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桜雪の住んでいる部屋は、坂道の上に建つ、オートロック付きマンションの七階だった。
「えー、やだ、すごい広ーい! 景色もめっちゃいいじゃない!」
大きな窓のある1LDKの部屋は、学生がひとりで住むには贅沢過ぎるほどの広さだ。
窓から外を見ると、大学の建物や、梓や一香の住んでいる住宅地を見下ろすことができる。
しかし広々とした部屋の中に物はあまりなく、女の子の部屋にしては殺風景にも思えた。
「ここ、彼氏が泊まりに来たりするんでしょ?」
一香がきょろきょろ周りを見回しながら言う。
小さなローテーブルと、クッションと、本棚くらいしか物のないリビング。テレビさえもない。
その隣にある寝室の扉が開いていて、少し大きめのベッドが置いてあるのが見えた。
「そうだね。時々来るよ。私が行くことはないけど」
「え? そうなの? なんで?」
冷蔵庫を開け、桜雪は冷たいお茶をグラスに入れると、それを三つテーブルの上に置いて座った。
なんとなく居場所がなく、窓の外を眺めていた梓もその前に座る。すると一香も梓の隣に座って、桜雪に聞いた。
「彼の家には行かないの?」
「うん」
「どうして?」
「女の人がいるから」
一香が唖然とした顔で桜雪を見る。
「なんなの、それ。だって桜雪の彼氏っていうか、婚約者なんでしょ?」
「うん。そうなんだけど」
桜雪がグラスのお茶を一口飲んで、うつむきがちに微笑む。梓は黙ったまま、そんな桜雪の顔を見つめる。
「高校生になったばかりの頃ね、親と喧嘩したことがあって。はじめてひとりで東京に来て、約束もしないで彼の家に行ったことがあるの」
桜雪がテーブルの上に、ことんとグラスを置く。
「その時部屋に女の人がいたの。彼はただの友達だよって言ったけど、部屋には女物の服や、ふたり分の食器や歯ブラシなんかがあった。問い詰めたら桜雪も好きにしたらいいって。結婚するまでは自由なんだからって」
「なんなの、それ。開き直り? それなのに桜雪、まだその人と付き合ってるの?」
「もう決められてることだから。私が彼と結婚することは。一人暮らしを許してもらえたのも、四年後にはあの町へ戻って、彼の奥さんになることが条件だったの」
「そんなの……おかしい」
そうつぶやいたのは梓だった。
「おかしいだろ? その男のやってることも。そんな男と結婚させようとしてる親も」
「もういいの。私もそれから好きにしてるから」
ゆっくりと顔を上げた桜雪が梓を見て、息を吐くように言う。
「私も彼と、同じことしてるから」
梓は黙って桜雪のことを見ていた。
桜雪はほんの少し口元をゆるませたあと、そっと梓から視線をはずした。
「桜雪、ほんとにその和臣って人と、結婚するつもりなのかなぁ」
桜雪のマンションを出て、梓と坂道を下りながら一香が言う。
「もうそんな男、やめればいいのにね。このままどこかに逃げちゃって、あんな町に戻らなきゃいいのに」
梓は自分の右手を広げ、ぼんやりと見つめる。
――だったら俺が、連れ出してあげようか?
遠い昔。小学校の校舎の中で、そう言って桜雪にこの手を差し出した。まさか桜雪が手を伸ばしてくるとは、思わなかったのだ。
だから冗談だってごまかした。怖くなってしまったから。自分の小さな手では、桜雪のことを連れ出すことなんか、できないと思ったから。
「梓? 聞いてる? 私の話」
「聞いてるよ」
ぎゅっと右手を握りしめて、前を見たままつぶやく。
そんな梓の横顔をちらりと見てから、一香は自分の手を、梓の腕にからませる。
「梓が連れ出してあげれば? 桜雪のこと」
「なんで俺なんだよ」
小さくため息をついて、一香に言う。
「何度も言うけど、俺、綾瀬とはなんにもなかったし、今だってもちろんないし、好きでもないから」
「だったらどうして、私にキス以上のことをしてくれないの?」
梓が足を止める。からまりついていた一香の手が、静かにはずれる。
ゆっくりと視線を向けると、梓のことをじっと見上げている一香と目が合った。
「私たち、四年も付き合ってるんだよ? お互いの部屋に何度も行ってるし。普通の恋人同士だったら、そういう関係になってもおかしくないよね? 私ってそんなに魅力ない?」
「そんなこと思ってない」
「じゃあどうして? やっぱり他に好きな人がいるんじゃないの?」
一香がぐっと梓の腕をつかむ。立ち止まっているふたりの脇を、何人かの人が追い越して行く。
「それ……今ここで答えなきゃ駄目?」
怒った顔をした一香が、梓の腕を振り払った。そして顔をそむけて言う。
「もういい。またね」
梓を残して一香が歩き出す。
こういう時、一香がほんとうは梓に追いかけてきてもらいたいってこと、何度か喧嘩をしているうちにわかった。
追いかけて、その手をとって「ごめん」と言えば、すぐに機嫌が直ることも知っていた。
だけどなぜかその日は、一香のことを追いかける気にはなれなかったのだ。
夕陽に染まった道をひとりで歩く。大学の前を通り過ぎ、小さな川に架かる橋を渡る。
桜雪の部屋から二十分ほど歩くと、梓の住む二階建てのアパートが見えてきた。
階段の下にある集合ポストを開く。無造作に投げ込まれたチラシやDMに混じって、一通の封筒が届いていた。
癖のある文字で書かれた梓の名前。差出人など見なくても、誰からの手紙かすぐにわかる。
梓はその封筒をジーンズのポケットに突っ込み、階段をのぼった。鍵を開け、ドアを開き、誰もいない部屋へ入る。
西日の当たった狭い部屋。それを見て、殺風景な桜雪の部屋を思い出す。
まるでいつでもすぐに出て行けるような、そんな部屋だった。
ベッドの上にどさっと横になる。ポケットからぐしゃぐしゃになった封筒を取り出し、封を切る。
中に入っていた便箋には、梓の母親の近況が綴られていた。
――私は元気にやってるから心配しないで。
心配なんかするか。自分を捨てた親のことなんて。
自殺未遂をして入院したきり、母親のリエは梓のもとからいなくなった。
――私がいたら、梓が自由になれないから。
しばらくして祖父母の家に届いた手紙には、そう書いてあった。
わかっていたけど。たぶんそういう理由で自分の前からいなくなったのだと、わかっていたけど。
だけど本当にいなくなったのだと知ったら、無性に悲しくなって、腹が立った。
ベッドの上に起き上がり、手紙をビリビリに破く。
――梓、怒ってるよね? もう手紙は書きません。私みたいな母親のことは忘れて、梓は梓の好きなように生きて。
「忘れられるわけないだろ」
破った手紙を丸めて投げ捨てる。
「息子にあんなことしておいて……」
手紙の最後にはこう書いてあった。
――だけど私は梓のことを忘れない。忘れられるわけない。ちゃんとあなたのこと見てあげられなくて、ごめんなさい。
「ふざけんな」
携帯を取り出し、一香に電話をかける。何度目かのコールのあと、一香の不機嫌な声が聞こえる。
だけどそれ以上に、梓の声も不機嫌だっただろう。
「今からうちに来ない?」
「なに言ってるの?」
「来ないなら俺が行く」
「梓?」
一香の返事は聞かないで、鍵と携帯だけ持って外へ出た。
――だったらどうして、私にキス以上のことをしてくれないの?
しないんじゃなくて、できないんだ。あの日のことを、思い出してしまって。
だけどもう自由になりたい。あの人の束縛から逃れて自由になりたい。
薄暗くなった道を、一香の部屋に向かって走った。
ぼんやりと灯る、アパート前の街灯の下で、一香は梓のことを待っていた。




