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「桜雪、すっごく綺麗になってたよねぇ」
大学の中庭のベンチ。梓の隣に座る一香が、サンドイッチを口にしながら言う。
今日は天気が良いので外でランチしようと、誘ってきたのは一香だ。
「そうかな。別に普通じゃないの? あのくらい可愛い子は、学校にもいっぱいいるよ」
そう言って、ベンチの前を通り過ぎる女子学生を目で追いながら、梓は持っていたペットボトルに口をつける。
一香は不満そうに梓の横顔を見上げると、その手から飲みかけのペットボトルを取り上げた。
「まぁ、小学生の頃から可愛かったけどね、桜雪は。私、ずっと羨ましかったんだ。いっつも高そうな新しい服着てて、めっちゃ広い家に住んでて。この子は生まれた時から私とは違う、お嬢様なんだなぁって子ども心に思ったよ」
そう言って一香は上を向き、ペットボトルの中身を口の中へ流し込む。細くて白い喉元がこくんと動くのを、梓はぼんやりと見ていた。
「でもちょっと、雰囲気変わってたね、あの子」
それは梓も感じていた。どこが? と聞かれると、はっきり答えられる自信はないが。
「やっぱり高校の時の噂、ほんとうだったのかな」
一香はペットボトルを梓の胸に押し付け、食べ終わった包み紙をくしゃくしゃと丸めると、それをレジ袋の中へ押し込んだ。
梓はそんな一香から視線をはずし、目の前の景色を眺める。
笑い合いながら通り過ぎる学生たちは、みんなどこか輝いて見えた。
別々の高校へ通っていても、なぜだか桜雪の噂は耳に入っていた。
桜雪と同じ女子校に通う友達が言ってたと、一香がいちいち梓に報告してきたからかもしれない。
「桜雪、高校に入って、変わったらしいよ」
「六歳年上の彼氏がいるのに、他の高校の男子と歩いてたって噂」
「声かけられれば、誰にでもついて行くって。男なら誰でもいいんだって。ちょっと引くよね?」
「うちの学校の先輩とも付き合ってるみたい。彼女いたのに桜雪が奪ったって、ほんとかな?」
もちろん、すべての噂を信じていたわけではない。けれど全くの嘘でないことは、高校二年生の桜雪を、偶然町で見かけてわかった。
桜雪は梓の高校の制服を着た男と、並んで歩いていた。その男のことを、梓はよく知っていた。
サッカー部の先輩で、女子生徒からイケメンだとキャーキャー騒がれていて、少し前までマネージャーの先輩と付き合っていた人。
ふたりは何かを楽しそうに話しながら、梓には気づかず、人ごみの中へ消えていった。
その時の桜雪の手は、絡み合うようにその男の手とつながっていた。
梓が桜雪の姿を大学内で見たのは、再会した日から数日後の、講義が終わったあとだった。
いつものように一香と待ち合わせている場所へ向かっていると、廊下の片隅で誰かと話している桜雪の姿を見つけた。
桜雪の前には見るからに軽そうな男子学生が立っていた。その男が桜雪に何か話しかけている。
やがて男が手を伸ばし、桜雪の肩を抱き寄せた。梓はさりげなく目をそらし、ふたりを追い越すように歩いて行く。
「あっ、霧島くん!」
声をかけられ立ち止まった。桜雪が男の手を振り払って駆け寄ってくる。
「待って。これから一香と会うんでしょう?」
「ああ、うん」
「私も一香と約束してるの。この前貸した傘、返してくれるっていうから。一緒に行こう?」
桜雪はそう言って梓に笑いかけたあと、さっきの男に声をかける。
「じゃあ、また」
あっさりと背中を向けた桜雪が歩き出す。梓がちらりと男を見ると、不機嫌そうな顔で睨まれた。
「さっきのやつ……誰なの?」
桜雪と並んで歩きながら、梓が聞く。桜雪は前を向いたまま答える。
「知らない。最近よく、声をかけられるの。でもしつこいから嫌い」
こんなにはっきり、ものを言う子だっただろうか。少なくとも梓の知っている桜雪は違う。
いやでも、一度だけ本気で怒った桜雪を見たことがある。
夏の暑い日。田舎の一本道。溶けて足元に落ちるアイス。
桜雪はあの婚約者の男の頬を殴って、霧島くんに謝って、と言ったのだ。
霧島くんは悪くないよ、なんにも悪くないよ、とも。
遠い記憶が蘇ってくるにつれ、梓は今の状況を不思議に思う。
またこんなふうに桜雪と並んで歩く日が来るなんて、思ってもみなかったから。
「梓! 桜雪!」
一香の声が聞こえた。桜色の傘を持って、一香がふたりの元へ駆け寄ってくる。
「一緒だったの?」
「うん、今そこで、霧島くんに会って」
ねっ? と梓の顔をのぞきこむように桜雪が見る。梓は曖昧にうなずくだけだ。
「ふうん?」
一香がふたりの顔を見てから、桜雪に「ありがとう」と傘を渡す。そして突然こう言った。
「ねぇ、桜雪。このあと、桜雪の部屋に遊びに行ったらダメ? 桜雪の部屋、見てみたいの。梓もそう言ってたし」
「俺、そんなこと言ってない」
「でも見てみたいでしょ?」
いたずらっぽく笑って、一香が梓のシャツを引っ張る。
一香の考えていることが、梓には全くわからなかった。
「いいよ。散らかってるけど」
桜雪がそう言って微笑んだ。
「え、ほんとにいいの?」
「うん。すぐ近くだし。霧島くんもおいでよ」
「だって! 行こうよ、梓!」
傘を持った桜雪が歩き出す。一香が梓のシャツを引っ張ったまま、そのあとについて行く。
梓はそんな一香にそっとつぶやく。
「何考えてるんだよ?」
「別に」
ふっと笑って一香が答える。
「梓こそ何考えてるの? 友達なんだから遊びに行ったっていいじゃない。ヘンに意識してるの、そっちでしょ?」
一香の手がシャツから離れる。そして代わりに、その手で梓の手をにぎる。
「行こう? 梓」
梓は一香から目をそらし、少し前を歩いて行く桜雪の背中を見つめた。




