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夏休みの間中、和臣は毎日のように綾瀬家へやってきた。
「桜雪に勉強を教えてやってくれないか? 中学に入ってから成績が落ちてしまって」
父親にそう頼まれたからだ。桜雪は一言も頼んでいないのに。
けれど成績が落ちたことは事実だ。中学生になってから、全く勉強に身が入らない。
どうしてだろう。こんな成績では和臣の通っていた高校へなんて行けるはずがない。
「大丈夫。桜雪はまだ中一だろ。夏休みは俺がしごいてやるから」
和臣は冗談交じりにそう言ったけど、桜雪は乗り気ではなかった。
部屋でふたりきりになるのが嫌だったから、下の客間で勉強をした。縁側に吊るされた風鈴が時々風に揺れ、ちりんと乾いた音を立てる。
「和臣くん。東京での学校生活はどう? もう慣れた?」
麦茶を運んできてくれた母が、和臣に聞く。
「はい。最初は慣れない都会に戸惑いましたが、今は友人もできて毎日が充実しています」
爽やかにそう答えると、和臣は「いただきます」と言って麦茶を一口飲む。
「でも一人暮らしは大変じゃない?」
「ええ、まあ。できるだけ自炊するようにはしてるんですけど」
「偉いわねぇ。桜雪も和臣くんを見習わないとね」
母がそう言って微笑んで、部屋を出て行く。
つまらなかった。
勉強も和臣の話を聞くのも。前はこんなことなかったのに。
問題を解くふりをして、指先でシャーペンをもてあそんでいたら、和臣が言った。
「やる気なさそうだな」
やる気なんてない。桜雪が黙っていると、和臣が立ち上がった。
「暑いし、アイスでも買いに行くか」
「え?」
「昔よく食ったジャリジャリソーダ、まだ売ってるかな?」
懐かしそうに笑う和臣の顔を、桜雪はただぼんやりと見つめていた。
麦わら帽子をかぶって、真夏の太陽の下を和臣と歩いた。
「こんな暑い時間に外歩いてる人いないよ」
桜雪の言葉に和臣が笑う。
幼い頃、この道の先にある小さな雑貨屋に売っているアイスを、和臣とふたりでよく買いに行った。
小さな手に百円玉を握りしめて。
「和くん、和くん」
ちょっと先を歩く和臣の背中を、幼い桜雪はいつも追いかけていた。
振り返った和臣は優しい顔で笑って、桜雪の前に手を差し伸べる。大きくて、とても温かい手。
和臣は桜雪にとって、優しくて頼りになる兄のような存在だった。
そして桜雪の生きてきた十三年間には、和臣との思い出があちこちに散りばめられているのだ。
「桜雪はさ」
眩しそうに青い空を見上げて、和臣がつぶやく。
「好きなやつとかいるの?」
「え……」
つい見上げた和臣は背が高い。高校時代はバスケ部のキャプテンをしていた。
勉強も運動もできて、リーダーシップもとれる和臣のことを、桜雪の父はいつも褒めている。
「いや、いてもおかしくないよなぁって思って」
桜雪は父から聞いた言葉を思い出す。
――お前は将来、和臣くんと結婚するのだ。
その言葉を振り払うかのように、桜雪は首を横に振る。
「いないよ。和くんは?」
「僕は言っただろ? 桜雪のことがずっと好きだったって」
ふっと笑った和臣と目が合って、桜雪はさりげなく視線をはずす。
「ほんとうに……私と結婚するつもりなの?」
結婚なんてまだずっと先のことで、想像もつかない。だけどそんなことまで大人たちに縛られなくてはいけないなんて。やっぱり納得がいかない。
「桜雪は嫌なの?」
和臣の声が、蝉の鳴き声に混じる。
「嫌というか……そんな先のこと決められないよ。私はこれからいろんな人と出会って、ほんとうに好きになった人と結婚したい」
「いろんな人と付き合ってみるのはいいんじゃないか? 桜雪の好きなようにすればいい。だけど最終的に一緒になるのは僕だと思う。結婚っていうのは家と家のつながりでもあるから」
和臣は本当にそう思っているのだろうか。
頭が良くて、まだ若い和臣が、大人たちの決めた結婚に従うなんて。桜雪には全く理解できなかった。
お婆さんがひとりで店番をしている雑貨屋で、アイスキャンディーを買った。
お金は和臣が払ってくれた。お婆さんは和臣のことを憶えていて「安達建設の息子さんでしょ? 大きくなったねぇ」と目を細めた。
帰り道はアイスを食べながら歩いた。
「懐かしいなぁ、この味」
和臣はずっとご機嫌だ。けれど桜雪はやっぱり笑顔になれない。
アイスを一口かじる。しゃりっと氷が溶けて口の中に甘酸っぱさが広がる。
幼い頃と同じ味。この味はいつまでも変わらないのだろうか。
変わりたくても変われないで、このままこの狭い町の中で大人になってゆく自分のように。
「あれ」
最後の一口を食べ終わった和臣が、何かに気づいたように立ち止まる。
「もしかして……」
和臣の隣で足を止め、桜雪はその視線の先を追いかける。
目の前に続く一本道。正面から走ってくる自転車。見慣れたサッカー部のトレーニングシャツ。
桜雪はアイスを持っていた手を下に降ろす。溶けかけた雫がぽたりと地面に落ちる。
「霧島くん……」
声にならないほどの桜雪の声を聞き、和臣がほんの少し口元をゆるませる。
自転車で走ってきた梓は一瞬驚いた顔をしたあと、何も言わずに桜雪の隣を走り抜けようとした。
「ちょっと待って。君、前に会ったことあるよね?」
和臣の声と自転車のブレーキ音が重なる。桜雪が振り返ると、自転車を止めた梓もこちらを向いた。
「ああ、やっぱり。髪の色が違うから別人かと思ったけど。桜雪の友達だよね?」
和臣の言葉を聞きながら、桜雪は苛立ちを覚えた。
あの親子とは付き合っては駄目だと言ったくせに、どうしてわざわざ梓に声をかけたりするのだろう。
和臣の考えていることは、やっぱりわからない。
自転車にまたがったまま、梓は和臣に向かって小さくうなずく。それからちらりと桜雪に視線を移す。
桜雪はすぐにでも、この場から立ち去りたかった。
和臣が梓に話しかけるのも嫌だし、和臣と一緒にいる自分のことを、梓がどう思うかと考えると嫌になった。和臣が桜雪の「婚約者」だということを、梓は知っているから。
そんな桜雪の前で和臣が言った。
「今日はお母さんと一緒じゃないの?」
なんで和臣はそんなことを聞くのか。
「すごく仲の良い親子だって聞いてるから」
「別にいつも一緒にいるわけじゃないです」
ずっと黙っていた梓が答えると、和臣は「そうなんだ」と笑った。
何か嫌な予感がする。これ以上梓に話しかけて欲しくない。
「和くん! もう行こう!」
桜雪は和臣の腕を引っ張った。そして梓に向かって言う。
「霧島くん、引き止めちゃってごめんね。じゃあ」
逃げるようにその腕を引っ張って歩き出す。和臣は不満そうな顔を作って桜雪に言う。
「なんだよ、まだ聞きたいことあったのに」
「聞きたいこと?」
桜雪が立ち止まって和臣を見上げる。
「霧島くんに聞きたいことって……なんなの?」
日差しが真上から照りつけた。もっていたアイスが溶けて、ぽたりぽたりと地面に落ちる。だけどそんなことより和臣の答えが気になる。
和臣はまた小さく笑うと、桜雪の前で言った。
「あの親子、怪しいと思わないか?」
「怪しいって……何が?」
「桜雪も知ってるだろ? あの母親が息子を溺愛してること」
確かに梓は、母親からすごくかわいがられていると思う。だけど……。
「それのどこが怪しいの? 霧島くんちはお父さんがいなくて、ずっとお母さんとふたりきりだったからだよ」
「わかってないなぁ、桜雪は」
和臣がため息を吐きながら、かすかに笑う。
「大人たちの間で噂だよ。あの親子、できてるって」
「なっ……」
言葉を詰まらせた桜雪の耳に、和臣の声が聞こえる。
「あの母親、好きな人を亡くしてからは、次々といろんな男と遊びまくって、それに物足りなくなって息子にまで手を出したらしい」
桜雪の後ろで自転車のブレーキ音が響いた。驚いて振り返ると、自転車から降りた梓がそこにいた。
「それ、誰が言ったんですか?」
乱暴に自転車を地面へ倒すと、梓は桜雪と和臣の間に割り込むように入ってきた。
「そんなこと、誰が言ったんですか!」
「なんだ、聞いてたの?」
苦笑いをする和臣のことを、梓が睨みつけている。
梓のこんな怒った顔、桜雪は初めて見た。
「僕は噂で聞いただけだよ。だけどさ、ぶっちゃけどうなの? もしそんなことになってたら虐待じゃないの? 君のお母さん、大丈夫なの?」
梓の手が真っ直ぐ伸びた。声も出せない桜雪の前で、梓は自分より二十センチ以上も背の高い和臣の胸元をつかむ。
「なんだ? 気に入らないことがあるとすぐ暴力? これだから中学生ってやつは」
うつむいて、ぎゅっと握りしめている梓の右手が震えている。それを見たら、桜雪は耐え切れなくなり、和臣から梓の手を振り払った。
「霧島くんはあっち行ってて」
「綾瀬……」
梓を押しのけるようにして前へ出ると、桜雪はその手で和臣の頬をひっぱたいた。
「いっ……」
不意打ちに顔をしかめた和臣が、頬をおさえて桜雪のことを見る。
「謝って!」
「桜雪……なに言って……」
「いいから霧島くんに謝ってよ! 自分で見たわけでもないのにでたらめばっかり。人の悪口言ってそんなにおもしろい?」
「綾瀬」
そんな桜雪の背中に声がかかる。
「もういいよ」
振り向くと、梓がぽつりとつぶやいた。
「もういい。ごめん」
「霧島くん……」
倒れた自転車を立てると、梓はそれにまたがった。
「き、霧島くんは悪くないよ! なんにも悪くないよ!」
桜雪が必死に叫んだけれど、振り向かないまま梓の自転車は走り出し、すぐにその背中は見えなくなった。