1
五月の明るい空から雨が降っていた。
朝の天気予報が外れ、ほとんどの学生は傘を持っていない。
大学の建物から出てきた学生たちは、みんな恨めしそうに空を見上げ、それからバッグや上着で頭を隠し、雨の中へ駆け出して行く。
四月に入学したばかりの霧島梓も、他の学生たちと同じように、玄関先で空を見上げた。
雨は小雨だった。走って帰るか、止むのを待つか。微妙なところだ。
そんなことをぼんやり考えていると、隣に立った女子学生が、持っていた傘を雨の中に開いた。
見覚えのある花柄の、桜色の傘。
綺麗に巻かれた茶色い髪と、柔らかそうな生地のスカートをふわりと揺らして、彼女が雨の中へ一歩踏み出す。その背中に向かって、梓は声をかけていた。
「……綾瀬?」
懐かしい名前を呼ぶのは三年ぶりか。さらさらと降る雨の中、立ち止まった彼女が静かに振り返る。
そして梓の前で驚いた顔をしたあと、すぐに笑顔になって言った。
「霧島くん……だよね?」
「うん」
「変わってないね。中学の頃と」
喜んでいいのか、悲しむべきか。
「綾瀬は……少し変わった」
つぶやいた梓の前で静かに微笑むのは、やっぱりあの綾瀬桜雪だった。
けれど梓はそんな桜雪に違和感を覚えていた。最後に彼女を見たのは中学生の頃なのだから、変わっていてもおかしくはないのだろうけど。
「同じ大学だったの? 全然気がつかなかった」
「俺も」
桜雪がためらいもなく手を伸ばし、梓に傘を差しかけた。
「入る?」
雲の隙間から日差しが漏れた。しっとりとした雨の中、彼女の茶色く染められた髪が輝いて見える。
「大丈夫。人を待ってるから」
少し首をかしげるように微笑んでから、桜雪は傘を持つ手を戻した。
梓と桜雪の間に、細い雨が落ちる。
「梓!」
別の建物から走ってきたのは冨田一香だった。
中学の頃から変わらない短い髪が、雨に濡れている。
「今日雨降るなんて言ってなかったよね? ひどくない? 梓、傘持ってき……」
そこまで言った一香が、桜雪に気づく。
「え……もしかして、桜雪?」
「うん。久しぶり、一香」
「うそ……びっくりした」
「私も」
一香と梓の顔を交互に見ながら、桜雪が微笑む。
けれど梓には、その美しい笑顔が、どこか作り物のようにしか見えなかったのだ。
「ほんと、全然知らなかったよ。桜雪もこの学校にいたなんて」
久しぶりに会えたんだから、と一香に誘われ、大学の近くにある昔ながらの喫茶店へ駆け込み、梓と桜雪は向かい合って座っていた。
窓の外は細かい雨が降っていた。濡れた歩道を急ぎ足で、歩いて行く人たちが見える。
「桜雪もこっちで一人暮らし?」
持っていたタオルで髪を拭くと、一香はそれを梓に渡しながら聞いた。
「うん。すぐ近くのマンションに住んでるの」
「よく桜雪の家族が許してくれたよねぇ? 絶対一人暮らしなんてダメって言われそう」
「知り合いが近くに住んでるから。それでなんとか許してもらったの」
「知り合いって……もしかしてあの時の婚約者とか?」
一香の声に、桜雪が少し笑ってうなずく。
「ほんとに結婚するの?」
「それは……わからないけど」
梓はタオルで服を拭いている素振りをしながら、桜雪の声を聞いていた。
「一香たちは?」
そう言って桜雪が、一香と梓の顔を見る。
「付き合ってるの?」
梓の耳に一香の声が聞こえる。
「うん。まぁね」
「よかった。ほら、中学の卒業式の前に、一香が怒ったでしょう? だから私、ずっと気になってて」
「ああ、あれ? 『あんたたちのこと、絶対許さない』って言ったやつ? 恥ずかしいなぁ、もう」
一香がおかしそうに笑う。桜雪もそんな一香の前で笑っている。
だけど梓だけは笑えなくて、ふたりから目をそらすように、運ばれてきたコーヒーを口につけた。
「だってあの頃、梓はさ」
気が済むまで笑ったあと、一香が隣に座る梓を見て言う。
「私と手もつないでくれなかったんだよ? まぁ、付き合ってたって言っても、私が無理やり梓を誘って、周りのみんなに『私たちは付き合ってる』って言いふらしただけだから、仕方ないんだけど」
一香がそう言って、ふっと笑う。
「だけどすごく悔しかったの。私とはつながない手を、桜雪とはつないでいたから」
梓は黙ってその声を聞いていた。そんな梓のことを、一香が見ているのがわかった。
「あんなの別に意味はないよ」
桜雪が言った。ゆっくりと顔を上げて、梓は桜雪のことを見る。
「弟かお兄ちゃんとつないでるような感じ? 私に兄弟はいないけど」
くすりと小さく笑う桜雪と目が合う。
「ちょっと人恋しかったから、その時一番そばにいた人の手、つないじゃっただけ。だって私、霧島くんのことなんて好きじゃなかったし。霧島くんだって、そうでしょう?」
桜雪の声は甘く穏やかなのに、その言葉はナイフのように鋭く、梓の胸の奥を抉る。
「俺、先に帰るよ」
これ以上ここにいる気にはなれなくて、梓は立ち上がった。
「女子同士で懐かしい話でもしてれば」
「えー? 久しぶりに桜雪に会えたんだから、梓も話せばいいのに」
「別に話すことなんて、何もないよ」
まだ何か言っている一香を残し、梓はひとりで店を出た。
雨が、アスファルトを濡らしていた。生ぬるい雨だった。
どうせ降るならすべてを洗い流してしまうほど、激しく降ればいいのに。
梓は遠い夏の日を思い出す。
屋根を叩く雨の音。濡れた庭に転がる桜色の傘と赤いトマト。涙をこぼした桜雪の手を、思わず握りしめていた。
――ちょっと人恋しかったから、その時一番そばにいた人の手、つないじゃっただけ。
そうだ。理由はそれだけ。それだけのこと。
桜雪のことなんて、好きじゃなかった。
「梓」
突然傘を差しかけられた。あの桜色の傘。立ち止まって振り向くと、そこには一香が立っていた。
「桜雪が貸してくれた。あの子は家が近いし、もう少し雨宿りして帰るからって」
一香が梓の隣に並ぶ。桜雪の傘はふたりが入るのには少し小さい。
「逃げなくてもいいのに」
いたずらっぽく笑って、一香が言う。
「別に逃げてないし」
「嘘。ほんとうは動揺してるんでしょ? 昔好きだった子と再会して」
狭い傘の中、一香が梓の顔をのぞきこむ。
「それとも……いまも、好き?」
一香の、人の心を確かめるような言葉は、あの人と同じだ。
「好きじゃないよ」
「じゃあ、私のことは……好き?」
――梓。梓。
何度も名前を呼ばれて、確かめられる。
――梓。ママのこと、好き?
ちゃんと答えてあげないと。その気持ちに応えてあげないと。この人は、自分がいないと駄目になるから。
「……好きだよ」
一香の手から傘を奪う。雨はいつの間にか上がっていた。
桜色の傘を閉じ、一香の手を握りしめる。一香は嬉しそうにその手を握り返してきた。
「今日……梓の部屋に行ってもいい?」
「うん」
雲の隙間から、頼りない日差しが差す。空を見上げた梓の耳に、一香の声が聞こえてくる。
「私も……梓のこと、好きだから」
一香と手をつないで歩きながら、アスファルトの上にできた水たまりを、梓は強く踏みつけた。




