7
西日の差し込む部屋の中、ベッドの上に横たわったまま、桜雪はぼんやりと天井を見つめていた。
耳を澄ますと、和臣の浴びているシャワーの音が聞こえる。
時計の針は、午後六時を回っていた。重たい身体をのろのろと起こす。その途端、鈍い痛みが身体に走った。
「今日はしたくない」
一時間前。そう言った桜雪の身体を、和臣は力ずくでベッドに押し付けた。
「最近わがままがすぎるぞ?」
「いやなの」
「好きな男でもできたか?」
顔をそむけた桜雪に笑いかけ、和臣は桜雪の服を強引に脱がす。
嫌がれば嫌がるほど和臣の力は強くなり、いつもよりも激しく身体を求められた。
「シャワー浴びなくていいのか?」
ベッドに腰掛け、下着をつけている桜雪に和臣が言う。
桜雪が答えなかったら、和臣はタオルで髪を拭きながらその隣に座った。
「今夜の食事会。そんな顔してたらダメだぞ?」
さっきの乱暴な行為とは反対に、子どもを諭すような甘い声で和臣が言う。
「僕と仲良くやっていることを両親に見せないと、帰って来いと言われるだろう?」
桜雪はただ黙ったまま、父親のことを考えた。
桜雪が高校受験に失敗してから、父はあからさまに桜雪に厳しく当たるようになった。
もしかして父は、桜雪が試験を放棄したことに気づいていたのかもしれない。
高校生になると桜雪もそんな父に反発するようになり、親子の仲は悪くなるばかりだった。
大学は、家から通える学校を受けるよう、父から言われた。
けれど桜雪は東京の大学を受験して、無事そこに合格した。
もちろん親は不満そうだったが、それなりに名の知れた大学だったからだろうか。
卒業後には町へ戻り、実家の建設会社を継ぐことになっている和臣との結婚を条件に、四年間の東京での一人暮らしが許された。
東京で暮らす和臣に、何人もの女がいることも知らずに。
今日のために用意された、ふんわりとしたワンピースに袖を通す。
「よく似合ってるよ、桜雪」
この服を選んだのは和臣だ。
「桜雪のことなら、僕が一番よく知ってる。好きな食べ物から、悦ぶキスの場所までな」
冗談ぽくそう言ってから、和臣は付け足す。
「他のどんな男よりも」
ワンピースの上から腰を引き寄せ、和臣は桜雪の首筋にキスを落とした。
――桜雪も好きにしたらいい。
女遊びがばれても、悪びれる様子もない和臣を見返してやりたくて、高校生の頃は何人もの男と付き合った。
けれどそれを知っても、和臣はヤキモチすら焼かず、逆に堂々と他の女と付き合うようになった。
結局桜雪に残ったものは、虚しい気持ちと自分の身体についた傷だけ。
あの家にいたくなくて東京へ出てきたけれど、和臣と付き合うのも、もうどうでもよくなっていた。
「まぁまぁ、桜雪ちゃん、綺麗になって」
都内にある、夜景の綺麗なホテルのレストラン。和臣にエスコートされて到着すると、久しぶりに会った和臣の両親が、桜雪を見て目を細めた。
「そんなことないですよ。親が甘やかしたせいか、わがままで困ってるんです」
先に来ていた桜雪の父親が、そう言って笑う。
桜雪は和臣と一緒に席についた。東京で両家族と会うのは今夜が初めてだ。
「お父さん、おじいちゃんは?」
そういえば祖父がいない。今夜はめずらしく、両親と一緒に来ると聞いていたのに。
「ああ、おじいさんはね、ちょっと体調を崩して入院しているんだよ」
「入院?」
「それは心配ですね」
桜雪の隣で和臣が眉をひそめる。
「大丈夫なの?」
「今は大丈夫。もうすぐ退院できるだろう。ただもう年だからな。何が起きるかわからないから、覚悟だけはしておいたほうがいい」
「そんな……」
桜雪が町を出るまではそんなことなかったのに。
「そこでだ。今夜ここに集まってもらったのは、和臣くんと桜雪に相談があったからなんだ」
嫌な予感がした。父の相談など、きっとろくなものではない。
「ふたりの結婚を少し早めてもらえないだろうか。おじいさんが元気なうちに、桜雪の花嫁姿を見せてあげたいんだ」
「え……」
結婚? 花嫁姿? まだ十九歳になったばかりだというのに。
「形だけでもいいんだよ。桜雪はまだ学生だし、和臣くんは東京での仕事がある。あの町へ戻って来るのは予定通り四年後でかまわない」
桜雪はテーブルの下で、両手を握りしめた。
大人たちがどうしてそんなに結婚をすすめるのか。幼かった頃はわからなかったけど、今なら少しわかる。
町で一番大きな建設会社を営む安達家。たくさんの土地と、元町長や町議会議員という肩書を持つ綾瀬家。
両家はお互いの財力や資産や権力を必要としていた。そのために和臣と桜雪を結婚させ、家同士のつながりをもっと深めたいと思っていたのだ。
桜雪の気持ちなど、関係なく。
「僕はかまいませんよ。お世話になったおじいさんを早く安心させてあげたいですし、そうすれば桜雪と一緒に暮らせる。やっぱり女の子の一人暮らしは心配ですから」
よく言う。そんなことを言って、他の女のことはどうするつもりなのだろう。まさか結婚しても、女遊びを続けるつもりなのだろうか。
「桜雪はどうだ?」
父が聞く。母や和臣の両親の視線が、自分に集まっているのを感じる。
「そんなの……決められない」
桜雪の声に和臣が続ける。
「桜雪の気持ちもわかりますよ。桜雪はまだ学生ですし、突然結婚と言われてもピンとこないんでしょう。まだやりたいこともたくさんあるでしょうし」
そう言って和臣は、ちらりと桜雪の顔を見る。
「そうよね。私たちは無理を言っているのではないのよ?」
そう語りかけてくるのは、和臣の母だ。
「でもね、桜雪ちゃんみたいな若くて綺麗なお嫁さんが和臣のところへ来てくれるなら、こんなに嬉しい話はないわ。ねぇ、お父さん?」
「そうだな。でもまぁ、遅かれ早かれ桜雪ちゃんはうちに来るんだし。あまりせかしてもかわいそうだろう」
「申し訳ありません。桜雪はまだまだ子どもで」
母が和臣の両親に謝っている。桜雪のことを子どもだと。
料理が運ばれてきて、その話題は保留となった。
ほんとうは今すぐこの場所を飛び出したかったけれど、そんなことをしたら、きっとまた子どもだと言われる。
おとなしく料理を口に運びながら、そういえば前にもこんなことがあったと思い出した。
和臣と結婚するのだと、はじめて父に言われた日。桜雪は店を飛び出し、あの町の片隅で梓と会った。
――親と喧嘩なんてするんだ。綾瀬でも。
そう言って笑った梓の顔を、なんとなく思い出す。
あの頃はまだ楽だった。泣いたり怒ったり、自分の気持ちを少しは吐き出せたから。
だけど今は違う。少しだけ大人になった分、桜雪はたくさんの気持ちを無理やり胸の奥に閉じ込めた。
食事会のあと、ホテルに一泊するという両親たちとロビーで別れる。
「夏休みには帰ってこれるんでしょ?」
母の言葉に桜雪はうなずいた。
「おじいさんに会いに来てあげて。きっと喜ぶわよ」
「うん。わかった」
それだけ言って背中を向けた。エントランスを出ると、和臣が車で待っていた。
「また怒ってるのか?」
ゆっくりと車が動き出す。
「桜雪は真面目に考えすぎだ。結婚と言っても形だけだろ? 今とほとんど変わらないさ」
「今と同じように、他の女の人とも付き合うってこと? 和くんは」
前を見たまま、和臣がふっと軽く笑う。
「そんなことしないよ。結婚したら、もちろん桜雪だけだ」
「信じられない」
そうつぶやいて窓の外を見る。東京の街のネオンが、次々と現れては消えていく。
そんな桜雪の耳に、和臣の声が聞こえた。
「だったら桜雪はどうなんだよ」
ゆっくりと、運転している和臣の横顔を見る。
「お前こそ、好きなやつがいるんじゃないか? たとえば……霧島とか」
思わず首を振った桜雪の隣で、和臣が小さく笑う。
「それとももう寝たのか? あいつと」
「そんなことしてない!」
そんなこと、するはずがない。
けれど桜雪は思い出してしまった。この前梓に、この手を握りしめられたことを。
唇をかみしめて、和臣が選んだワンピースを膝の上でつかむ。そんな桜雪の姿を、和臣がちらりと横目で見る。
それきり黙り込んだ和臣は、しばらく車を走らせ、桜雪の家ではない駐車場へ車を停めた。
「え……どうして?」
「今夜はうちに泊まれよ」
そこは和臣の住むマンションの駐車場だった。
「いや。帰る」
「桜雪だけだってことを教えてあげるんだよ」
そう言い捨てた和臣が車から降り、外から助手席のドアを開けた。
「降りなさい」
「いや!」
「お父さんが言ったように、僕も桜雪のことを甘やかしすぎたみたいだな」
和臣が桜雪の腕をつかんだ。その力が強すぎて、思わず顔をしかめる。
「降りるんだ」
首を横に振って抵抗した桜雪の腕を、和臣が思いきり引っ張った。
「いいから降りろ! 言うことを聞け!」
強い口調で言われ、身体がこわばった。そのまま引きずられるように車から降ろされる。
幼い頃から知っている和臣のことを、怖いと思ったのはこの夜が初めてだった。




