り返す。

 やがて桜雪の足もとに、コンビニの袋が落ちた。それと同時に、あたたかい手が背中に触れる。

 狭い傘の中、梓に背中を抱き寄せられた。桜雪は泣きながら、目を閉じる。

 しとしとと降る雨は、まだ止みそうになかった。

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