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二学期最初の日、生徒たちの話題は、夏休み中に起きた小さな事件だった。
「知ってる? 梓のお母さんが、手首切って救急車で運ばれたって」
「え、自殺を図って亡くなったって聞いたけど?」
「生きてるよ。精神科に入院してるみたい」
「あのお母さん、若くて綺麗だけど、ちょっと変わってるってうちのお母さんが言ってた」
中学生になって、生徒たちの住む範囲が広くなったとはいえ、所詮狭い町だ。たいした娯楽もない町の住人の間で、この噂話はあっという間に広がった。
それは親たちを通じて、子どもたちにまで。事実も嘘もごちゃ混ぜになりながら。
「梓、大丈夫なのかなぁ? ひとりで暮らしてるんでしょ? おばあちゃんちに行くの嫌がって」
「一香がご飯作ってあげたりしてるらしいから、いいんじゃない? 今朝も廊下で、ふたりで笑ってたし」
「お母さんのこと、心配じゃないのかな? けっこう冷たいんだね。梓って」
女の子たちの笑い声を、桜雪は黙って聞いていた。
悪気がないのはわかるけど、彼女たちの言葉は時々残酷だ。
秋が過ぎ、町にこの冬はじめての雪が降る。
その頃になっても、梓の母親が家に帰ってきた気配はなかった。
ただ学校内で、その噂話は聞かなくなった。受験が近づき、みんなそれどころではなくなってきたのだろう。
梓は普通に学校へ来ているようだった。放課後一香と一緒に帰る姿を、よく見かけたから。
桜雪が梓と話をしたのは、二学期も終わりに近づいた頃、担任教師との進路面談の日だった。
冬休みが終われば、すぐに私立の推薦入試が始まる。そのあと本命の公立高校を受けるのが、このあたりの生徒たちの一般的な高校入試の流れだ。
桜雪は私立の女子校と、ずっと目指していたこのあたりではトップの進学校を受けるつもりだった。
最後の追い込みで成績も上がっていて、普段の実力が出せれば大丈夫だろうと、塾の先生からも学校の先生からも言われていた。
面談が終わって廊下へ出る。外は雪が降っていて、校舎内は冷え切っていた。
マフラーを首に巻き直し、桜雪が帰ろうとしたら、隣の教室から出てきた梓とばったり会った。
「あ……」
思わず立ち止まった桜雪のことを、梓が見る。そしてほんの少し微笑んで「久しぶり」とつぶやいた。
そのままなんとなく並んで廊下を歩いた。梓と会話するのは、あの夏休みの台風の日以来だ。
どこの高校を受けるのかと聞かれたから、第一志望の学校名を告げると「俺も一緒」とひとこと言われた。
靴を履き替え、玄関に立ち外を見る。さらさらとした粉雪が、あたりをうっすらと白く染めていた。
「お母さん、迎えに来るの?」
「え?」
梓の言葉を聞き返した。
「よく、車で帰ってるだろ?」
「ああ、うん。塾がある日とか。だけど今日は歩き」
「俺も」
そう言って小さく笑った梓が、空を見上げる。桜雪はそんな梓の横顔を見る。
梓の吐く白い息が、花びらのように舞い落ちる雪に混じって、溶けていく。
なぜだか胸が痛くなり、これ以上ここにはいられないと思った。
「じゃ、じゃあ、私はこれで」
振り絞るように声を出し、桜雪は雪の中へ一歩踏み出す。
「綾瀬」
背中に聞こえる、桜雪を呼ぶ声。
「一緒に……帰らない?」
「え……」
立ち止まり、振り返って梓を見る。
「一緒に帰ろう。最後かもしれないし」
「最後って?」
「俺、今年中にはあの家を出て、ばあちゃんちで暮らすから」
梓が一歩踏み出した。うっすら積もった雪に、足跡がつく。桜雪のよりも、大きな足跡。
桜雪はあわててそのあとを追いかけ、梓の隣に並ぶ。
「お母さん、まだ帰って来ないのに?」
「うん。でももういいんだ。いつ帰ってくるのかわからないし。もしかしたら、もう帰って来ないかもしれないし」
「なんで?」
思わずつぶやいた桜雪に、梓が小さく笑って答える。
「俺には、会わない方がいいと思ってるからだろ? それで帰って来ないんだ」
桜雪の胸が痛んだ。やっぱりあの時、自分が言ったからだ。
梓を自由にしてあげて、と。
そんなことを思う桜雪の隣で、梓が白い息を吐きながらつぶやく。
「ひとりでいるのは全然平気なんだけど。だけどこのままじゃいろんな大人に迷惑かけるし。やっぱりばあちゃんちに行くしかないのかなぁって思って」
「……そう」
細かい雪の降る中を、いつの間にか梓と並んで歩いていた。
梓は一香の彼氏なのに。人の彼氏と一緒に帰るなんていけないのに。
だけどほんとうは、ずっとこうしたかったのだと、自分の気持ちに気がつく。
「でも特別に、卒業まではこの中学に通わせてもらえることになったから。高校も同じ学校受かれば……また会えるな」
真っ直ぐ前を見ながら梓が言う。「そうだね」と答えたけれど、梓と同じ制服を着る自分をあまり想像したくなかった。
きっと彼の隣には、一香がいると思うから。
梓と並んで、何も言わないまま歩いた。梓もそれきり、口を開こうとしなかった。
一香と帰る時は、どんな会話をしているのだろう。明るくて話題も豊富な一香だから、一緒にいるときっと楽しいと思う。
小学生の頃から、一香は桜雪の憧れだったから。
コートに降りかかる雪を払いながら、小学校の前を通った。
梓とは、体が触れ合いそうなほど近くにいるのに、なんだか寂しくなって空を見る。
さらさらと降り続く雪は、桜雪たちの周りを真っ白に染めていく。汚いものなど、何もなかったかのように。
「きれいだと、思ったんだ」
突然梓がつぶやいた。ゆっくりと視線を下ろして、隣を見る。
前を向いたままの梓は、ちょっと照れくさそうに小さく笑う。
「はじめて会った時、綾瀬のこと、きれいだと思った」
胸が痛いほどドキドキして、そっと視線をそらす。
「……なに言ってるの?」
「そのあとも、ずっと思ってたよ」
ちらりと桜雪のことを見て、梓はいたずらっぽく笑うと、また前を向いてつぶやいた。
「綾瀬と、綾瀬の周りと、綾瀬が生きてきた今までが、全部きれいに見えた。その名前も、はじめて聞いた時からきれいだと思って……でも呼べなかった」
音のない白い世界に、梓の声だけが聞こえる。
「俺は……綾瀬と違ってよごれてるから」
はじめて会った日と同じ橋の上。白く染まった河川敷。花のついていない桜並木。
桜雪より背が高くなった梓の、低い声。
涙が出そうだった。
「ずるいよ……」
声と一緒に吐き出す息が、雪の中に消えていく。
「一香と付き合ってるくせに、そんなこと言うなんて」
「ごめん。言うつもりはなかったんだけど」
桜雪の隣で梓がつぶやく。
「ほんとうはずっと、言わないつもりだった」
だったらどうして言ったの? ふたりでこんなふうに歩けるのが、最後だから?
「私は……きれいなんかじゃないよ」
つけていた手袋をそっとはずす。梓は今日も手袋をつけていない。
「いつだって、すごくきたないこと考えてる」
桜雪はゆっくり手を伸ばし、その冷たい手を握りしめる。
「嘘つきだし……全然きれいなんかじゃないんだよ」
梓は何も言わなかった。けれどその手を、振り払おうともしなかった。
つないだ手を、どちらともなく強く握りしめる。
一香のことが頭をよぎったけれど、桜雪はその手を離さなかった。
雪の降る道を、手をつないで歩いた。
桜雪も梓も、何も話さなかった。
何かを話したら、この手がほどけてしまいそうな気がしたから。
雪が降り積もる。
ずるくてきたない心を隠すように。
ふたりで歩いている間だけでいいから、どうかこの雪よ、降り続いて。
「あ……」
梓が小さく声を漏らした。そして突然足を止める。
桜雪の手から、梓の手が離れていく。
すぐそこに見える梓の家。
雪で覆われた門の前に、一香が白い息を吐きながらひとりで立っていた。