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和臣の車が桜雪の家に近づいた時、救急車が停まっているのが見えた。
「なにかあったのかな?」
運転しながら和臣が言う。救急車が停まっているのは、梓の家の前だった。
嫌な予感がした。
「和くん! ちょっと止めて!」
「え?」
和臣がブレーキをかけ、路肩に車を寄せる。桜雪は車から降り、駆け出した。
「桜雪!」
和臣も車を降り、そんな桜雪のあとを追いかけてくる。
救急車のそばへ駆け寄ると、近所の人たちが何人か集まり、ひそひそと話をしていた。
何が起きたというのか。
その時、家の中から担架が運び出されてきた。
「リエさん! リエさん!」
担架に寄り添うようにして、そう叫び続けているのは梓だ。
桜雪は気が遠くなりそうになった。
梓の白いTシャツが、赤く染まっているのが見えたから。
「なに……あれ」
震える手で、隣に立つ和臣の腕をつかんだ。
「血? 一体何があったんだ?」
担架が救急車の中へ運び込まれる。その様子を立ち止まった梓が呆然と見ている。
「き、霧島くん?」
梓がゆっくりとこちらを見た。どこかぼんやりとした顔つきで。
「怪我したの? 大丈夫?」
梓は視線を下ろし、自分のTシャツを見つめてつぶやいた。
「これは……俺の血じゃない」
桜雪は震えながら息を吐く。だったらこの血は……。
「さぁ、君も一緒に乗って」
救急隊員に促されて、梓も救急車に乗り込んだ。桜雪はその背中を黙って見送る。
救急車がサイレンを鳴らし、走り出した。近所の人たちが、口々に何か言いながらその車を見送る。
桜雪は和臣の腕をつかんだままだ。
「何があったの?」
桜雪の母親が駆けつけてきた。
「さぁ、わかりません。だけどだいぶ出血しているようでした。おそらくお母さんのほうが」
頭がくらくらしてきた。倒れそうになった桜雪の体を和臣が支える。
「大丈夫か? 桜雪」
大丈夫じゃない。大丈夫じゃない。あんなに血がいっぱい出てて……梓のお母さんが死んでしまう。
和臣に抱きかかえられるようにして車に乗り、家へ帰った。
あまりのショックで立ち上がれなくなってしまった桜雪は、客間の布団に寝かされた。
ぼんやりとした頭で天井を見つめていたら、隣の部屋から大人たちの話し声が聞こえてきた。
「手首を切ったらしいぞ?」
「いやねぇ、自殺?」
「意識はあったみたいだけどな」
桜雪の頭に、梓の言った言葉が浮かぶ。
――自殺未遂を繰り返してた。何かのきっかけで突然ぷっつり切れちゃうみたいで。
寝返りを打ってタオルケットを頭からかぶった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。もしかしたら、自分のせいかもしれない。
――梓のこと、もう自由にしてあげなきゃね……。
彼女は自分がいなくなれば、梓が自由になれると思った。
だから、死を選んでしまった。きっと、そういうことなんだ。
「桜雪? 具合はどうだ?」
和臣が心配して声をかけてくれたけど、桜雪はタオルケットをかぶったまま、何も答えなかった。
その日、救急搬送された梓の母親は、幸い命に別状はなかったらしい。
ただ精神科的治療が必要ということで、しばらく入院することになったと、大人たちの会話から知った。
あの家には今、梓がひとりで住んでいる。
「これからどうするつもりなのかしら。あの子ひとりになっちゃって」
食事の支度をしながら、ため息まじりに桜雪の母が言う。
けれどそれは、梓のことを心配しているというよりも、迷惑がっているように桜雪には聞こえた。
夏休みは和臣と勉強しながら過ごした。
あの日以来、あの車には乗っていない。あんなキスもしていない。
「桜雪、あんまり集中してないな」
シャーペンを持つ手を止め、ぼんやりと縁側の外を眺めてしまった桜雪に和臣が言う。
集中なんて、できるはずがない。
Tシャツを赤く染め、母親の名前を呼び続けていた梓の声が、頭の隅から離れないのだ。
梓はどうしているのだろう。母親のいなくなったあの家で。何を考えながら過ごしているのだろう。
気になるのに会いに行けない。会ってどんな声をかければよいのかわからないのだ。
そんなことを考えていた桜雪に、和臣の声が聞こえた。
「桜雪、悪いけど、僕が勉強を教えるのは今日が最後だ」
「え……」
顔を上げて和臣を見る。予定ではもう少しこの町にいるはずだった。
「急に予定が変わってね。明日には東京へ帰らなくちゃいけない」
「そうなんだ」
がっかりしたわけでも、嬉しいわけでもなかった。
和臣とは夏休みに数日会って、その次は正月に会う。それがここ数年の過ごし方だったから。
「次に会うのは正月だな」
「うん」
「もう少し、寂しそうにしてくれよ」
冗談っぽくそう言って、和臣は桜雪の頭をなでる。
――仲の良いふりをしたほうがいい。
和臣がそう言ったから、桜雪はそうしてきた。だけど和臣が自分のことをどう思っているのか。それがよくわからなかった。
「受験が終わったら、東京へ遊びに来いよ」
「え、ああ、うん」
「桜雪の行きたい所、連れて行ってあげるから」
「ありがとう」
和臣の前で笑ってみる。毎回勉強を教えてくれて、優しい言葉をかけてくれる和臣に、感謝しているのは嘘じゃない。
頼っていることがたくさんある。助けられたことだってたくさんある。
和臣はしばらく黙り込んだあと、テーブルに身を乗り出し、桜雪の唇に軽くキスをした。
「桜雪、かわいい」
低く、耳元でささやくような声。
「好きだよ」
うつむき、その言葉を胸の奥にしまう。本当なのか、嘘なのか。和臣の本心を探りながら。