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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
21/50

 五月の明るい空から雨が降っていた。

 朝の天気予報が外れ、ほとんどの学生は傘を持っていない。

 大学の建物から出てきた学生たちは、みんな恨めしそうに空を見上げ、それからバッグや上着で頭を隠し、雨の中へ駆け出して行く。


 四月に入学したばかりの霧島梓きりしまあずさも、他の学生たちと同じように、玄関先で空を見上げた。

 雨は小雨だった。走って帰るか、止むのを待つか。微妙なところだ。

 そんなことをぼんやり考えていると、隣に立った女子学生が、持っていた傘を雨の中に開いた。

 見覚えのある花柄の、桜色の傘。

 綺麗に巻かれた茶色い髪と、柔らかそうな生地のスカートをふわりと揺らして、彼女が雨の中へ一歩踏み出す。その背中に向かって、梓は声をかけていた。


「……綾瀬?」

 懐かしい名前を呼ぶのは三年ぶりか。さらさらと降る雨の中、立ち止まった彼女が静かに振り返る。

 そして梓の前で驚いた顔をしたあと、すぐに笑顔になって言った。

「霧島くん……だよね?」

「うん」

「変わってないね。中学の頃と」

 喜んでいいのか、悲しむべきか。

「綾瀬は……少し変わった」

 つぶやいた梓の前で静かに微笑むのは、やっぱりあの綾瀬桜雪あやせさゆだった。

 けれど梓はそんな桜雪に違和感を覚えていた。最後に彼女を見たのは中学生の頃なのだから、変わっていてもおかしくはないのだろうけど。

「同じ大学だったの? 全然気がつかなかった」

「俺も」

 桜雪がためらいもなく手を伸ばし、梓に傘を差しかけた。

「入る?」

 雲の隙間から日差しが漏れた。しっとりとした雨の中、彼女の茶色く染められた髪が輝いて見える。

「大丈夫。人を待ってるから」

 少し首をかしげるように微笑んでから、桜雪は傘を持つ手を戻した。

 梓と桜雪の間に、細い雨が落ちる。


「梓!」

 別の建物から走ってきたのは冨田一香とみたいちかだった。

 中学の頃から変わらない短い髪が、雨に濡れている。

「今日雨降るなんて言ってなかったよね? ひどくない? 梓、傘持ってき……」

 そこまで言った一香が、桜雪に気づく。

「え……もしかして、桜雪?」

「うん。久しぶり、一香」

「うそ……びっくりした」

「私も」

 一香と梓の顔を交互に見ながら、桜雪が微笑む。

 けれど梓には、その美しい笑顔が、どこか作り物のようにしか見えなかったのだ。



「ほんと、全然知らなかったよ。桜雪もこの学校にいたなんて」

 久しぶりに会えたんだから、と一香に誘われ、大学の近くにある昔ながらの喫茶店へ駆け込み、梓と桜雪は向かい合って座っていた。

 窓の外は細かい雨が降っていた。濡れた歩道を急ぎ足で、歩いて行く人たちが見える。

「桜雪もこっちで一人暮らし?」

 持っていたタオルで髪を拭くと、一香はそれを梓に渡しながら聞いた。

「うん。すぐ近くのマンションに住んでるの」

「よく桜雪の家族が許してくれたよねぇ? 絶対一人暮らしなんてダメって言われそう」

「知り合いが近くに住んでるから。それでなんとか許してもらったの」

「知り合いって……もしかしてあの時の婚約者とか?」

 一香の声に、桜雪が少し笑ってうなずく。

「ほんとに結婚するの?」

「それは……わからないけど」

 梓はタオルで服を拭いている素振りをしながら、桜雪の声を聞いていた。


「一香たちは?」

 そう言って桜雪が、一香と梓の顔を見る。

「付き合ってるの?」

 梓の耳に一香の声が聞こえる。

「うん。まぁね」

「よかった。ほら、中学の卒業式の前に、一香が怒ったでしょう? だから私、ずっと気になってて」

「ああ、あれ? 『あんたたちのこと、絶対許さない』って言ったやつ? 恥ずかしいなぁ、もう」

 一香がおかしそうに笑う。桜雪もそんな一香の前で笑っている。

 だけど梓だけは笑えなくて、ふたりから目をそらすように、運ばれてきたコーヒーを口につけた。


「だってあの頃、梓はさ」

 気が済むまで笑ったあと、一香が隣に座る梓を見て言う。

「私と手もつないでくれなかったんだよ? まぁ、付き合ってたって言っても、私が無理やり梓を誘って、周りのみんなに『私たちは付き合ってる』って言いふらしただけだから、仕方ないんだけど」

 一香がそう言って、ふっと笑う。

「だけどすごく悔しかったの。私とはつながない手を、桜雪とはつないでいたから」

 梓は黙ってその声を聞いていた。そんな梓のことを、一香が見ているのがわかった。


「あんなの別に意味はないよ」

 桜雪が言った。ゆっくりと顔を上げて、梓は桜雪のことを見る。

「弟かお兄ちゃんとつないでるような感じ? 私に兄弟はいないけど」

 くすりと小さく笑う桜雪と目が合う。

「ちょっと人恋しかったから、その時一番そばにいた人の手、つないじゃっただけ。だって私、霧島くんのことなんて好きじゃなかったし。霧島くんだって、そうでしょう?」

 桜雪の声は甘く穏やかなのに、その言葉はナイフのように鋭く、梓の胸の奥を抉る。


「俺、先に帰るよ」

 これ以上ここにいる気にはなれなくて、梓は立ち上がった。

「女子同士で懐かしい話でもしてれば」

「えー? 久しぶりに桜雪に会えたんだから、梓も話せばいいのに」

「別に話すことなんて、何もないよ」

 まだ何か言っている一香を残し、梓はひとりで店を出た。



 雨が、アスファルトを濡らしていた。生ぬるい雨だった。

 どうせ降るならすべてを洗い流してしまうほど、激しく降ればいいのに。

 梓は遠い夏の日を思い出す。

 屋根を叩く雨の音。濡れた庭に転がる桜色の傘と赤いトマト。涙をこぼした桜雪の手を、思わず握りしめていた。

 ――ちょっと人恋しかったから、その時一番そばにいた人の手、つないじゃっただけ。

 そうだ。理由はそれだけ。それだけのこと。

 桜雪のことなんて、好きじゃなかった。


「梓」

 突然傘を差しかけられた。あの桜色の傘。立ち止まって振り向くと、そこには一香が立っていた。

「桜雪が貸してくれた。あの子は家が近いし、もう少し雨宿りして帰るからって」

 一香が梓の隣に並ぶ。桜雪の傘はふたりが入るのには少し小さい。

「逃げなくてもいいのに」

 いたずらっぽく笑って、一香が言う。

「別に逃げてないし」

「嘘。ほんとうは動揺してるんでしょ? 昔好きだった子と再会して」

 狭い傘の中、一香が梓の顔をのぞきこむ。

「それとも……いまも、好き?」

 一香の、人の心を確かめるような言葉は、あの人と同じだ。

「好きじゃないよ」

「じゃあ、私のことは……好き?」

 ――梓。梓。

 何度も名前を呼ばれて、確かめられる。

 ――梓。ママのこと、好き?

 ちゃんと答えてあげないと。その気持ちに応えてあげないと。この人は、自分がいないと駄目になるから。

「……好きだよ」


 一香の手から傘を奪う。雨はいつの間にか上がっていた。

 桜色の傘を閉じ、一香の手を握りしめる。一香は嬉しそうにその手を握り返してきた。

「今日……梓の部屋に行ってもいい?」

「うん」

 雲の隙間から、頼りない日差しが差す。空を見上げた梓の耳に、一香の声が聞こえてくる。

「私も……梓のこと、好きだから」

 一香と手をつないで歩きながら、アスファルトの上にできた水たまりを、梓は強く踏みつけた。

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