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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
25/50

 あの雨の夜から、一香とはぎこちないままだ。

 毎日講義が終わったあとに会うけれど、たいした会話もせず、すぐに別れる。

 一香は梓の部屋に来なくなって、自分の部屋に呼ぶこともない。

 別れ際にしていた軽いキスもしなくなった。


 やっぱりあれは間違っていたのだ。

 去って行く一香の背中を見送りながら、梓は思う。

 ――どうして、私にキス以上のことをしてくれないの?

 その言葉と届いた手紙にあおられて、一香の気持ちも確認せず、ほぼ無理やりにその行為をしようとした。

 できないくせに。

 結局一香を傷つけて、恥ずかしい思いだけをさせてしまった。


 頼りない日差しの下、駅へと向かう学生たちに混じって構内を歩く。

 周りの笑い声を聞きながら、どこか自分は人とは違うと感じていた。

 一香と付き合っていた高校生の時も、部活の仲間と笑い合っていた中学生の時も、母親とふたり、引っ越しを繰り返していた小学生の時も。

 大勢の中にまぎれていても、心から笑えていない自分に気がついていた。

 一香はこんな男のどこがいいのだろう。

 そして自分は……どうして一香と付き合っているのだろう。


 梓の住むアパートは、駅とは反対方向だった。人の流れから外れるように、門を出て右へ曲がる。

 すると長く続く街路樹の下に、一台の赤い車が停まっているのが見えた。

「綾瀬……」

 その場に立ち止まり、前を見つめてつぶやく。

 運転席から降りてきた男に声をかけられ、車に近づく桜雪の背中が見える。

 彼女のそばにいる男は、あの町で何度か見た、桜雪の婚約者の和臣という男だ。

 そんなふたりの姿を見ていたら、中学の卒業式の日を思い出した。

 あの日も梓はこうやって見ていた。

 寄り添い合うようにして車に乗り込んでいく、桜雪の背中を見ていた。

 見ているだけで、何をすることもできずに。


「綾瀬!」

 つい名前を呼んでいた。車に乗り込もうとしていた桜雪が、静かに振り返り梓を見る。

「霧島くん……」

 隣の和臣が少し驚いた顔をしたあと、ふっと口元をゆるませる。

「ああ、君か。桜雪と同じ大学だったの? 偶然だなぁ」

 スーツを着た和臣の手が、桜雪の腰を引き寄せた。梓はそんなふたりを黙って見つめる。

 自分が何をしたいのかも、わからないまま。

「桜雪は知ってたの? 霧島くんがいたこと」

「うん。この前会って……」

「よかったじゃないか。同じ地元出身者がいて。何かと心強いだろ」

 そう言って薄く笑った和臣の言葉が、本心じゃないことはすぐにわかった。

 桜雪の腰をしっかりと抱く手。そんなふたりをただ見ているだけの梓。

 言葉にしなくても自分のほうが優位なのだと、和臣は言いたいのだ。

 だけど……。

 ――女の人がいるから。

 この前聞いた桜雪の言葉が頭に浮かぶ。

「じゃあ行こうか、桜雪」

 和臣の声に促され、桜雪が梓に背中を向ける。

「どうして……」

 どうしてそんな男について行くのか。傷つくのはわかっているのに。どうしてさらに自分を傷つけようとするのか。


「行くなよ!」

 気づくと、車に乗り込もうとしている桜雪に駆け寄っていた。桜雪が顔を上げて梓を見る。

「どうして行くんだよ。行くのやめろよ」

「なに言ってるの? 霧島くん」

 梓の前で、桜雪が小さく笑う。

「私、和くんと付き合ってるの。好きだからそうしてるの」

「嘘だ」

「なんで嘘なの?」

「綾瀬が全然楽しそうにしてないから」

 桜雪がすっと顔をそむける。もう一度声をかけようとした梓の前に、和臣が立ちふさがる。

「いい加減にしろよ、君。おかしいんじゃないか? 突然人の彼女にそんなこと言って。やっぱりあの母親の息子だな」

 和臣はそう言うと、桜雪を車の中へ押し込んだ。一瞬振り返った桜雪と目が合い、そしてそれはすぐに遮られる。

 和臣の手でドアが閉じられて、桜雪の姿は見えなくなった。


「そういえばさ」

 車の前に立った和臣が言う。

「君のお母さん、あの町に戻って来たらしいね。見かけた人がいるって聞いたけど?」

「え……」

「今さらよく帰って来れたよね。やっぱり変わってる人だよ、君のお母さんは。普通の神経の持ち主だったら、たったひとりであの集落には戻って来れないだろう」

 梓は黙ってうつむいた。悔しいけれど言い返せない。本当のことだと思うから。

 そんな梓を見て和臣はふっと笑うと、ささやくような声で言った。

「で、本当のところどうだったの? 君たち親子ができてるって噂」

 その言葉に身体が熱くなった。うつむいた顔を上げたいのに上げられなくて、震えはじめる自分の手を強く握る。

 雨の音。酒と女の匂い。耳元にかかる息。滑る指先。生ぬるい唇。

 気持ち悪い。こんな自分はものすごく汚い。


「霧島くん」

 息を吐きながら顔を上げる。車から降りた桜雪が立っている。

「桜雪、どうした? 車に乗ってなさい」

「いや」

 和臣の声に桜雪が答える。

「和くんは間違ってる。和くんが霧島くんのお母さんの悪口を言う権利なんてないよ」

「どうしたんだよ、急に。桜雪、おかしいぞ?」

「おかしいのは和くんだよ。そんなこと言う和くんだったら、一緒になんかいたくない。私、霧島くんと帰る」

 一瞬黙った和臣が、すぐに声を上げて笑い出す。

「まったく、わがままなお嬢さんだなぁ。わかった、わかった、好きにしろ。霧島クンは昔から、桜雪のお気に入りだもんな」

 和臣の手が伸び、桜雪の背中を乱暴に押す。よろけた桜雪の身体を、梓が受け止める。

「だけど週末の食事会は必ず参加するんだぞ? 田舎から出てくるお父さんたちに、僕たちが仲良くやっているところを見せなくちゃいけない。土曜日、桜雪の部屋まで迎えに行くよ」

 和臣はそう言うと、背中を向けて車に乗り込んだ。そしてふたりの前から去って行く。

 車が見えなくなると、桜雪が小さな声でつぶやいた。


「ごめんね、霧島くん。和くんがヘンなこと言って」

 何て答えればよいのかわからなかった。和臣に言われたことは、全部ほんとうのことだと思ったから。

「別に綾瀬が謝る必要ないだろ」

 そう言って身体を離し、顔をそむける。

 桜雪といると自分の汚さが浮き彫りになっていくような気がして、なんだか辛い。

「そうだね。私が謝ることじゃないよね。ごめん」

「だから謝るなって」

 顔を向けたら、困ったようにこちらを見ている桜雪と目が合った。どんなに見た目が変わっても、こんな不安げな表情は昔のままだ。

「……送るよ」

 つぶやいた梓の前で、桜雪は少し笑って首を横に振る。

「大丈夫。『霧島くんと帰る』って言ったのは嘘。あんなこと言うあの人と、一緒にいたくなかっただけ」

 梓は黙って桜雪を見る。そんな梓の前で桜雪は言う。

「でもほんとは少し嬉しかったんだ。霧島くんに『行くなよ』って言ってもらって。なんとなく今日は、和くんと会いたくなかったから。だから、ありがとうね」

 桜雪が梓を見て笑った。だけどその笑顔は心から笑っているようには見えなかった。

 会いたくなかったのは、今日だけではないんじゃないか? いつも自分に嘘をついて、無理して付き合っているんじゃないのか?

 勝手な想像が頭の中を駆け巡ったら、今まで抑えていた気持ちが一気にあふれ出た。


 片手を伸ばし、その腕をつかんだ。桜雪がぴくりと身体を震わせる。

 そのまま自分の手を滑らせ、桜雪の手を握りしめる。そうしたいと思ったから。

 自分からこんな気持ちになったのは、初めてか……いや違う。前にも一度だけ、こんな気持ちになったことがある。

 雨の中、桜雪がトマトを持ってあの家に来た日。目の前で泣いていた桜雪の手を、自分から握りしめた。

 ――ちょっと人恋しかったから。

 違う。そうじゃない。

 桜雪だったから。桜雪だったから、そうしたかったんだ。

「霧島くん……」

 つながり合った手を見つめ、桜雪がつぶやく。

「一香に……悪いよ」

 桜雪の細い声が、かすかに震えている。

「一香は私の……大事な友達だから」


 一度だけ強く手を握る。桜雪が深く長い息を吐く。

 名残惜しむようにその手を離したら、桜雪が顔を上げて小さく微笑んだ。

「また、学校で」

 梓は何も言えなかった。

 桜雪に触れた手がどうしようもなく熱くて、その熱の行き場所をただ探していた。

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