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夏休みになった。
庭先には朝顔が咲いていて、朝起きるとその花に水を与えるのが桜雪の日課になっていた。
今日は塾が休みだから、少しだけゆっくりできそうだ。
受験前の夏休みということで、毎日塾で猛勉強をさせられていたから。
家の敷地の前に車が停まった。見たこともない赤いスポーツタイプの車だ。
はっきり言って、この田舎町には似合わない。
桜雪が不思議に思っていると、運転席から声がかかった。
「桜雪! 僕だよ」
「和くん?」
運転席から降りた和臣が、桜雪に向かって笑いかけた。
「免許取ったからね。車で来たんだよ」
「すごい。このカッコイイ車、和くんの?」
「そうだよ。あとでドライブでも行こう」
桜雪が和臣を見上げる。和臣は軽く笑うと「お父さんに挨拶してくる」と、家の中へ入って行った。
髪を短く切った和臣は、いつもよりもっと大人びて見えた。
桜雪の母親も「和臣くんも、もうすぐ二十一になるんですものねぇ」と感心するように言った。
二十一歳。六歳年上の和臣は、桜雪にとっていつだって「大人」に見えたけど。
今日車を運転してきた彼を見たら、本当に大人なんだなぁと改めて思った。
「今日からしばらくこっちにいますから。また桜雪に勉強を教えますよ」
「和臣くんが来てくれれば心強いよ」
父も満足そうに笑う。
「桜雪。しっかり和臣くんの言うことを聞くんだぞ」
「はい」
父の前ではそう答えるようにしていた。そのくらいの嘘は簡単につける。
「勉強する前に、ちょっと車で走らないか?」
父の部屋を出たあと、和臣がいたずらっぽく言った。
和臣はよっぽど自慢したいのだろう。その運転の技術をなのか、それとも親に買ってもらったと言っていた、あのカッコイイ車をなのか。
桜雪は少し考えたあと、うなずく。
「大神山の展望台に行きたい」
「ああ、いいよ。小さい頃、みんなで行ったところだな」
和臣の車で一時間ほど出かけることを母に告げると「気をつけるのよ」と快く送り出してくれた。
和臣は信用されているのだ。
そして和臣と仲の良いふりをしていれば、家族の機嫌は良くなる。桜雪はそれを学習していた。
和臣に勧められるまま助手席に座る。するとすぐに甘い香りが鼻をくすぐった。
「いい匂いがする」
運転席に座り、エンジンをかけた和臣に言う。
「芳香剤だろ。ローズの香り、だったかな」
和臣が笑って、車が静かに動き出す。耳に聞こえる洋楽は、桜雪の知らない曲だった。
二十分ほど走ると、町を見渡せる展望台についた。
そこは小さな公園がある、地元の家族連れがよく来る場所だった。
桜雪も幼い頃、両親や和臣の家族と一緒にお弁当を持って遊びに来た。
特に春は、公園を囲むように咲く桜の花が綺麗で、祖父のお気に入りの場所でもあったことを思い出す。
だけど今日のような暑い日は、桜雪たち以外ひと気はなかった。
「誰もいないね」
車から降り、外の空気を吸い込む。
和臣の運転は優しくて、乗り心地も良かった。けれどふたりだけで来るならこのくらいの距離でいい。
ふたりで遠出をする気にはなれなかった。
懐かしい公園をふたりで歩いて、狭い町を見下ろす。
夏は暑くて、冬は雪に覆われてしまう、桜雪の生まれた町。
この町以外、桜雪は知らない。
「やっぱりこの町に帰るとほっとするなぁ」
隣に立つ和臣がつぶやいた。
「そうなの?」
「東京も刺激的で好きだけどね。いろんな人がいろんな考えを持ってるんだって、勉強になる。この狭い町にいるだけじゃ、世界が広がらないからね」
東京で暮らしている和臣。和臣は桜雪の知らない世界を知っているのだ。
「大学卒業したら、帰ってくるの?」
「そのつもりだったけど、一回向こうで就職すると思う」
「どうして?」
「社会勉強も必要だからって親が。いつかは親父の跡を継ぐために、戻ってくるけどね」
ふっと笑った和臣が桜雪を見る。
「桜雪も来るか? 高校卒業したら。東京に」
胸の鼓動が速くなった。この町を出て行く? 和臣と一緒に?
――桜雪は僕の、お嫁さんになるってことだよ。
だけどそれはそういうことなのだろうか?
「和くん、そろそろ帰らない?」
「え、もう?」
和臣が吹き出すように笑う。
「だって別にすることないし。暑いし。勉強もしないと」
「はいはい。お嬢様のおっしゃる通りにいたします」
「やめてよ。それ」
桜雪の声に、また和臣が笑う。
駐車場へ戻り、来た時と同じように助手席に座る。少し遅れて運転席に乗り込んできた和臣が「暑い暑い」と言いながらエンジンをかけ、エアコンをつける。
すぐに車が走り出すのかと思い、桜雪はシートベルトに手をかけた。しかしそんな桜雪の身体に、和臣の身体が覆いかぶさる。
一瞬何が起きたのかわからなかった。両肩をシートに押し付けられ、和臣の顔が近づく。怖くなって目を固く閉じたら、和臣の唇が桜雪の唇に触れた。
ああ、キス、するんだ。
目を閉じたまま、ぼんやりと思う。
けれどそのキスは、いつものキスとは違った。
強く唇を押し当てたあと、和臣の舌が桜雪の唇をなぞった。ぞくりと背中が震えて、慌ててよけようとする。
けれどそんな身体をさらに押さえつけ、和臣はその舌先で桜雪の唇をこじ開ける。
「んっ……」
ほんの少し開いた隙間から、和臣の舌が入ってきた。どうしたらいいのかわからない桜雪の口の中を、その舌先がぬるぬると動き回る。
それは気持ちの良いものとは思えなかった。思えないのは和臣のことを「好き」ではないからだろうか。「好き」でもないのに、こんなキスなどしているからだろうか。
動くこともできない桜雪の口の中を、気が済むまで舐めまわした和臣は、ゆっくりとその唇を離した。
ぼんやりと目を開く桜雪の前で、和臣が満足そうに微笑む。
「どうだった? これが大人のキスだよ」
「……よくわからない」
「桜雪にはまだ早かったか」
軽く笑って、和臣は運転席に座り直す。
車が静かに坂道を下りはじめた。
車内に流れる音楽は、やっぱり桜雪の知らない曲。
桜雪は黙って、フロントガラスを見つめながら思う。
和臣はすごく慣れている感じだった。こんな大人のキスを、和臣は桜雪ではない誰かとしたことがあるのだろうか。
――いろんな人と付き合ってみるのはいいんじゃないか? 桜雪の好きなようにすればいい。
あの言葉は、自分もそうするからという意味なのかもしれない。
だとしたら、和臣に付き合っている人がいてもおかしくはない。
最初に感じた、女の人がつける香水のような甘い香りは、いつの間にか消えていた。