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「ねぇ、知ってる? 一香と梓、付き合うことになったんだって!」
「えー、マジで?」
学期の最後に行われる球技大会のあと。体育館から教室へ戻る途中、桜雪の周りが騒ぎ出した。
「うそぉ、どっちから告ったの?」
「一香でしょ。あの子ずっと梓のこと好きだったらしいよ」
「そうなの? 桜雪」
「え?」
突然話をふられ、思わず足を止めた。女の子たちの視線が桜雪に集まる。
「だってほら、桜雪ってあのふたりと同小でしょ」
「ああ、うん」
「どうだったの? あのふたり、昔から仲良かったの?」
桜雪は少し考えてから答える。
「霧島くんが転校してきたのは小六の時だけど。そうだね。その時から仲良かったよ」
「実はずっと両思いだったとか?」
「かもよー。梓、他の子に告られた時は断ったくせに、一香とは付き合っちゃうなんてねー」
キャーキャー騒ぎ声を上げたあと、誰かのため息が漏れる。
「けど私、ちょっとショックだな」
「私も」
「梓って他の男子と違うよね。かわいい顔してるくせに、話すと意外とオトナっていうか、クールっていうか。やっぱ東京にいた子は違うわ」
「他の男子なんて、見た目も中身もみーんなガキ」
「ほんと田舎もんばっかり。イケメンな転校生来ればいいのにー」
「絶対取り合いになるって、それ」
女の子たちの笑い声が響く。桜雪はその声を黙って聞いていた。
梓と一番初めに出会った日のことを思い出しながら。
その日の帰り、何気なく見下ろした廊下の窓から、一香と梓の姿を見かけた。
自転車を押しながら並んで帰るふたりは、いつもの帰り道とは逆の駅のほうへ歩いて行った。
校門の角を曲がる時、一香に話しかけられた梓が、笑って答える横顔が見えた。
そんな姿を見ていたら、少しだけ胸が痛んだ。
自転車に乗って、ひとりで家へ向かう。
中三で仲良くなったクラスの子たちは、みんな桜雪とは別の小学校出身で、帰り道も逆だった。
だから毎日桜雪はひとりで登下校していた。
昨日までの雨空と違って、今日は清々しい青空だった。
ただ風は蒸し暑く、ブラウスの中がじわじわと汗ばんでくる。
早く帰ってシャワーを浴びたいと思い、ペダルを強く踏み込んだ時、橋の上で日傘を差して立っている女の人を見つけた。
黒いワンピースに黒い傘。それを見て、一目で梓の母親のリエだとわかった。
彼女の姿はたまに見かけたことがあるけれど、桜雪が避けていたので、もうずっと話していない。
桜雪がリエと言葉を交わしたのは、梓の家へ行ったあの日が最後だ。
橋の上にひとりで立ち、じっと河川敷を見下ろしている、リエの後ろを通り過ぎた。
昨日まで降り続いていた雨のせいで、普段穏やかな川の流れが速くなっている。
その川に沿うように並ぶ桜の木。それを見つめているリエは、後ろを通り過ぎた桜雪の自転車に気づきもしない。
そのまま通り過ぎればよかったのだ。いつもの桜雪だったらそうしていた。
けれどその姿が今にもそこから消えてしまいそうで、桜雪は自転車を止めて振り返った。
「こんにちは!」
できる限り大きな声でそう言ったら、リエが傘の陰からこちらを見た。
そしてすぐにいつものように笑いかける。
「こんにちは。久しぶりだね、桜雪ちゃん」
「……はい」
自転車から降り、桜雪はリエに近づく。
久しぶりに見る彼女の顔は、なんだかすごくやつれて見えた。
「あの、こんな所で何してるんですか?」
「うん? ああ、桜の木見てたの」
リエの声を聞きながら、桜雪も緑の葉が生い茂る桜並木を眺める。
「ここ、桜が咲くときれいなんだよねぇ。昔、彼氏とよく歩いたの。桜の花びらが雪みたいに舞って……すごくきれいだった」
懐かしそうにそう言って、リエは遠くを見つめる。
その隣で桜雪は、小学生の頃を思い出していた。初めて梓に会った日。ふたりでした幼い約束。
――春になったら……一緒に行く?
――うん。連れてって。
あの約束は、まだ果たされていない。
桜雪は桜の木から視線をそむけ、リエに言う。
「よかったら……一緒に帰りませんか?」
「ありがとう。でもね、もうすぐ梓が帰ってくるはずだから。ここで待ってる」
河川敷から目をそらしたリエが、桜雪の今走ってきた道を眺める。
真っ直ぐ続く田舎道の向こうから、誰かがこちらへやってくる気配はない。
梓はまだ来るはずないのだ。一香と笑い合いながら、どこかへ出かけてしまったから。
「霧島くんだったら、まだ帰って来ないと思います。さっき駅のほうへ歩いて行ったのが見えたから……友達と」
「そうなの?」
リエの視線が桜雪に移った。桜雪はこくんと小さくうなずく。嘘をついているわけではない。一香は梓の彼女だけど、友達でもある。
「そっかぁ……私ね、昨日酔っぱらって、梓にひどいことしちゃったみたいだから、謝りたかったんだけど」
息を吐くように笑ったリエは、橋の欄干に寄りかかって桜雪を見た。
「ねぇ、桜雪ちゃん。梓って、学校ではどんな感じ?」
「え、ああ。いつも笑ってます。友達もたくさんいるし、勉強もできるし」
「勉強はね、ちゃんとやりなさいって小さい頃から言ってるの。私が頭悪くて馬鹿にされたから、息子にはそんな想いさせたくないなぁって思って」
ふふっと子どものように笑ったリエが、懐かしそうに話し始める。
「私ね、小学生の頃はいじめられてたんだ。バカで。で、中学になったら友達ができたんだけど、いわゆるヤンキーってやつ? でもね、みんないい子で、私のこと仲間だって言ってくれたの」
桜雪は眩しい太陽の下で、その話を聞く。
「でも私の好きだった彼は、全く反対側の人。頭が良くて礼儀正しくて、いいところの坊ちゃんで。なのに彼は私のことを、差別なんてしなかった。他の子と同じように接してくれた。たったそれだけのことが嬉しくて、好きになっちゃったの」
黒い傘の下で、リエはくすくすと笑う。そして笑い終わったあと、低い声でつぶやいた。
「彼が死んだ日に、梓が生まれたの。彼はいなくなってしまったけど、私には梓がいる。梓がいなかったら、私はとっくに死んでた」
背中がなぜかぞくりと震えた。
「桜雪ちゃん、梓はいい子でしょう? いつも私のそばにいてくれる。私はもう、梓がいないと生きていけない」
違う。何かが違う。
――あの人はさ、俺がいないと生きていけないから。
いつかそう言った梓。だけど本当は逃げ出したいんじゃないだろうか。
自分の母親から。その愛情から。生まれ持った運命から。
あの明るい雨が降った日、桜雪を追いかけてきた梓の姿を思い出す。
「霧島くんは……いい子だと思います。お母さんのことも、すごく大切にしてる。だけどこのままじゃ、霧島くんはどこへも行けない」
この狭い町に閉じ込められている、自分と同じように。
「霧島くんのこと、もう自由にさせてあげてください。霧島くんはお母さんの好きだった、梓って人じゃないんだから」
リエが黙って桜雪のことを見ている。桜雪は唇をかみしめ、涙をこらえる。
やがて黒い傘をすっと閉じたリエが、桜雪に笑いかけた。
「そうだね。桜雪ちゃんの言う通りだね。私は梓をあの人の代わりにして、縛り付けてるだけだった」
夏の日差しがふたりの上からじりじりと照りつける。
「ほんとうはわかってるんだけど、寂しくていつも梓に頼っちゃって。駄目だね、こんな母親。息子のほうがよっぽど大人だよね」
ふふっと笑ったリエが桜雪の顔を見る。
「桜雪ちゃん。梓と仲良くしてあげてね?」
初めて会った日に言われた言葉。だけど梓にはもう一香がいる。
「梓のこと、もう自由にしてあげなきゃね……」
自転車を押しながら、リエと一緒に帰った。
途中で親戚の叔母さんとすれ違ったけれど、もう気にしなかった。
リエは、梓の生まれた日のことや、小さかった頃の話を桜雪にたくさんしてくれた。
けれどどうしてその時、気づかなかったのだろう。
この人から梓がいなくなったら、この人はもう、生きてはいけなくなるってこと。