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その日の放課後、いつものように桜雪は一香と一緒に校舎を出た。
隣の席で退屈そうに授業を受けていた梓は、帰りの会が終わるといつの間にかいなくなっていた。
「ねぇ、あれ、霧島くんじゃない?」
ランドセルを背負って校門へ向かう子どもたちの中、ぼんやりと突っ立って空を見上げている男の子がひとり。
雪はまだ降り続いていた。周りの景色は朝とは違い、白く染まっている。
「話しかけてみる?」
一香が桜雪にいたずらっぽく笑う。
「なんて?」
「ほら、先生が言ってたじゃない。霧島くんち桜雪んちの近くだから、いろいろ教えてあげなって」
そう言うと一香は、桜雪の手を引き走り出した。
「あっ一香、ちょっと待って……」
強引に手を引っ張られ、桜雪は梓の前で立ち止まる。それに気づいた梓が、ゆっくりとこちらに視線を移した。
「帰らないの? 霧島くん」
女子の中で一番背の高い一香が、梓のことを見下ろすように聞く。
東京から転校してきた彼と今日話をしたのは、桜雪と一香のふたりだけだ。
クラスの男子も女子も、一歩離れた場所から梓を観察するだけで近寄ろうとはしなかった。
だけどそんな気持ちも、桜雪にはわかる。
一年生からずっと先生や両親に守られ、小さな校舎の中で、きょうだいのように育ってきた子どもたち。そんな中に突然、自分たちとは違うと感じる人間が入ってきたら、みんな警戒してしまうだろう。
よそ者には関わるな。
桜雪も、この学校の子どもたちも、みんなそう教えられてきた。そしてそれは子どもたちに限ったことではない。
山に囲まれ、冬になると雪で閉ざされる狭い町。仲間意識の強い大人たちが、余所から来た者をなかなか受け入れようとしないことを、子どもの桜雪でも知っていた。
「帰り道、わかんなくなっちゃった」
「ええっ?」
苦笑いしながら答える梓の前で、一香があきれたような声を上げる。
「なにそれ? ほんとに?」
「朝はリエさんとタクシーで来たし。どうやって帰ればいいのかわかんない」
黙ったままの桜雪の隣で、一香が声を上げて笑い出す。
「だったら桜雪と帰ればいいよ。近くなんでしょ? 私はすぐに別れちゃうしさ」
「え、でも私だってわかんないよ?」
梓の家なんてもちろん知らない。
それに金色の髪をした男の子とふたりきりで帰るなんて。そんな目立つ行動は、できれば遠慮したい。ここに三人で立っているだけで、周りの視線を思い切り感じているのに。
「近くに行けばわかると思う」
「新しいおうち? それともアパート?」
一香の声に梓が答える。
「霧島っていう人の家」
「あ……」
桜雪が思わず声を漏らした。
きりしまさん、という家を桜雪は知っていた。おじいさんとおばあさんがふたりで住んでいる家だ。
ただ、強い結びつきのあるこの地域で、桜雪の家とその家は、近所だというのになぜかほとんど交流がなかった。
「俺、そこに住むことになったんだ。リエさんが昔住んでた家なんだって」
「てことは、霧島くんのおじいさんとおばあさんの家ってこと?」
「うん。だけど会ったのは初めて。リエさん、俺の父さんと駆け落ちしてこの町出て、それきり帰らなかったから」
「うそぉ、なにそれ! カッコイイ!」
声を上げた一香の前で、梓があきれたように笑う。
「カッコよくなんてないよ。ふたりで町を出たのはいいけど、父さん俺が生まれる前に死んじゃってさぁ。リエさん夜の仕事しながら俺をひとりで育てて、いろんな町渡り歩いて、結局からだ壊して戻って来たんだし」
一香が決まり悪そうに桜雪を見た。桜雪もどんな顔をしたらいいのかわからない。
梓はやっぱり桜雪とは違う。
あんなお母さんらしくないお母さんは見たことないし、駆け落ちなんてドラマの中の話みたいだし、桜雪の家は祖父と両親揃っているし……それに桜雪は生まれてからずっと、この町しか知らない。
梓は桜雪とは、全く違う世界を生きてきた人なのだ。
「と、とにかく。その家まで連れてってあげなよ。ね? 桜雪」
一香がそう言って、桜雪のランドセルと梓のリュックを同時に押す。
気が進まないけど仕方がなかった。帰り道がわからないという転校生を、無視して置いていくわけにはいかない。
桜雪はちらりと梓の顔を見る。
雪の中に白い息を吐いた梓が、桜雪を見て小さく笑った。
別れ道で一香と別れ、桜雪は梓とふたりで歩いた。
広い畑と、昔ながらの古くて大きな家が点々としているこの辺りまで来ると、ランドセルを背負った子どもの姿も少なくなる。
「さっきの子、なんて名前だっけ?」
思い出したように、梓が聞いた。
「富田一香。学級委員だよ。児童会の会長もやってる」
「へぇ……すごいな」
「うん、一香はすごいの。頭もいいし、面倒見もいいし」
「綾瀬だって頭いいじゃん」
突然名前を呼ばれて驚いた。
覚えてくれていたんだ。なんだか少し嬉しくなった。もし下の名前も覚えていてくれたなら、もっと嬉しい。
「さっき返ってきたテスト、九十五点だったし」
「見たの?」
「見えたんだよ」
「やだ……見ないで」
「遅いよ。もう見えちゃったもん」
梓が桜雪の前でおかしそうに笑う。少しずつ少しずつ、桜雪の緊張がとけてゆく。
雪の降る道を、ふたりで並んで歩いた。梓は時々手を上げて広げたり、雪をつかむ仕草をしたりしている。
「雪……そんなに珍しい?」
川に架かる橋を渡りながら、桜雪が聞いた。
「うん。東京ではひと冬に数回しか降らないから。積もることもめったにないし」
「そうなんだ」
「これ、もっと積もる?」
梓が橋の欄干に手をかけて、下をのぞきこむようにして言う。
川下へ続く河川敷には、桜の木が並んでいた。春になるとここへ多くの人が集まって、お花見をするのだ。
そしていま、その木の下には、まだ誰からも踏まれていない真っ白な雪が積もっている。
「うん。明日になったらもっと白くなってるよ」
「マジで?」
「きっとびっくりすると思う」
そう言った桜雪を梓が見る。そして小さく笑ったあと、また空を見上げてつぶやいた。
「東京の雪はすぐに溶けて、べちょべちょになっちゃうんだ」
桜雪は黙って、隣にいる梓の横顔を見る。
「だからすっごく、きたない」
梓の言葉はどこか不思議だ。桜雪を知らない世界へ連れて行く。
だって桜雪はきれいな雪しか知らない。うんざりすることもあるけれど、それはいつも真っ白で、ただ静かにこの町へ降り続く。
「全部白くなればいいのに」
桜雪の心に梓の言葉が積もっていく。
「白くなって、きたないもの全部、消してしまえばいいのに」
そう言った梓が、空を見たまま笑った。桜雪は何て言ったらいいのかわからずに、そっと目をそらす。
「でも学校が休みになったら困るなぁ」
「雪が積もったくらいで、休みにはならないよ」
「ならいいや。あの家に一日中いるのは、ちょっとキツイ」
その言葉の意味を、聞きたかったけど聞けなかった。
けれどもしかして彼の祖父母の家は、あまり居心地の良い場所ではないのかもしれない。
家族を捨ててこの町を出て行った梓の母親。生まれた子どもを連れて戻って来たけれど、ふたりは歓迎してもらえるのだろうか。
「雪もきれいだけど、桜もきれいだよ」
話をそらすようにそう言って、桜雪は雪の積もった河川敷を指でさす。
「桜が満開になったあと、あの道を歩くと、雪みたいに花びらが降ってくるの」
「へぇ……」
「春になったら……一緒に行く?」
言ってから、急に恥ずかしくなった。ちらりと隣を見ると、梓が笑ってうなずいた。
「うん。連れてって」
ふたりだけの秘密の約束みたいだ。そう思ったらなんだか桜雪も嬉しくなって、梓の前で笑った。
霧島さんの家の前まで来た。
梓は「あ、ここだ」と言って立ち止まる。
「じゃあ、また」
「う、うん」
桜雪を残し、梓は古びた門を開く。その向こうには手入れのされていない庭があり、もっと奥に古い民家がひっそりと建っている。
「ああ、そうだ」
何かに気づいた梓が、振り返って桜雪に言った。
「送ってくれてありがと。綾瀬」
胸の奥が小さく音を立てた。梓は桜雪に笑いかけてから、背中を向けて庭の奥へ入って行く。
桜雪はその姿を見送ると、ほんのりとあたたかくなった気持ちを抱え、自分の家へ走って帰った。