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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
雨の嘘
11/50

 夏休みの間中、和臣は毎日のように綾瀬家へやってきた。

「桜雪に勉強を教えてやってくれないか? 中学に入ってから成績が落ちてしまって」

 父親にそう頼まれたからだ。桜雪は一言も頼んでいないのに。

 けれど成績が落ちたことは事実だ。中学生になってから、全く勉強に身が入らない。

 どうしてだろう。こんな成績では和臣の通っていた高校へなんて行けるはずがない。

「大丈夫。桜雪はまだ中一だろ。夏休みは俺がしごいてやるから」

 和臣は冗談交じりにそう言ったけど、桜雪は乗り気ではなかった。

 部屋でふたりきりになるのが嫌だったから、下の客間で勉強をした。縁側に吊るされた風鈴が時々風に揺れ、ちりんと乾いた音を立てる。


「和臣くん。東京での学校生活はどう? もう慣れた?」

 麦茶を運んできてくれた母が、和臣に聞く。

「はい。最初は慣れない都会に戸惑いましたが、今は友人もできて毎日が充実しています」

 爽やかにそう答えると、和臣は「いただきます」と言って麦茶を一口飲む。

「でも一人暮らしは大変じゃない?」

「ええ、まあ。できるだけ自炊するようにはしてるんですけど」

「偉いわねぇ。桜雪も和臣くんを見習わないとね」

 母がそう言って微笑んで、部屋を出て行く。


 つまらなかった。

 勉強も和臣の話を聞くのも。前はこんなことなかったのに。

 問題を解くふりをして、指先でシャーペンをもてあそんでいたら、和臣が言った。

「やる気なさそうだな」

 やる気なんてない。桜雪が黙っていると、和臣が立ち上がった。

「暑いし、アイスでも買いに行くか」

「え?」

「昔よく食ったジャリジャリソーダ、まだ売ってるかな?」

 懐かしそうに笑う和臣の顔を、桜雪はただぼんやりと見つめていた。


 麦わら帽子をかぶって、真夏の太陽の下を和臣と歩いた。

「こんな暑い時間に外歩いてる人いないよ」

 桜雪の言葉に和臣が笑う。

 幼い頃、この道の先にある小さな雑貨屋に売っているアイスを、和臣とふたりでよく買いに行った。

 小さな手に百円玉を握りしめて。

「和くん、和くん」

 ちょっと先を歩く和臣の背中を、幼い桜雪はいつも追いかけていた。

 振り返った和臣は優しい顔で笑って、桜雪の前に手を差し伸べる。大きくて、とても温かい手。

 和臣は桜雪にとって、優しくて頼りになる兄のような存在だった。

 そして桜雪の生きてきた十三年間には、和臣との思い出があちこちに散りばめられているのだ。


「桜雪はさ」

 眩しそうに青い空を見上げて、和臣がつぶやく。

「好きなやつとかいるの?」

「え……」

 つい見上げた和臣は背が高い。高校時代はバスケ部のキャプテンをしていた。

 勉強も運動もできて、リーダーシップもとれる和臣のことを、桜雪の父はいつも褒めている。

「いや、いてもおかしくないよなぁって思って」

 桜雪は父から聞いた言葉を思い出す。

 ――お前は将来、和臣くんと結婚するのだ。

 その言葉を振り払うかのように、桜雪は首を横に振る。


「いないよ。和くんは?」

「僕は言っただろ? 桜雪のことがずっと好きだったって」

 ふっと笑った和臣と目が合って、桜雪はさりげなく視線をはずす。

「ほんとうに……私と結婚するつもりなの?」

 結婚なんてまだずっと先のことで、想像もつかない。だけどそんなことまで大人たちに縛られなくてはいけないなんて。やっぱり納得がいかない。

「桜雪は嫌なの?」

 和臣の声が、蝉の鳴き声に混じる。

「嫌というか……そんな先のこと決められないよ。私はこれからいろんな人と出会って、ほんとうに好きになった人と結婚したい」

「いろんな人と付き合ってみるのはいいんじゃないか? 桜雪の好きなようにすればいい。だけど最終的に一緒になるのは僕だと思う。結婚っていうのは家と家のつながりでもあるから」

 和臣は本当にそう思っているのだろうか。

 頭が良くて、まだ若い和臣が、大人たちの決めた結婚に従うなんて。桜雪には全く理解できなかった。


 お婆さんがひとりで店番をしている雑貨屋で、アイスキャンディーを買った。

 お金は和臣が払ってくれた。お婆さんは和臣のことを憶えていて「安達建設の息子さんでしょ? 大きくなったねぇ」と目を細めた。

 帰り道はアイスを食べながら歩いた。

「懐かしいなぁ、この味」

 和臣はずっとご機嫌だ。けれど桜雪はやっぱり笑顔になれない。

 アイスを一口かじる。しゃりっと氷が溶けて口の中に甘酸っぱさが広がる。

 幼い頃と同じ味。この味はいつまでも変わらないのだろうか。

 変わりたくても変われないで、このままこの狭い町の中で大人になってゆく自分のように。


「あれ」

 最後の一口を食べ終わった和臣が、何かに気づいたように立ち止まる。

「もしかして……」

 和臣の隣で足を止め、桜雪はその視線の先を追いかける。

 目の前に続く一本道。正面から走ってくる自転車。見慣れたサッカー部のトレーニングシャツ。

 桜雪はアイスを持っていた手を下に降ろす。溶けかけた雫がぽたりと地面に落ちる。

「霧島くん……」

 声にならないほどの桜雪の声を聞き、和臣がほんの少し口元をゆるませる。

 自転車で走ってきた梓は一瞬驚いた顔をしたあと、何も言わずに桜雪の隣を走り抜けようとした。


「ちょっと待って。君、前に会ったことあるよね?」

 和臣の声と自転車のブレーキ音が重なる。桜雪が振り返ると、自転車を止めた梓もこちらを向いた。

「ああ、やっぱり。髪の色が違うから別人かと思ったけど。桜雪の友達だよね?」

 和臣の言葉を聞きながら、桜雪は苛立ちを覚えた。

 あの親子とは付き合っては駄目だと言ったくせに、どうしてわざわざ梓に声をかけたりするのだろう。

 和臣の考えていることは、やっぱりわからない。

 自転車にまたがったまま、梓は和臣に向かって小さくうなずく。それからちらりと桜雪に視線を移す。

 桜雪はすぐにでも、この場から立ち去りたかった。

 和臣が梓に話しかけるのも嫌だし、和臣と一緒にいる自分のことを、梓がどう思うかと考えると嫌になった。和臣が桜雪の「婚約者」だということを、梓は知っているから。

 そんな桜雪の前で和臣が言った。


「今日はお母さんと一緒じゃないの?」

 なんで和臣はそんなことを聞くのか。

「すごく仲の良い親子だって聞いてるから」

「別にいつも一緒にいるわけじゃないです」

 ずっと黙っていた梓が答えると、和臣は「そうなんだ」と笑った。

 何か嫌な予感がする。これ以上梓に話しかけて欲しくない。

「和くん! もう行こう!」

 桜雪は和臣の腕を引っ張った。そして梓に向かって言う。

「霧島くん、引き止めちゃってごめんね。じゃあ」

 逃げるようにその腕を引っ張って歩き出す。和臣は不満そうな顔を作って桜雪に言う。


「なんだよ、まだ聞きたいことあったのに」

「聞きたいこと?」

 桜雪が立ち止まって和臣を見上げる。

「霧島くんに聞きたいことって……なんなの?」

 日差しが真上から照りつけた。もっていたアイスが溶けて、ぽたりぽたりと地面に落ちる。だけどそんなことより和臣の答えが気になる。

 和臣はまた小さく笑うと、桜雪の前で言った。

「あの親子、怪しいと思わないか?」

「怪しいって……何が?」

「桜雪も知ってるだろ? あの母親が息子を溺愛してること」

 確かに梓は、母親からすごくかわいがられていると思う。だけど……。

「それのどこが怪しいの? 霧島くんちはお父さんがいなくて、ずっとお母さんとふたりきりだったからだよ」

「わかってないなぁ、桜雪は」

 和臣がため息を吐きながら、かすかに笑う。

「大人たちの間で噂だよ。あの親子、できてるって」

「なっ……」

 言葉を詰まらせた桜雪の耳に、和臣の声が聞こえる。

「あの母親、好きな人を亡くしてからは、次々といろんな男と遊びまくって、それに物足りなくなって息子にまで手を出したらしい」

 桜雪の後ろで自転車のブレーキ音が響いた。驚いて振り返ると、自転車から降りた梓がそこにいた。


「それ、誰が言ったんですか?」

 乱暴に自転車を地面へ倒すと、梓は桜雪と和臣の間に割り込むように入ってきた。

「そんなこと、誰が言ったんですか!」

「なんだ、聞いてたの?」

 苦笑いをする和臣のことを、梓が睨みつけている。

 梓のこんな怒った顔、桜雪は初めて見た。

「僕は噂で聞いただけだよ。だけどさ、ぶっちゃけどうなの? もしそんなことになってたら虐待じゃないの? 君のお母さん、大丈夫なの?」

 梓の手が真っ直ぐ伸びた。声も出せない桜雪の前で、梓は自分より二十センチ以上も背の高い和臣の胸元をつかむ。

「なんだ? 気に入らないことがあるとすぐ暴力? これだから中学生ってやつは」

 うつむいて、ぎゅっと握りしめている梓の右手が震えている。それを見たら、桜雪は耐え切れなくなり、和臣から梓の手を振り払った。


「霧島くんはあっち行ってて」

「綾瀬……」

 梓を押しのけるようにして前へ出ると、桜雪はその手で和臣の頬をひっぱたいた。

「いっ……」

 不意打ちに顔をしかめた和臣が、頬をおさえて桜雪のことを見る。

「謝って!」

「桜雪……なに言って……」

「いいから霧島くんに謝ってよ! 自分で見たわけでもないのにでたらめばっかり。人の悪口言ってそんなにおもしろい?」

「綾瀬」

 そんな桜雪の背中に声がかかる。

「もういいよ」

 振り向くと、梓がぽつりとつぶやいた。

「もういい。ごめん」

「霧島くん……」

 倒れた自転車を立てると、梓はそれにまたがった。

「き、霧島くんは悪くないよ! なんにも悪くないよ!」

 桜雪が必死に叫んだけれど、振り向かないまま梓の自転車は走り出し、すぐにその背中は見えなくなった。

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