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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
雨の嘘
17/50

10

 和臣が東京へ帰った日は、朝から雨が降っていた。

 空気はじっとりと重く、風は生ぬるい。台風が近づいていると、今朝の天気予報が告げていた。

「桜雪ー、ちょっとおつかいお願いしたいんだけど」

 部屋で本を読んでいたら、母から声をかけられた。

 親戚の畑でたくさん採れたトマトを、近所の人に届けて欲しいのだと言う。

「外、雨降ってるのに?」

「早く届けてあげたいのよ。この前、お世話になったし。雨がひどくならないうちに行ってきてちょうだい」

 そう言った母から、ビニール袋に入ったトマトを渡される。

 赤くて大きいトマトだった。

 桜雪は気が乗らないまま、買ったばかりの桜色の傘を雨の中へ広げた。


 歩き始めてすぐ、雨脚が強くなってきた。傘にあたる雨の音も、次第に大きく響いてくる。

 風も強くなってきた。台風がこちらへ向かっているのかもしれない。

 早くおつかいを済ませたくて、足早に歩く。やがて梓の家が見えてきた。桜雪は歩く速度をゆるめ、さりげなく庭の中をのぞきこむ。

 人の気配はなかった。雨でしっとりと濡れる緑の雑草に混じり、雪のように真っ白な花が一輪、咲いているのが見えた。

 その時なぜか桜雪の頭に、遠い記憶がよみがえった。

 河川敷に積もる白い雪。東京の雪はきたないと話したあと、全部白くなればいいのに、と梓が言った。白くなって、きたないもの全部、消してしまえばいいのに、と。

 あの頃、きれいなものしか見えていなかった桜雪。あの頃から、きたないものが見えていた梓。

 どうしようもなく、もどかしい気持ちがあふれてくる。


 その瞬間、桜雪の周りを覆っていたものたちが、雨に流れるように溶けた。

 親に止められていたこと。和臣とキスをしたこと。「付き合うことになった」と言った一香の声。

 そして梓の母親に、余計なことを言ってしまったかもしれないと、後悔している自分。

 そんな桜雪を取り巻くいろんなものが、「彼に会いたい」という気持ちにストップをかけていた。

 それが今、雨に膜をはがされ、自分の気持ちがむき出しになったのだ。


 濡れた門に手をかける。いつかと同じように錆びた音を立て、門が開かれる。

 夏の暑さと雨のせいで、雑草は伸び放題伸びていた。それを踏みしめるように歩き、玄関の前に立つ。

 家の中はひっそりとしていた。雨の音だけがうるさく耳に響く。

 呼び鈴を押す。一回、二回……。けれど反応はない。

 留守なのかもしれない。ここまで来て、どこかでそれを願っている自分もいる。

 それでも折れそうになった気持ちを奮い立て、桜雪は庭の奥へ回った。縁側に面した窓が開いているのが見えたからだ。

「失礼します」

 庭の奥に入れてもらう。開けっ放しの大きな窓から、薄暗い部屋の中をのぞきこむ。

 電気のついていない、生活感もないひっそりとした和室。その空間に、倒れている人影が見えた。

「霧島くん?」

 傘を持つ手が震えた。けれど次の瞬間、桜雪はそれを投げ出し、縁側から部屋の中へ駆け込んだ。

「霧島くん! 霧島くん!」

 ものすごく恐ろしい気持ちに包まれる。畳の上に横になっている体に手を伸ばす。


「霧島くん!」

 桜雪の叫び声に、梓の体がもそもそと動いた。

「……綾瀬?」

 ごろんと仰向けになった梓が、眠そうな顔で桜雪を見る。

「なんでここにいるの?」

「き、霧島くんが倒れてたから」

「寝てただけだよ」

 畳の上にしりもちをついた。もしかして腰が抜けるとはこのことなのか。

「びっくりしたぁ……」

 そうつぶやくと同時に涙があふれた。梓があわてて体を起こす。

「ど、どうして泣くの?」

「ごめん。霧島くんに何かあったかと思って……」

 なんだか急に恥ずかしくなって、手の甲でごしごしと涙を拭う。

「ごめんね、ほんとにごめんね。びっくりしたのは霧島くんのほうだよね」

「いや……俺はいいけど」

 梓が桜雪から視線をそらし、縁側の向こうを眺める。

「傘とトマト……転がってる」

 桜雪もゆっくりと外を見た。

 音を立てて降る雨の中に、桜色の傘と赤いトマトが転がっている。

「やだなぁ、私、あわて過ぎ。拾ってくるね」

 苦笑いしながら立ち上がろうとしたら、その手を梓につかまれた。

「いいよ。濡れるから」

 静かに視線を移す。桜雪のことをじっと見ている梓と目が合う。


「もしかして俺のこと……心配してくれたの?」

 そう言った梓の手が、そっと桜雪から離れる。

「うん」

 ぺたんと畳の上に座り、小さくうなずきながら、心臓がドキドキしていた。こんな気持ち、和臣といてもなったことないのに。

「ごめんな。この前……びっくりしただろ?」

 梓の声を聞きながら思い出す。

 救急車で運ばれた梓の母親。梓のTシャツについた赤い染み。

 黙り込んだ桜雪に向かって、梓が笑う。

「でも大丈夫だよ。俺もリエさんも、ちゃんと生きてるから」

 今の桜雪には、梓の冗談が冗談に聞こえない。

「お母さん……まだ入院してるの?」

「うん。怪我はたいしたことないんだ。ただ精神的にさ、ちょっとヤバくて。東京にいる頃から薬はずっと飲んでたんだけど、最近は落ち着いてたから油断してた」

「あの……」

 思い切って口を開く。

「霧島くんのお母さんがそんなことしたの、私のせいかもしれない」

 梓が桜雪の顔を見て、穏やかな口調でつぶやく。

「なんで?」

 桜雪の頭に、川沿いの桜の木を、ひとりで見つめていたリエの姿が浮かぶ。

「私が言ったの。もう霧島くんを自由にしてあげてって。霧島くんが、お母さんに縛られてる気がしたから。だからお母さん、自分がいなくなればいいと思ってあんなこと……」

「綾瀬のせいじゃないよ」

 口元を押さえて梓の顔を見る。

「綾瀬のせいじゃない。俺の母親が弱いだけ。だからもう、心配しなくて大丈夫だよ」

 開けっ放しの窓の向こうから、雨の匂いがした。庭先に転がった傘に雨粒が当たり、ぽたぽたと音を立てている。

 この人はどうして、こんな優しい言葉をかけてくれるのだろう。自分が一番大変な時なのに。

 初めて会った小学生の時よりも、最後に話した中一の夏よりも、梓はずいぶん大人になっていた。桜雪の知らないうちに。


「でもご飯とかどうしてるの? ひとりでどうやって生活してるの?」

「時々隣町に引っ越したばあちゃんが来てくれる。お金持って」

「おばあさんたちが引っ越してしまったのも……私たち家族が嫌なこと言ったからだよね?」

「違うよ。俺とリエさんがこの町に戻って来たからだよ。それまではちゃんとここに住んでたんだし」

「でも……」

「だから綾瀬のせいじゃないって」

 梓がそう言って笑う。桜雪はそんな梓の顔を、黙って見つめる。

「でもさ、さすがに子どもひとりを、ここに置いとくわけにはいかないみたいで。お前も隣町に来いって言われてるんだけど」

 笑うのをやめた梓が、一度言葉を切ってから言う。

「もう少し、ここにいたいんだ。リエさんが戻って来た時、この家に誰もいなかったら……やっぱりかわいそうだから」

 一度だけ、リエに抱きしめられたことを思い出す。あたたかかった、あのぬくもりを思い出す。

 そう思ったら、ほんとうに梓がリエに縛られているのか、わからなくなった。

 このふたりは、ずっと一緒に寄り添っていたほうがいいのではないかと、そんな気もしてきた。

「……そうだね。そうしてあげなよ」

「綾瀬?」

 もうわからなかった。自分が何をすれば、梓が幸せになれるのか。何もしないほうがいいのか。何もしなくても、梓は幸せなのか。

 わからなかった。

「なんで……泣くんだよ?」

 わからないよ、そんなの。

「ほんとお前……わかんねぇ……」


 右手で涙を拭ったら、膝の上にあった左手を握られた。そしてそれを引き寄せられて、ぎゅっと強く握られる。

 驚いて顔を上げた桜雪の目に、さりげなく顔をそむけた梓の姿が映った。桜雪も恥ずかしくなって、そんな梓から視線をそらす。

 お互い顔を見ないまま、ふたり手を握り合っていた。

 薄暗い部屋の中に聞こえるのは、降り続く雨の音と、どちらのものともわからない微かな吐息だけ。

 つながった手が熱かった。慰めるつもりが、慰められている気がした。

 ――だったら俺が、連れ出してあげようか?

 いつか聞いた言葉。

 このままこの手を離さずに、何もかもを捨てて、ふたりでこの町から飛び出していけたらいいのに。


 突然、静かな部屋に音が響いた。

 夢から覚めるかのように、どちらともなく手を離す。

 鳴っていたのは携帯の着信音だった。梓が手を伸ばし、畳の上に転がっている携帯電話を耳に当てる。そして一言二言話すと電話を切った。

「一香が来るって」

 小さく息を吐き、笑って答える。

「じゃあ私、帰るね」

 すべてをないものとするように、桜雪は勢いよく立ち上がり、振り向かずに縁側から外へ出る。

 履いてきたサンダルが濡れていた。庭に転がっている傘を拾い上げ、それからトマトも拾って袋に入れる。

「これ、あげる。食べて」

「え、いいの?」

「うん。野菜もちゃんと食べなくちゃ駄目だよ?」

 縁側まで出てきた梓にトマトを押し付け、ひと言付け足す。

「一香によろしくね」

 梓は何も言わなかった。

 そんな梓の前で、桜雪は上手く笑えていたか、自信がない。



 雨に濡れた庭を抜け、門を開き道路へ出る。

 軽トラックが一台、水しぶきを上げながら走って行く。

 家へ帰ると母親が玄関まで出てきて言った。

「遅かったじゃない」

「うん……あのね、トマト道に落としてつぶれちゃって……渡せなかったの」

「あら、やだ。何やってるの?」

「ごめんなさい」

 小さく頭を下げて、逃げるように二階へ駆けあがった。

 このくらいの嘘、平気でつける。

 部屋に入り、ベッドの上に仰向けになった。そして自分の左手をそっと広げる。

 梓とつないだ手。一香にも和臣にも、絶対言えない。

 またひとつ、桜雪は嘘を重ねる。

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