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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
23/50

 桜雪の住んでいる部屋は、坂道の上に建つ、オートロック付きマンションの七階だった。

「えー、やだ、すごい広ーい! 景色もめっちゃいいじゃない!」

 大きな窓のある1LDKの部屋は、学生がひとりで住むには贅沢過ぎるほどの広さだ。

 窓から外を見ると、大学の建物や、梓や一香の住んでいる住宅地を見下ろすことができる。

 しかし広々とした部屋の中に物はあまりなく、女の子の部屋にしては殺風景にも思えた。


「ここ、彼氏が泊まりに来たりするんでしょ?」

 一香がきょろきょろ周りを見回しながら言う。

 小さなローテーブルと、クッションと、本棚くらいしか物のないリビング。テレビさえもない。

 その隣にある寝室の扉が開いていて、少し大きめのベッドが置いてあるのが見えた。

「そうだね。時々来るよ。私が行くことはないけど」

「え? そうなの? なんで?」

 冷蔵庫を開け、桜雪は冷たいお茶をグラスに入れると、それを三つテーブルの上に置いて座った。

 なんとなく居場所がなく、窓の外を眺めていた梓もその前に座る。すると一香も梓の隣に座って、桜雪に聞いた。

「彼の家には行かないの?」

「うん」

「どうして?」

「女の人がいるから」

 一香が唖然とした顔で桜雪を見る。

「なんなの、それ。だって桜雪の彼氏っていうか、婚約者なんでしょ?」

「うん。そうなんだけど」

 桜雪がグラスのお茶を一口飲んで、うつむきがちに微笑む。梓は黙ったまま、そんな桜雪の顔を見つめる。


「高校生になったばかりの頃ね、親と喧嘩したことがあって。はじめてひとりで東京に来て、約束もしないで彼の家に行ったことがあるの」

 桜雪がテーブルの上に、ことんとグラスを置く。

「その時部屋に女の人がいたの。彼はただの友達だよって言ったけど、部屋には女物の服や、ふたり分の食器や歯ブラシなんかがあった。問い詰めたら桜雪も好きにしたらいいって。結婚するまでは自由なんだからって」

「なんなの、それ。開き直り? それなのに桜雪、まだその人と付き合ってるの?」

「もう決められてることだから。私が彼と結婚することは。一人暮らしを許してもらえたのも、四年後にはあの町へ戻って、彼の奥さんになることが条件だったの」

「そんなの……おかしい」

 そうつぶやいたのは梓だった。

「おかしいだろ? その男のやってることも。そんな男と結婚させようとしてる親も」

「もういいの。私もそれから好きにしてるから」

 ゆっくりと顔を上げた桜雪が梓を見て、息を吐くように言う。

「私も彼と、同じことしてるから」

 梓は黙って桜雪のことを見ていた。

 桜雪はほんの少し口元をゆるませたあと、そっと梓から視線をはずした。



「桜雪、ほんとにその和臣って人と、結婚するつもりなのかなぁ」

 桜雪のマンションを出て、梓と坂道を下りながら一香が言う。

「もうそんな男、やめればいいのにね。このままどこかに逃げちゃって、あんな町に戻らなきゃいいのに」

 梓は自分の右手を広げ、ぼんやりと見つめる。

 ――だったら俺が、連れ出してあげようか?

 遠い昔。小学校の校舎の中で、そう言って桜雪にこの手を差し出した。まさか桜雪が手を伸ばしてくるとは、思わなかったのだ。

 だから冗談だってごまかした。怖くなってしまったから。自分の小さな手では、桜雪のことを連れ出すことなんか、できないと思ったから。

「梓? 聞いてる? 私の話」

「聞いてるよ」

 ぎゅっと右手を握りしめて、前を見たままつぶやく。

 そんな梓の横顔をちらりと見てから、一香は自分の手を、梓の腕にからませる。


「梓が連れ出してあげれば? 桜雪のこと」

「なんで俺なんだよ」

 小さくため息をついて、一香に言う。

「何度も言うけど、俺、綾瀬とはなんにもなかったし、今だってもちろんないし、好きでもないから」

「だったらどうして、私にキス以上のことをしてくれないの?」

 梓が足を止める。からまりついていた一香の手が、静かにはずれる。

 ゆっくりと視線を向けると、梓のことをじっと見上げている一香と目が合った。

「私たち、四年も付き合ってるんだよ? お互いの部屋に何度も行ってるし。普通の恋人同士だったら、そういう関係になってもおかしくないよね? 私ってそんなに魅力ない?」

「そんなこと思ってない」

「じゃあどうして? やっぱり他に好きな人がいるんじゃないの?」

 一香がぐっと梓の腕をつかむ。立ち止まっているふたりの脇を、何人かの人が追い越して行く。

「それ……今ここで答えなきゃ駄目?」

 怒った顔をした一香が、梓の腕を振り払った。そして顔をそむけて言う。

「もういい。またね」

 梓を残して一香が歩き出す。

 こういう時、一香がほんとうは梓に追いかけてきてもらいたいってこと、何度か喧嘩をしているうちにわかった。

 追いかけて、その手をとって「ごめん」と言えば、すぐに機嫌が直ることも知っていた。

 だけどなぜかその日は、一香のことを追いかける気にはなれなかったのだ。


 夕陽に染まった道をひとりで歩く。大学の前を通り過ぎ、小さな川に架かる橋を渡る。

 桜雪の部屋から二十分ほど歩くと、梓の住む二階建てのアパートが見えてきた。

 階段の下にある集合ポストを開く。無造作に投げ込まれたチラシやDMに混じって、一通の封筒が届いていた。

 癖のある文字で書かれた梓の名前。差出人など見なくても、誰からの手紙かすぐにわかる。

 梓はその封筒をジーンズのポケットに突っ込み、階段をのぼった。鍵を開け、ドアを開き、誰もいない部屋へ入る。

 西日の当たった狭い部屋。それを見て、殺風景な桜雪の部屋を思い出す。

 まるでいつでもすぐに出て行けるような、そんな部屋だった。


 ベッドの上にどさっと横になる。ポケットからぐしゃぐしゃになった封筒を取り出し、封を切る。

 中に入っていた便箋には、梓の母親の近況が綴られていた。

 ――私は元気にやってるから心配しないで。

 心配なんかするか。自分を捨てた親のことなんて。

 自殺未遂をして入院したきり、母親のリエは梓のもとからいなくなった。

 ――私がいたら、梓が自由になれないから。

 しばらくして祖父母の家に届いた手紙には、そう書いてあった。

 わかっていたけど。たぶんそういう理由で自分の前からいなくなったのだと、わかっていたけど。

 だけど本当にいなくなったのだと知ったら、無性に悲しくなって、腹が立った。


 ベッドの上に起き上がり、手紙をビリビリに破く。

 ――梓、怒ってるよね? もう手紙は書きません。私みたいな母親のことは忘れて、梓は梓の好きなように生きて。

「忘れられるわけないだろ」

 破った手紙を丸めて投げ捨てる。

「息子にあんなことしておいて……」

 手紙の最後にはこう書いてあった。

 ――だけど私は梓のことを忘れない。忘れられるわけない。ちゃんとあなたのこと見てあげられなくて、ごめんなさい。

「ふざけんな」

 携帯を取り出し、一香に電話をかける。何度目かのコールのあと、一香の不機嫌な声が聞こえる。

 だけどそれ以上に、梓の声も不機嫌だっただろう。


「今からうちに来ない?」

「なに言ってるの?」

「来ないなら俺が行く」

「梓?」

 一香の返事は聞かないで、鍵と携帯だけ持って外へ出た。

 ――だったらどうして、私にキス以上のことをしてくれないの?

 しないんじゃなくて、できないんだ。あの日のことを、思い出してしまって。

 だけどもう自由になりたい。あの人の束縛から逃れて自由になりたい。

 薄暗くなった道を、一香の部屋に向かって走った。

 ぼんやりと灯る、アパート前の街灯の下で、一香は梓のことを待っていた。

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