5
あの雨の夜から、一香とはぎこちないままだ。
毎日講義が終わったあとに会うけれど、たいした会話もせず、すぐに別れる。
一香は梓の部屋に来なくなって、自分の部屋に呼ぶこともない。
別れ際にしていた軽いキスもしなくなった。
やっぱりあれは間違っていたのだ。
去って行く一香の背中を見送りながら、梓は思う。
――どうして、私にキス以上のことをしてくれないの?
その言葉と届いた手紙にあおられて、一香の気持ちも確認せず、ほぼ無理やりにその行為をしようとした。
できないくせに。
結局一香を傷つけて、恥ずかしい思いだけをさせてしまった。
頼りない日差しの下、駅へと向かう学生たちに混じって構内を歩く。
周りの笑い声を聞きながら、どこか自分は人とは違うと感じていた。
一香と付き合っていた高校生の時も、部活の仲間と笑い合っていた中学生の時も、母親とふたり、引っ越しを繰り返していた小学生の時も。
大勢の中にまぎれていても、心から笑えていない自分に気がついていた。
一香はこんな男のどこがいいのだろう。
そして自分は……どうして一香と付き合っているのだろう。
梓の住むアパートは、駅とは反対方向だった。人の流れから外れるように、門を出て右へ曲がる。
すると長く続く街路樹の下に、一台の赤い車が停まっているのが見えた。
「綾瀬……」
その場に立ち止まり、前を見つめてつぶやく。
運転席から降りてきた男に声をかけられ、車に近づく桜雪の背中が見える。
彼女のそばにいる男は、あの町で何度か見た、桜雪の婚約者の和臣という男だ。
そんなふたりの姿を見ていたら、中学の卒業式の日を思い出した。
あの日も梓はこうやって見ていた。
寄り添い合うようにして車に乗り込んでいく、桜雪の背中を見ていた。
見ているだけで、何をすることもできずに。
「綾瀬!」
つい名前を呼んでいた。車に乗り込もうとしていた桜雪が、静かに振り返り梓を見る。
「霧島くん……」
隣の和臣が少し驚いた顔をしたあと、ふっと口元をゆるませる。
「ああ、君か。桜雪と同じ大学だったの? 偶然だなぁ」
スーツを着た和臣の手が、桜雪の腰を引き寄せた。梓はそんなふたりを黙って見つめる。
自分が何をしたいのかも、わからないまま。
「桜雪は知ってたの? 霧島くんがいたこと」
「うん。この前会って……」
「よかったじゃないか。同じ地元出身者がいて。何かと心強いだろ」
そう言って薄く笑った和臣の言葉が、本心じゃないことはすぐにわかった。
桜雪の腰をしっかりと抱く手。そんなふたりをただ見ているだけの梓。
言葉にしなくても自分のほうが優位なのだと、和臣は言いたいのだ。
だけど……。
――女の人がいるから。
この前聞いた桜雪の言葉が頭に浮かぶ。
「じゃあ行こうか、桜雪」
和臣の声に促され、桜雪が梓に背中を向ける。
「どうして……」
どうしてそんな男について行くのか。傷つくのはわかっているのに。どうしてさらに自分を傷つけようとするのか。
「行くなよ!」
気づくと、車に乗り込もうとしている桜雪に駆け寄っていた。桜雪が顔を上げて梓を見る。
「どうして行くんだよ。行くのやめろよ」
「なに言ってるの? 霧島くん」
梓の前で、桜雪が小さく笑う。
「私、和くんと付き合ってるの。好きだからそうしてるの」
「嘘だ」
「なんで嘘なの?」
「綾瀬が全然楽しそうにしてないから」
桜雪がすっと顔をそむける。もう一度声をかけようとした梓の前に、和臣が立ちふさがる。
「いい加減にしろよ、君。おかしいんじゃないか? 突然人の彼女にそんなこと言って。やっぱりあの母親の息子だな」
和臣はそう言うと、桜雪を車の中へ押し込んだ。一瞬振り返った桜雪と目が合い、そしてそれはすぐに遮られる。
和臣の手でドアが閉じられて、桜雪の姿は見えなくなった。
「そういえばさ」
車の前に立った和臣が言う。
「君のお母さん、あの町に戻って来たらしいね。見かけた人がいるって聞いたけど?」
「え……」
「今さらよく帰って来れたよね。やっぱり変わってる人だよ、君のお母さんは。普通の神経の持ち主だったら、たったひとりであの集落には戻って来れないだろう」
梓は黙ってうつむいた。悔しいけれど言い返せない。本当のことだと思うから。
そんな梓を見て和臣はふっと笑うと、ささやくような声で言った。
「で、本当のところどうだったの? 君たち親子ができてるって噂」
その言葉に身体が熱くなった。うつむいた顔を上げたいのに上げられなくて、震えはじめる自分の手を強く握る。
雨の音。酒と女の匂い。耳元にかかる息。滑る指先。生ぬるい唇。
気持ち悪い。こんな自分はものすごく汚い。
「霧島くん」
息を吐きながら顔を上げる。車から降りた桜雪が立っている。
「桜雪、どうした? 車に乗ってなさい」
「いや」
和臣の声に桜雪が答える。
「和くんは間違ってる。和くんが霧島くんのお母さんの悪口を言う権利なんてないよ」
「どうしたんだよ、急に。桜雪、おかしいぞ?」
「おかしいのは和くんだよ。そんなこと言う和くんだったら、一緒になんかいたくない。私、霧島くんと帰る」
一瞬黙った和臣が、すぐに声を上げて笑い出す。
「まったく、わがままなお嬢さんだなぁ。わかった、わかった、好きにしろ。霧島クンは昔から、桜雪のお気に入りだもんな」
和臣の手が伸び、桜雪の背中を乱暴に押す。よろけた桜雪の身体を、梓が受け止める。
「だけど週末の食事会は必ず参加するんだぞ? 田舎から出てくるお父さんたちに、僕たちが仲良くやっているところを見せなくちゃいけない。土曜日、桜雪の部屋まで迎えに行くよ」
和臣はそう言うと、背中を向けて車に乗り込んだ。そしてふたりの前から去って行く。
車が見えなくなると、桜雪が小さな声でつぶやいた。
「ごめんね、霧島くん。和くんがヘンなこと言って」
何て答えればよいのかわからなかった。和臣に言われたことは、全部ほんとうのことだと思ったから。
「別に綾瀬が謝る必要ないだろ」
そう言って身体を離し、顔をそむける。
桜雪といると自分の汚さが浮き彫りになっていくような気がして、なんだか辛い。
「そうだね。私が謝ることじゃないよね。ごめん」
「だから謝るなって」
顔を向けたら、困ったようにこちらを見ている桜雪と目が合った。どんなに見た目が変わっても、こんな不安げな表情は昔のままだ。
「……送るよ」
つぶやいた梓の前で、桜雪は少し笑って首を横に振る。
「大丈夫。『霧島くんと帰る』って言ったのは嘘。あんなこと言うあの人と、一緒にいたくなかっただけ」
梓は黙って桜雪を見る。そんな梓の前で桜雪は言う。
「でもほんとは少し嬉しかったんだ。霧島くんに『行くなよ』って言ってもらって。なんとなく今日は、和くんと会いたくなかったから。だから、ありがとうね」
桜雪が梓を見て笑った。だけどその笑顔は心から笑っているようには見えなかった。
会いたくなかったのは、今日だけではないんじゃないか? いつも自分に嘘をついて、無理して付き合っているんじゃないのか?
勝手な想像が頭の中を駆け巡ったら、今まで抑えていた気持ちが一気にあふれ出た。
片手を伸ばし、その腕をつかんだ。桜雪がぴくりと身体を震わせる。
そのまま自分の手を滑らせ、桜雪の手を握りしめる。そうしたいと思ったから。
自分からこんな気持ちになったのは、初めてか……いや違う。前にも一度だけ、こんな気持ちになったことがある。
雨の中、桜雪がトマトを持ってあの家に来た日。目の前で泣いていた桜雪の手を、自分から握りしめた。
――ちょっと人恋しかったから。
違う。そうじゃない。
桜雪だったから。桜雪だったから、そうしたかったんだ。
「霧島くん……」
つながり合った手を見つめ、桜雪がつぶやく。
「一香に……悪いよ」
桜雪の細い声が、かすかに震えている。
「一香は私の……大事な友達だから」
一度だけ強く手を握る。桜雪が深く長い息を吐く。
名残惜しむようにその手を離したら、桜雪が顔を上げて小さく微笑んだ。
「また、学校で」
梓は何も言えなかった。
桜雪に触れた手がどうしようもなく熱くて、その熱の行き場所をただ探していた。




