10
和臣が東京へ帰った日は、朝から雨が降っていた。
空気はじっとりと重く、風は生ぬるい。台風が近づいていると、今朝の天気予報が告げていた。
「桜雪ー、ちょっとおつかいお願いしたいんだけど」
部屋で本を読んでいたら、母から声をかけられた。
親戚の畑でたくさん採れたトマトを、近所の人に届けて欲しいのだと言う。
「外、雨降ってるのに?」
「早く届けてあげたいのよ。この前、お世話になったし。雨がひどくならないうちに行ってきてちょうだい」
そう言った母から、ビニール袋に入ったトマトを渡される。
赤くて大きいトマトだった。
桜雪は気が乗らないまま、買ったばかりの桜色の傘を雨の中へ広げた。
歩き始めてすぐ、雨脚が強くなってきた。傘にあたる雨の音も、次第に大きく響いてくる。
風も強くなってきた。台風がこちらへ向かっているのかもしれない。
早くおつかいを済ませたくて、足早に歩く。やがて梓の家が見えてきた。桜雪は歩く速度をゆるめ、さりげなく庭の中をのぞきこむ。
人の気配はなかった。雨でしっとりと濡れる緑の雑草に混じり、雪のように真っ白な花が一輪、咲いているのが見えた。
その時なぜか桜雪の頭に、遠い記憶がよみがえった。
河川敷に積もる白い雪。東京の雪はきたないと話したあと、全部白くなればいいのに、と梓が言った。白くなって、きたないもの全部、消してしまえばいいのに、と。
あの頃、きれいなものしか見えていなかった桜雪。あの頃から、きたないものが見えていた梓。
どうしようもなく、もどかしい気持ちがあふれてくる。
その瞬間、桜雪の周りを覆っていたものたちが、雨に流れるように溶けた。
親に止められていたこと。和臣とキスをしたこと。「付き合うことになった」と言った一香の声。
そして梓の母親に、余計なことを言ってしまったかもしれないと、後悔している自分。
そんな桜雪を取り巻くいろんなものが、「彼に会いたい」という気持ちにストップをかけていた。
それが今、雨に膜をはがされ、自分の気持ちがむき出しになったのだ。
濡れた門に手をかける。いつかと同じように錆びた音を立て、門が開かれる。
夏の暑さと雨のせいで、雑草は伸び放題伸びていた。それを踏みしめるように歩き、玄関の前に立つ。
家の中はひっそりとしていた。雨の音だけがうるさく耳に響く。
呼び鈴を押す。一回、二回……。けれど反応はない。
留守なのかもしれない。ここまで来て、どこかでそれを願っている自分もいる。
それでも折れそうになった気持ちを奮い立て、桜雪は庭の奥へ回った。縁側に面した窓が開いているのが見えたからだ。
「失礼します」
庭の奥に入れてもらう。開けっ放しの大きな窓から、薄暗い部屋の中をのぞきこむ。
電気のついていない、生活感もないひっそりとした和室。その空間に、倒れている人影が見えた。
「霧島くん?」
傘を持つ手が震えた。けれど次の瞬間、桜雪はそれを投げ出し、縁側から部屋の中へ駆け込んだ。
「霧島くん! 霧島くん!」
ものすごく恐ろしい気持ちに包まれる。畳の上に横になっている体に手を伸ばす。
「霧島くん!」
桜雪の叫び声に、梓の体がもそもそと動いた。
「……綾瀬?」
ごろんと仰向けになった梓が、眠そうな顔で桜雪を見る。
「なんでここにいるの?」
「き、霧島くんが倒れてたから」
「寝てただけだよ」
畳の上にしりもちをついた。もしかして腰が抜けるとはこのことなのか。
「びっくりしたぁ……」
そうつぶやくと同時に涙があふれた。梓があわてて体を起こす。
「ど、どうして泣くの?」
「ごめん。霧島くんに何かあったかと思って……」
なんだか急に恥ずかしくなって、手の甲でごしごしと涙を拭う。
「ごめんね、ほんとにごめんね。びっくりしたのは霧島くんのほうだよね」
「いや……俺はいいけど」
梓が桜雪から視線をそらし、縁側の向こうを眺める。
「傘とトマト……転がってる」
桜雪もゆっくりと外を見た。
音を立てて降る雨の中に、桜色の傘と赤いトマトが転がっている。
「やだなぁ、私、あわて過ぎ。拾ってくるね」
苦笑いしながら立ち上がろうとしたら、その手を梓につかまれた。
「いいよ。濡れるから」
静かに視線を移す。桜雪のことをじっと見ている梓と目が合う。
「もしかして俺のこと……心配してくれたの?」
そう言った梓の手が、そっと桜雪から離れる。
「うん」
ぺたんと畳の上に座り、小さくうなずきながら、心臓がドキドキしていた。こんな気持ち、和臣といてもなったことないのに。
「ごめんな。この前……びっくりしただろ?」
梓の声を聞きながら思い出す。
救急車で運ばれた梓の母親。梓のTシャツについた赤い染み。
黙り込んだ桜雪に向かって、梓が笑う。
「でも大丈夫だよ。俺もリエさんも、ちゃんと生きてるから」
今の桜雪には、梓の冗談が冗談に聞こえない。
「お母さん……まだ入院してるの?」
「うん。怪我はたいしたことないんだ。ただ精神的にさ、ちょっとヤバくて。東京にいる頃から薬はずっと飲んでたんだけど、最近は落ち着いてたから油断してた」
「あの……」
思い切って口を開く。
「霧島くんのお母さんがそんなことしたの、私のせいかもしれない」
梓が桜雪の顔を見て、穏やかな口調でつぶやく。
「なんで?」
桜雪の頭に、川沿いの桜の木を、ひとりで見つめていたリエの姿が浮かぶ。
「私が言ったの。もう霧島くんを自由にしてあげてって。霧島くんが、お母さんに縛られてる気がしたから。だからお母さん、自分がいなくなればいいと思ってあんなこと……」
「綾瀬のせいじゃないよ」
口元を押さえて梓の顔を見る。
「綾瀬のせいじゃない。俺の母親が弱いだけ。だからもう、心配しなくて大丈夫だよ」
開けっ放しの窓の向こうから、雨の匂いがした。庭先に転がった傘に雨粒が当たり、ぽたぽたと音を立てている。
この人はどうして、こんな優しい言葉をかけてくれるのだろう。自分が一番大変な時なのに。
初めて会った小学生の時よりも、最後に話した中一の夏よりも、梓はずいぶん大人になっていた。桜雪の知らないうちに。
「でもご飯とかどうしてるの? ひとりでどうやって生活してるの?」
「時々隣町に引っ越したばあちゃんが来てくれる。お金持って」
「おばあさんたちが引っ越してしまったのも……私たち家族が嫌なこと言ったからだよね?」
「違うよ。俺とリエさんがこの町に戻って来たからだよ。それまではちゃんとここに住んでたんだし」
「でも……」
「だから綾瀬のせいじゃないって」
梓がそう言って笑う。桜雪はそんな梓の顔を、黙って見つめる。
「でもさ、さすがに子どもひとりを、ここに置いとくわけにはいかないみたいで。お前も隣町に来いって言われてるんだけど」
笑うのをやめた梓が、一度言葉を切ってから言う。
「もう少し、ここにいたいんだ。リエさんが戻って来た時、この家に誰もいなかったら……やっぱりかわいそうだから」
一度だけ、リエに抱きしめられたことを思い出す。あたたかかった、あのぬくもりを思い出す。
そう思ったら、ほんとうに梓がリエに縛られているのか、わからなくなった。
このふたりは、ずっと一緒に寄り添っていたほうがいいのではないかと、そんな気もしてきた。
「……そうだね。そうしてあげなよ」
「綾瀬?」
もうわからなかった。自分が何をすれば、梓が幸せになれるのか。何もしないほうがいいのか。何もしなくても、梓は幸せなのか。
わからなかった。
「なんで……泣くんだよ?」
わからないよ、そんなの。
「ほんとお前……わかんねぇ……」
右手で涙を拭ったら、膝の上にあった左手を握られた。そしてそれを引き寄せられて、ぎゅっと強く握られる。
驚いて顔を上げた桜雪の目に、さりげなく顔をそむけた梓の姿が映った。桜雪も恥ずかしくなって、そんな梓から視線をそらす。
お互い顔を見ないまま、ふたり手を握り合っていた。
薄暗い部屋の中に聞こえるのは、降り続く雨の音と、どちらのものともわからない微かな吐息だけ。
つながった手が熱かった。慰めるつもりが、慰められている気がした。
――だったら俺が、連れ出してあげようか?
いつか聞いた言葉。
このままこの手を離さずに、何もかもを捨てて、ふたりでこの町から飛び出していけたらいいのに。
突然、静かな部屋に音が響いた。
夢から覚めるかのように、どちらともなく手を離す。
鳴っていたのは携帯の着信音だった。梓が手を伸ばし、畳の上に転がっている携帯電話を耳に当てる。そして一言二言話すと電話を切った。
「一香が来るって」
小さく息を吐き、笑って答える。
「じゃあ私、帰るね」
すべてをないものとするように、桜雪は勢いよく立ち上がり、振り向かずに縁側から外へ出る。
履いてきたサンダルが濡れていた。庭に転がっている傘を拾い上げ、それからトマトも拾って袋に入れる。
「これ、あげる。食べて」
「え、いいの?」
「うん。野菜もちゃんと食べなくちゃ駄目だよ?」
縁側まで出てきた梓にトマトを押し付け、ひと言付け足す。
「一香によろしくね」
梓は何も言わなかった。
そんな梓の前で、桜雪は上手く笑えていたか、自信がない。
雨に濡れた庭を抜け、門を開き道路へ出る。
軽トラックが一台、水しぶきを上げながら走って行く。
家へ帰ると母親が玄関まで出てきて言った。
「遅かったじゃない」
「うん……あのね、トマト道に落としてつぶれちゃって……渡せなかったの」
「あら、やだ。何やってるの?」
「ごめんなさい」
小さく頭を下げて、逃げるように二階へ駆けあがった。
このくらいの嘘、平気でつける。
部屋に入り、ベッドの上に仰向けになった。そして自分の左手をそっと広げる。
梓とつないだ手。一香にも和臣にも、絶対言えない。
またひとつ、桜雪は嘘を重ねる。




