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「和臣くんと、喧嘩したそうじゃないか」
その日の夜、桜雪は父の部屋へ呼び出された。父の座る前で正座をして、桜雪はその声を聞く。
「勉強ももう、教えてもらわなくていいと言ったそうだな。どういうつもりでそんなことを」
「和臣くんが、人の悪口ばかり言うからです」
顔を上げ、桜雪は父に向かって言う。
「お父さん、人の悪口は言ってはいけないんでしょう?」
「そうだな」
「じゃあ、お父さんもやめて。霧島くんと霧島くんのお母さんを悪く言うこと」
父の顔つきが微妙に変わる。すると桜雪の後ろにいた母親が口を挟んだ。
「桜雪。ちゃんと和臣くんに謝らなくちゃ駄目よ」
「お母さん、どうして? どうして私が謝らなくちゃいけないの? 悪いのは和くんのほうだよ」
「和臣くんは桜雪のために来てくれていたのよ。それなのに『もう来ないで』なんて……わがまま言うんじゃありません」
わがままなんて言っていない。悪いのは絶対に和臣のほうだ。
そんな桜雪に父が言う。
「桜雪。お前はまだ美しいものしか見えないのだろう。だが今はそれでいい。大人になって汚れたものが見えるようになった時、父さんたちに守られていたことがきっとわかるはずだ」
「汚れたもの?」
「そうだよ。世の中には桜雪の知らない汚いものもたくさんある。父さんたちはそんなものから桜雪を守るために、口うるさく言っているのだ。父さんたちの言う通りにしていれば、お前は幸せになれる」
結局、大人の言いなりになれというのか。
自分たちと違うものは排除し、友達も結婚相手も、大人の選んだ人とだけ付き合う。
そんなことで幸せになれるなんて、桜雪は到底思えなかった。
*
翌日、父が和臣の家へ出かけた姿を見送ると、桜雪はそっと家を抜け出した。
お気に入りのバッグの中に勉強道具を入れて。
日差しは弱く、空は薄曇りだった。そんな空の下を、桜雪はひとりで歩く。
もう父や母の言うことはきかない。昨日一晩考えて、そう決めた。
もしかしたら父が和臣を連れてくるかもしれないけれど、もう一緒に勉強などしない。
もちろん結婚なんて、絶対しない。
怒られたっていい。このまま間違った大人の言いなりになるのはもう嫌だった。
田舎道を少し歩くと、梓の家が見えた。桜雪は門の前で深呼吸をする。
今日は水曜日。どこの部活もお休みだって知っている。どこかへ遊びに出かけていなければ、梓は家にいるはずだ。
錆びついた門を開くと、ギイッと鈍い音が響いた。少し気持ちがくじけそうになったけど、桜雪はそのまま中へ進んだ。
手入れのされていない庭には、雑草や名前も知らない花が好き勝手に生えていた。
――最近霧島さんちの旦那さんと奥さん、姿を見ないわねぇ。
――あの娘と孫が帰って来てから、ますますこの土地に居づらくなったようだよ。
――娘たちが出て行かないから、ご両親が出て行ったのかしら? 気の毒な話よねぇ。
母と父がそんなことを話しているのを聞いた。
もしそれが本当だったら、梓の祖父母を追い出したのは桜雪の家族だ。
周りから精神的に追い詰めて、いらないものをこの土地から排除したのだ。
玄関の前に立ち、呼び鈴を押す。しばらくの沈黙のあと、玄関の引き戸が開いた。
桜雪の前に立っているのは、梓だった。
「ごめんね。急に来ちゃって」
少し戸惑うような顔をした梓は、Tシャツに学校の体育で使うハーフパンツをはいていた。
「おじいさんとおばあさんは?」
「いない。引っ越したんだ。隣の町に」
父と母の言っていたことは本当だったのだ。桜雪は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「あの……昨日はごめんなさい」
そう言って、梓の前で頭を下げた。
――綾瀬はやっぱり、こんな変な親子とは付き合わない方がいいよ。
一学期最後の日に、そう言われたことを思い出す。だけど桜雪は顔を上げて梓に言う。
「あの人……和臣くんには勉強を教えてもらってたの。でももうそれはやめる。だってあんなでたらめなこと言うなんて、ひどいもの」
梓は何も言わなかった。桜雪は持っていたバッグを、胸にぎゅっと抱える。
「だからね……もし霧島くんがよかったら、その、一緒に勉強しようと思って……」
「悪いけど、俺、やることあるから」
桜雪が梓の顔を見る。梓はそんな桜雪に言う。
「それに俺、でたらめだなんて、ひと言も言ってないよ」
「え?」
「あの人の言ってた『できてる』って言葉が、『お互い離れられない』って意味だったらそうだから」
「ど、どういうこと?」
戸惑う桜雪の耳に、部屋の奥からけだるそうな声が聞こえた。
「梓ぁー? どこにいるのー? 今日はどこにも行かないって言ったよねぇ?」
リエの声だ。呆然と立っている桜雪の目に、薄っぺらな黒いキャミソールを一枚だけ着た彼女の姿が映る。
「ああ、桜雪ちゃん、来てたの?」
桜雪に気づいたリエは、恥ずかしがる様子もなく、長い髪をかき上げながら笑顔を見せる。
「上がってく?」
「いえ……帰ります」
どうしてそう言ってしまったのだろう。けれど桜雪が入ってはいけないような雰囲気がそこにはあった。
じっとりとした薄暗い部屋の中。下着姿の母親と、その隣に並ぶ梓。
――あの親子、できてるって。
――『お互い離れられない』って意味だったらそうだから。
和臣と梓の言葉が頭の中をぐるぐる回る。
そのまま小さく頭を下げて、桜雪は逃げるように玄関を出た。
明るい空からは細い雨が落ちていた。
桜雪の腰あたりまで伸びた雑草に、雨の雫が光っている。
そんな草をかき分けるように進み、古びた門に手をかけた時、背中に声がかかった。
「綾瀬」
ゆっくりと後ろを振り返る。桜雪を追いかけるように出てきた梓が立っている。
うっすらと日差しが差した。さらさらと降る雨が、梓の髪を濡らしてゆく。
綺麗だな、と思った。すごく綺麗だな、と。そう思ったら、泣けてきた。
涙が頬を伝う。梓は何か言いたそうに開いた口を、すぐに閉じて桜雪を見つめた。
梓の肩を濡らす雨。桜雪は傘を持っていない。梓に差しかけてあげられる傘を、桜雪は持っていない。
「……霧島くん、ごめんなさい」
声にならない声でつぶやいて、桜雪は梓を残し門の外へ出た。
あの日、桜雪のことを追いかけてきた梓に、傘を差しかけてあげられたら。
一緒に行こうと、手を取り、連れ出してあげられたら。
何かが変わっていただろうか。
縛られて、動けなくなった狭い世界から、連れ出して欲しかったのは梓も同じだったのに。
十三歳の桜雪には、どうすることもできなかったのだ。