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二学期が始まった。
桜雪が梓の家を訪れたあの夏休みの日以来、ふたりが会話することはなく、学校が始まってもそれは変わらなかった。
教室での梓はいつも友達に囲まれて、笑ったり騒いだりしている、わりとクラスの中心にいる生徒だ。
放課後になるとサッカー部でボールを蹴って、部活が休みの日は仲間とふざけながら自転車で帰っていく。
そんなに勉強しているふうには見えないけれど、テストの結果は学年でいつも上位。
夏休み中に身長がぐんと伸び、女の子たちから「かわいい」と噂されていたのが「かっこいい」に変わったことを桜雪は知っていた。
二学期が終わり三学期になると、時々廊下で一香としゃべっている梓の姿を見かけた。
桜雪はそんなふたりを見かけるとさりげなく視線をそらし、急いで教室の中へ駆け込んだ。
教室の窓から外を見る。朝から降り続いていた雨は、雪に変わっていた。
今日はサッカー部の練習はないだろう。そんなことを考えながら、何かを期待している自分に気がつく。
一学期の終わり。暑かった日。桜雪のことを待っていた白いシャツ。
もうあんな日は、きっと二度と来ない。そう思っているのに。
そのまま三学期も終わり二年生になると、梓とは別々のクラスになり、顔を合わせることもめったになくなった。
ただ、部活のない水曜日の放課後だけは、その姿を見かけてしまう。
桜雪と同じ家の方向へ、自転車を押しながら、一香と並んで帰る梓の姿を。
*
桜雪が和臣に会ったのは夏休みに入ってからだった。
年の初めの正月にも、家族同士の食事会があったけれど、桜雪は和臣のことを避けていた。
そんな桜雪の態度を改めさせようと、親は口を出したが、桜雪は頑なにそれを拒否した。
和臣のほうは桜雪に殴られたことなど気にもせず「桜雪は意地っ張りだなぁ」などと笑っていたけど。
意地を張っているだけなのだろうか。ただわがままを言って、大人たちや和臣を困らせているだけなのだろうか。
夏休みに会った和臣は、まるで何もなかったかのように「桜雪、久しぶり」と声をかけてきた。
ちょうど休暇中だった父親と、居間で大学の話をしながら。
「桜雪。あなたもここに座ったら。和臣くん、今夜には東京へ帰ってしまうんですって」
麦茶を持ってきた母が桜雪に声をかける。
今夜東京へ帰る。その言葉に、桜雪は少しほっとした。
「私、塾の宿題があるから」
そうつぶやいた桜雪のことを、和臣が黙って見ている。桜雪はさりげなく視線をそらし、居間から出て二階へ上がった。
机の上に塾の宿題を広げる。
桜雪は二年生になってから、父親の勧める塾へ通い始めた。あいかわらず成績が良くなかったからだ。
塾は隣の町にあって、授業のある日は放課後母が学校まで車で迎えにきてくれた。そしてそのまま夜まで勉強して、また母の車で帰るのだ。
そこに通う生徒たちは、みんなレベルの高い進学校を目指していた。桜雪も和臣の通っていた高校を第一志望にしていたけれど、周りの生徒と比べると劣っている自分に気づいていた。
幼い頃からずっと、父の言う通りに勉強してきた。でも最近は何のために勉強しているのか、わからなくなってしまった。
それに桜雪がこんなに頑張っても、塾に行っていない梓のほうが成績が良いし、夏休み前のテストでは一香にも追い越されている。
広げた問題集を見ながらため息をついた。シャーペンの芯をカチカチと出し、指先で弄ぶ。
十四歳の夏。こんなことをするよりも、もっとやらなければならないことがあるんじゃないかと、桜雪は思っていた。
それが何なのかは、わからなかったけれど。
「桜雪? 入ってもいいか?」
和臣の声が聞こえた。桜雪はもう一度ため息を吐く。断ってもきっと、和臣は入ってくるのだろう。
「どうぞ」
桜雪が振り向いてつぶやくと、入ってきた和臣が懐かしい笑顔を見せた。
「まだ怒ってるのか? 去年のこと」
椅子に座る桜雪を見下ろすように和臣が言う。桜雪が何も答えなかったら、和臣があきれたように笑った。
「真面目すぎるんだよなぁ、桜雪は」
「真面目すぎるって……なに?」
思わず声に出すと、和臣はまた笑って言った。
「僕のこと、気に入らないならそれでもいいよ。だけど大人の前では仲の良いふりをしたほうがいい。そのほうが自分も楽になれるし、いろいろと上手くいくもんだよ」
「嘘をつけって言うの?」
「自分が楽になるための嘘だよ」
意味がわからない。難しい話で混乱させて、結局仲直りをしようとでも思っているのか。
けれど桜雪も正直疲れていた。仲の良いふりをして大人たちが納得するなら、もうそれでもいいかもしれない。
「私……和くんとは結婚なんてしないから」
「はいはい」
「ふざけないで。私、本気だよ」
「わかってるよ。桜雪に好きなやつができたら付き合えよって言っただろ?」
和臣が、桜雪の顔をのぞきこむように見る。
「それとももう、彼氏とかできた?」
「そんなのいない」
「あいつは? 霧島さんちの子」
思いきり首を横に振る。
母親と並ぶ梓の姿と、一香と一緒に帰る梓の姿が同時に浮かんで、どうしたらいいのかわからなくなった。
「よかった。ちょっと嬉しい」
そう言った和臣の唇が、素早く桜雪の唇に触れて離れる。一瞬の出来事で、桜雪はよけることもできなかった。
「や、やめて」
「なんで? 昔はよくしてただろ? あの頃は嫌がったりしなかった」
「あれは……」
唇が熱い。頬も熱い。なんだか体中が熱くて変な感じ。
前に和臣とキスした時は、こんな気持ちにならなかったのに。
「もう一回、してみる?」
「……いや」
和臣が笑って、腰をかがめる。椅子に座ったままの桜雪の肩に手を添えて、もう一度唇を押し当てる。
今度はさっきよりも長く、深く。
「どう?」
唇を離した和臣が言う。
「……いやって言ったのに」
「でも嫌がってなかった」
何も言い返せない。
逃げようと思えば逃げられたのに。二回目のキスを、桜雪は待ってしまった。
その感触を、いつだって想像していたから。教室の片隅から、梓の姿を目で追いながら。
「しばらく桜雪に会えないなんて、寂しいよ」
冗談のようにそう言うと、和臣は大きな手で桜雪の頭をなでた。幼い頃から知っている、和臣の大きな手。
頑なに拒む心を少しゆるめて、成り行きに任せるだけでこんなに楽になれるなんて。
こうやって小さな嘘を重ねながら、みんな大人になっていくのだろうか。
ほんとうの気持ちを、胸の奥に押し込んで。
和臣とは次の正月に家族と一緒に会った。
「夏休みにまた会いに行くよ。受験勉強しなくちゃな」
そう言った和臣にうなずいたら、桜雪の両親も和臣の両親も喜んでくれた。
――仲の良いふりをすれば、いろいろと上手くいく。
和臣の言った通りだった。
家では父にも母にも、和臣とのことでくどくど言われることはなくなった。
何のためなのかわからなくても、父の言う通りに塾へ行き、それなりの成績を収めれば文句も言われない。
学校では、あまり気の合わない子たちとも付き合うようにした。そうすればたったひとりで浮くこともなくて、すごく楽になれた。
なんとなく楽しく過ごせれば、それでいい。
中学最後の夏休みが来る頃、桜雪はそんなふうに思うようになっていた。
*
「桜雪。久しぶりだね」
一香に声をかけられたのは、一学期も終わろうとしている頃だった。
梅雨はまだ明けきらず、桜雪は雨の中に傘を開いていた。
「たまには一緒に帰らない?」
「うん。いいよ」
普段自転車で帰る道のりを、一香と並んで歩く。一香と一緒に帰るなんて、一年生のあの日以来だ。
「今日は桜雪のお母さん、お迎えに来ないの?」
塾のある日と雨の日は、母が車で迎えに来ることが多かった。けれど今日は母が出かけていて、ちょうど歩いて帰るつもりでいたのだ。
桜雪がそう話すと、一香は笑って言った。
「桜雪はお嬢様だもんね。私ずっと羨ましかったんだよ」
「そんなことないよ」
一香が傘の陰から、桜雪の顔をのぞきこむ。
「ほんとだよ。桜雪は私たちとは違う世界の人だと思ってた」
私たち、という言葉が引っかかった。他の誰がそんなことを思っているというのか。
「なんたって『婚約者』もいるんだしね」
「やめて。そんな人、いないから」
「え、ウソ。いるっていったじゃない」
「いるけど……その人と結婚なんてしないから」
「えー、なんで? 背が高くてかっこいいんでしょ、その人。勉強も教えてくれるんだって? 梓が言ってたよ」
一香の口から出たその名前に、胸が少し痛む。
一香にとって梓は、何でも話せる仲の良い友達なんだろうけど、桜雪にとっては、いつ話したかも忘れてしまったほど遠い存在の人になっていた。
長い道のりを一香と歩いた。
「どこの高校受けるの?」
その質問に第一志望の高校名を伝えると、一香は「私も」と言った。
「でも全然自信ないんだよね」
「私だって」
「桜雪は大丈夫だよ。塾通ってるんだし」
そう言ったあとに、一香は付け足す。
「梓も受けるんだって。だから私、絶対そこに行きたいの」
傘の陰からゆっくりと一香の横顔を見た。一香はどこか清々しい表情で、前を見つめている。
明るい雨が降り続いていた。一香と別れる道が近づいていた。
「あのね、桜雪。私ね」
前を向いたままの一香が、つぶやくように言う。
「梓と、付き合うことになったんだ」
一香の横顔を見つめたまま、その言葉を頭の中で繰り返す。
――梓と、付き合うことになったんだ。
水たまりを踏みしめ足を止めた。一香も立ち止まって桜雪のことを見る。
そしてほんの少し、口元をゆるませて言った。
「桜雪。おんなじ高校行けるといいね」
ぎこちなくうなずいた桜雪の前で、一香が笑う。
「私たちずっと、友達だもんね」
「……うん」
水色の傘を揺らして、一香が道を曲がっていく。桜雪は立ち止まったまま、その背中を見送る。
――私たちずっと、友達だもんね。
友達でなんか、いられるはずはない。
桜雪は今日またひとつ、嘘をついた。