12
「めずらしくクッキーなんか焼いてみたからさ、これ食べながら梓と勉強しようと思って」
桜雪と梓の前に立ち、一香が小さな紙袋を見せる。
「桜雪の家に行くって嘘ついて、お母さんに車で送ってもらっちゃった」
「……そう」
気まずそうにつぶやいた梓に向かって、一香が笑いかける。
「梓。今日、進路面談だったんだよね?」
「うん」
「どうして桜雪と一緒にいるの?」
一香の笑顔が歪む。
「どうして手なんかつないじゃってんの? 私たち、付き合ってるんだよね?」
「一香……私……」
言いかけた桜雪の言葉は、梓の声でさえぎられた。
「つなぎたかったんだよ。俺が、綾瀬と」
唇をかみしめた一香が、持っていた紙袋を梓の顔に投げつけた。
「サイテー! なにそれ!」
梓の足もとに、一香の作ったクッキーがぱらぱらと落ちる。
「待って、一香! 違うの。そうじゃないの!」
「なにが違うのよ!」
「先に手を伸ばしたのは私なの!」
一香がにらむように桜雪を見る。
「ごめん、一香。ごめん」
小さく息を吸って、それを吐き出すように言う。
「もうこんなことしないから……だから……ごめん」
雪が肩に落ちてきた。一香の肩にも、梓の肩にも、それは降り積もる。
「……サイテーだよ、あんたたち」
力が抜けたように一香がふっと笑う。
「桜雪、前に言ったよね? 梓のことは好きじゃないって」
「……うん。言った」
小学校の卒業式の日。一香に聞かれた桜雪は、確かに首を横に振った。
梓がこちらをじっと見ている。けれど桜雪は顔を向けることができない。
「それなのにどうしてこんなことするの? ほんとうは梓のことが好きで、私にずっと嘘ついてたってわけ? 知らないのは私だけで、それをふたりで笑ってたの?」
「違う。そんなことしてない。私は一香と霧島くんのこと、邪魔するつもりなんてないよ」
「邪魔してるじゃない!」
一香が桜雪から顔をそむけてつぶやく。
「もういいよ。勝手にすれば?」
そして空を見上げるようにして言う。
「でも許さないから、私。あんたたちのこと、絶対」
一香が雪の中を歩き出す。
「一香! ちょっと待てよ!」
一香の背中に声をかけた梓が、ちらりと桜雪のことを見る。
「ごめん。俺、行くよ」
「……うん」
梓は雪の中に落ちた袋を拾い上げると、一香を追いかけて行く。
桜雪はぼんやりとそんな梓の背中を見送った。
一香に追いついた梓が何か声をかけている。一香に手で振り払われても、必死に何か言っている。
やがてあきらめたように一香がおとなしくなって、ふたりは並んで歩き出した。
雪の降る中、一香と梓の姿が見えなくなる。
桜雪はしゃがみこんで、雪の上にちらばっているクッキーをひとつひとつ拾い上げた。
お菓子作りなんて嫌いだって言ってたくせに。きっと一香は、頑張って作ったんだ。大好きな梓のために。
「……ごめんなさい」
つぶやいて、あふれそうになった涙をぐっとこらえる。泣いたら駄目だ。自分よりももっと、一香は胸を痛めている。
桜雪の重ねた小さな嘘が、一香を傷つけてしまった。
雪の中をひとりで帰った。
梓は一香を送って行ったのだろう。
手をつないで歩くふたりの姿を想像したら、やっぱりこらえきれなくなって、少しだけ泣いた。
次の日、一香は学校へ来なかった。次の日も、その次の日も、
梓の姿は見かけたけれど、桜雪と話をすることはなかった。
そしてそのまま冬休みに入って、梓は祖父母の住む家へ引っ越し、あの家には誰もいなくなった。
「ほんとうに人騒がせな家族だったわね」
母と親戚の叔母が、そんなことを話しているのを聞いた。
正月には和臣が帰省して、家族同士が集まり、いつものように食事会をした。
和臣に勉強を教えてやると言われたけれど、塾の冬期講習があるからと断った。
和臣は少しがっかりしたような顔をしたあと「受験頑張れよ」と言って、桜雪の頭をなでた。
やがて学校が始まると、すぐに私立の推薦入試が始まり、そのあと公立高校の受験日がきた。
試験の日、桜雪は一香と梓の姿を見かけた。ふたりは桜雪には気づかずに、並んで試験会場の教室へ入って行った。
仲直りしたんだ。
ほっとした気持ちと、それとは反対のもやもやした気持ちで、頭の中がいっぱいになる。
どうして一香なんだろう。どうして梓の隣にいるのが、自分ではないんだろう。
私があの家の娘だから? 私たちは出会った時から、関わることを禁止されていたから?
――私は一香と霧島くんのこと、邪魔するつもりなんてないよ。
そんなの嘘だ。ほんとうは一香のことが羨ましくて仕方ない。
そう思っている自分は、ものすごくきたない。
鉛筆を握り、机の上の問題用紙を見つめた。
小学生の頃からずっと父に、この学校を目指すよう言われてきた。和臣くんを見習うようにと。
けれど桜雪がこの学校へ行きたいと思ったことなど一度もなかった。
すべて大人が決めたこと。
志望校も。付き合う友達も。結婚する相手も。
それに不満を持ち、反発しながらも、流されるように生きてきた。
そのほうが、楽になれるから。
あきれたように自分に笑い、空白の解答用紙の上に鉛筆を置いた。ぼんやりと窓の外を見ると、今日も雪が降っていた。
そして桜雪がこの高校へ足を踏み入れることは、二度となかった。
桜雪が受験に失敗したことを知ると、父はしばらく口をきいてくれなくなった。
同じように口数の少なくなった母と、私立高校の制服の採寸へ行く。
公立高校の制服はシンプルすぎて可愛くなかったけれど、こちらの女子校の制服はリボンがついていて可愛かった。それを母に言ったら、あきれたようにため息をつかれた。
「残念だったな」
結果を聞きつけた和臣が、東京から来てくれた。
「でも桜雪はガツガツ勉強するタイプじゃないし。女子校でのんびり教えてもらったほうが合ってるかもしれない。あそこの学校だって、レベルは高いんだし」
「ごめんね、和くん。いっぱい勉強教えてもらったのに」
「仕方ないよ。受験は一発勝負だから。調子が悪い日だってあるだろ」
ううん、そうじゃない。桜雪は自分の意思で、回答を記入しなかったのだ。
何もかもが面倒になったから。それと、あのふたりの姿を見たくなかったから。
たったそれだけの理由で、何年も積み重ねてきた親の期待を裏切った。
梓と一香は、無事第一志望の高校に、合格したと聞いた。