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窓から差し込む陽が高い。
いま何時なんだろう……。
そんなことを思いながら、梓は布団の中で寝返りを打つ。
バイト代で生活費をやりくりし、奨学金をもらいながら通っている大学。理由もないのに休むなんて、許されないと思う。
だけど身体が動かなかった。布団から起き上がろうとしても、どうしてもそれができない。
いろんなことが頭の中をぐるぐると回って、それを考えるだけで頭が痛い。
というのはきっとただの言い訳で、たぶん自分は一香にも桜雪にも会いたくなくて、逃げているだけなのだと思う。
ぼんやりと布団の中でスマートフォンを眺めていると、一香からのメッセージが入った。
――今日学校来てないの?
一香の顔を思い出しながら返事を返す。
――休んだ。
――どうしたの? 具合でも悪いの?
少し考えてから返事をする。
――なんでもないよ。大丈夫。
既読の文字が現れたあと、一香からの言葉は返ってこなかった。
それからどのくらい眠ってしまったのだろう。
ドアを叩く音で梓が目を覚ますと、部屋の中は西日に包まれていた。
身体がだるくて、そのまま無視しようとしていたら、ドアの向こうから声が聞こえた。
「梓? いるの?」
一香の声だ。
「いるなら開けてくれない? 荷物が重いの」
梓は無理やり身体を起こし、玄関へ向かい鍵を開いた。
「ひどい顔してる」
「寝てたから」
玄関先に立ったまま、一香は手を伸ばして梓の額に触れる。
「熱はないみたいね」
「ないよ。大丈夫だって言ったろ?」
「最近寝不足だったでしょ? それからちゃんとご飯食べてる?」
そう言いながら部屋に上り込んだ一香が、テーブルの上にスーパーの袋をふたつ置く。
何が入っているのか知らないが、パンパンに膨らんだその袋はずいぶん重たそうだ。
一香の、こんなふうにお節介なほど世話好きなところは、中学の頃から変わらない。
「食べ物とか飲み物とか、適当に買ってきたから。しっかり食べなきゃダメだよ」
そういえば最近ろくに食事をとっていなかった。お腹もすかなかったし、食べたいとも思わなかったから。
「うん。わかった」
素直にうなずいた梓を見ると、一香はほんの少し笑って、力が抜けたようにその場に座りこんだ。
「あの日からだよね?」
「え?」
「私があんなこと言った日から……梓、おかしくなったよね」
梓も黙って一香の隣に座る。
一香は袋の中から、果物やパンや缶詰や栄養食品などをひとつひとつ取り出して、テーブルの上に並べている。
「私があんな……エッチしたいみたいなこと言ったから……それに応えようと無理してくれたから……」
「無理なんかしてないよ……」
情けないのは、その行為を最後までできなかった自分自身だ。
けれど一香は首を振る。
「ううん、いいんだ。わかってる。ずっと断りたくても断れなかったんでしょ?」
「違う……」
「違わないよ。最初からそうだったよね? 『付き合って』って言ったのは私から。初めてキスしたのも私から。エッチしたいって思ったのも私から。梓の本当の気持ちを、私一度も聞いたことないよ」
一香の手が、テーブルの上で止まる。
「私が『別れよう』って言えば、『いいよ』って答えてくれるんでしょ?」
「一香……」
「私のことなんて……なんにも好きじゃないんでしょ?」
「そんなことない」
うつむく一香に向かって梓は言う。
「なんにも好きじゃない子と、四年間も付き合ったりしない」
一香の膝の上に、ぽたりと涙の粒が落ちる。
「小学生の頃から、思ってた。一香は思ったことをはっきり言えて、嘘をつかなくて、真っすぐ素直で羨ましいって」
「なに言ってんの」
「ほんとだよ。一香は俺の持ってないものを持ってるから。いつも尊敬してた」
「バカだね」
うつむいて涙をこぼしながら、一香が小さく笑う。
「それ、きっと恋じゃないよ。私の好きと梓の好きは、種類が違う」
ゆっくりと顔を上げた一香は、持っていたショルダーバッグの中から一枚のチケットを取り出した。
「これ渡すね。前に頼まれた特急の指定席。私はバイトが入っちゃったから、梓ひとりで行ってきなよ」
一香が梓の手にそれを握らせる。
そう言えば少し前に、ふたりで約束した。夏休みには電車に乗って、一緒にあの町へ帰ろうと。
梓は全く乗り気ではなかったが、たまには祖父母の家に顔を出した方がいいと説得され、一香にふたり分のチケットを買ってきてくれとお金を渡してあったのだ。
「もう無理しなくていいよ、梓」
梓の手を離しながら一香が言う。
「梓のこと、自由にしてあげる」
ひとり分のチケットを握りしめたまま、梓は黙って一香を見る。
「別れよう。私たち」
そう言った一香が、泣きながら笑った。
パタンとドアの閉まる音を聞いても、梓は動こうとしなかった。
好きだったら……ほんとうに好きだったら、すぐに追いかけて行くはずだ。追いかけて、その手をつかんで、「行くな」って言うだろう。
だけどそれをしなかったのは……きっとそういうことなのだ。
立ち上がって外へ出た。アパートの階段を降りると、ひとりで歩いて行く一香の背中が見えた。
何度も何度も見送ったその背中。女の子にしては背が高くて、背筋がぴんと伸びていて、どこにいてもすぐにわかった。
はじめてその背中を抱きしめた時、小さく震えていた感触まで、今でもはっきり覚えている。
「一香!」
足を止めた一香が、ゆっくりと振り返る。一香の後ろから夕日が当たり、彼女の影を長く伸ばす。だけどその影は、梓のところまでは届かない。
小さく息を吸い込んで、梓はいまの気持ちを一香へ伝える。
「ごめん! 一香のこと、ちゃんと考えてあげられなくてごめん!」
こんな結末になるのなら、もっと早く気づくべきだった。
梓に想いをぶつけてきた一香。その気持ちに応えてあげなきゃいけないと思っていた。
自分の本当の気持ちは、胸の奥にしまい込んだまま。
一香のことを想っているつもりが、逆に傷つけているだけだったのだ。四年間も、ずっと。
「ほんとに……ごめん」
頭を下げた梓に向かって、一香が微笑む。
そしてその場に立ったまま、大きな声で言った。
「許してあげるよ!」
梓がゆっくりと顔を上げる。
「梓のこと許して……忘れてあげる!」
そしていたずらっぽく笑うと、手を上げてそれを軽く振った。
「バイバイ!」
いつもと同じ別れ方だった。このまま明日になれば、何も変わらず付き合っているんじゃないかとさえ思う。
だけど違うのだ。
一香とキスすることも、その身体を抱きしめることも、淡い将来の夢を語り合うことも、もうないのだ。
一香の姿が見えなくなるまで見送って、ひとりで部屋へ帰った。
床に転がっているペットボトルを手に取ってから、テーブルの上に並んだ品物を眺める。
「こんなにひとりじゃ食べきれないだろ……」
両手に荷物を抱えて歩く一香の姿を想像して、力なく口元をゆるませる。
「バカだな……ほんと」
キャップを開けたスポーツドリンクを、空っぽの胃の中に流し込む。
その味はいつもよりずっと、苦い味がした。




