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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
雨の嘘
20/50

13

 数日後、桜雪たちは中学の卒業式を迎えた。

 このセーラー服を着るのも今日で最後。四月からはお嬢様学校と噂されるあの女子校の制服を着る。

 式の最中、桜雪は梓の背中を見つけた。三年前、ぶかぶかだった制服が、今ではもう小さすぎるくらいだ。

 そしてあの日も、こうやって梓の背中を見ていたことを思い出す。

 だけど今日、涙は出なかった。もう会えないかもしれないのに。どうしてだか涙は出なかった。

 式が終わって、教室で写真を撮った。

 みんなは泣いていたけれど、やっぱり桜雪は泣けなかった。自分は冷たい人間なのだと思う。

 帰りに打ち上げをやろうと誘われたけれど、約束があったから断った。昇降口でみんなと別れる。

 外は雪が積もっていた。桜の季節はまだ先だ。

 ざわざわとした人ごみの中、外へ出ようとして立ち止まった。

 いつかと同じように、玄関の前に立つ、梓の姿が見えたから。


 卒業証書の入った筒を胸に抱え、桜雪は何も言わずに通り過ぎようとした。

「綾瀬」

 名前を呼ばれた。戸惑ったけれど、そのまま歩く。

「綾瀬」

 前へ進もうとする桜雪のことを、引き止めるようなその声。

「桜雪」

 ああ、どうして。どうしてここで、その名前を呼ぶんだろう。

 足を止め、ゆっくりと後ろを振り返る。桜雪のことをじっと見つめている梓と目が合う。

 胸についた花と手に持った筒は、桜雪と同じもの。だけどこれからは、別々の道へ進む。

「高校行っても……元気で」

 掠れる声で、梓が言う。

「うん。霧島くんも」

 梓はもう、桜雪に手を差し出したりしない。桜雪もその手を、握ったりはしない。


「桜雪ー!」

 校門のほうで、騒ぎ声が聞こえた。

 駆け寄ってきた女の子たちに囲まれ、腕を引っ張られる。

「桜雪のこと、待ってる人がいるよ!」

「誰なの? あの人、彼氏?」

 引きずられるように歩きながら、後ろを振り返る。

 梓はその場に立ったまま、黙って桜雪のことを見ていた。

 桜雪は静かに目をそらす。前を向くと、校門の横に止められた赤い車と、和臣の姿が見えた。

「桜雪!」

 和臣が笑って手を上げる。周りの女の子たちがまた騒ぐ。

 桜雪はそんな中、和臣の前に立った。

「卒業おめでとう。桜雪」

「ありがとう」

「約束通り、迎えに来たよ。どこへ行こうか?」

 和臣が車のドアを開ける。桜雪はその中へ乗り込む。

 卒業式の日、迎えに来て。そう頼んだのは桜雪だ。

 車がゆっくりと走り出す。梓はこの姿を見ただろうか。男の人の車に乗り込む自分の姿を、見てくれただろうか。

 私は……きれいなんかじゃないよ。

 梓が思っているような、きれいな人間じゃないのだ。


 川沿いのほとんど車の通らない道を、和臣の車で走った。

 桜の花はまだ咲いていない。

 ――春になったら……一緒に行く?

 行けるわけなんてないのに。窓の外の桜並木を見ながら、遠い約束を思い出す。

 和臣が、流れている音楽のボリュームを上げた。桜雪の知らない曲。

 その時はじめて、桜雪の目から涙がこぼれた。

「桜雪? どうした?」

「なんでもない」

 和臣が道の端に車を停めた。

 窓の外を見ているふりをして、桜雪は涙を隠す。それなのに涙がどんどんあふれて、止まってくれない。


「桜雪……」

 髪を優しくなでられた。

「こっち向いて」

 いやいやと首を振ったのに、和臣の手が桜雪の頬に触れる。そのまま顔を向けられて、流れる涙にキスをされた。

「泣いてる桜雪、かわいい」

 どうしたらいいのかわからなくなって、目を閉じる。すぐに唇が重なり、和臣の舌が桜雪の中へ入り込む。

 重なり合った唇が、頬に触れた手が、緊張して震えている身体が、熱い。

「大丈夫。怖がらないで」

 耳元で聞こえる声。

「やさしく、するから」

 抱きしめられて、キスをされた。何度も何度も。そのままその唇が、首筋から胸元へ這うように動く。

 桜雪の身体がふるりと震えた。


 和臣が何をしようとしているのか。それを知らないわけではなかった。そのくらいの知識は桜雪にもある。

 だけどもう、どうなってもよかった。考えるのも面倒だった。

 和臣のことを好きになって楽になれるのなら……それでもいいと思った。

「桜雪……好きだ」

 耳元で低くささやかれて、小さな吐息がこぼれる。

 三年間着たセーラー服のリボンが、和臣の手でほどかれる。


 薄く目を開くと、曇りかけた窓ガラスの向こうに、花びらが見えた。

 桜の木から舞い散る花びら……いや、違う。白い、雪だ。

 ――桜雪という名前はね、桜の花びらのように舞い落ちる、雪を見ながらつけた名前なんだよ。

 なぜだか祖父の言葉が頭をよぎる。

 ――あの日の雪は、とても綺麗だった。

 おじいちゃん、ごめんなさい。

 こんなにきれいな名前をもらったのに……私はきれいじゃなくて、ごめんなさい。

 和臣の動きは、どれもすごく慣れているように感じた。

 それでも桜雪は泣きながら、その苦痛に耐えた。

 けれど、どんなに優しい言葉をささやかれても、どんなに優しいキスをされても、最後に残ったのは、身体と心についたひどい痛みだけだった。

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