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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
雨の嘘
10/50

 雨の季節が過ぎると、この町に短い夏が来た。

 気まずくなった一香とは、あの日以来しゃべっていない。梓とも、もちろん話していない。

 夏休みが近づいた頃、三組の女の子が梓に告白したって聞いた。だけど梓が、女の子と付き合っている気配はない。

 いつも教室の真ん中で楽しそうに笑っていて、男子とも女子とも気軽に話していて、授業が終わるとサッカー部の仲間と騒ぎながら教室を出て行く。何の悩みもなさそうに。

 そして桜雪は、そんな梓の背中を見送ってから、ひとりで教室を出るのが日課だった。それなのに……。


 一学期最後の日、靴を履き替え外へ出ると、そこに梓がひとりで立っていた。

 いつものように肩にスポーツバッグをかけ、部活はないのか白いワイシャツ姿だった。

「綾瀬」

 通り過ぎようか、立ち止まろうか迷っていたら、梓に声をかけられた。

「話があるんだ。ちょっとだけ、いい?」

 終業式のあとの昼下がり。夏の太陽がまぶしくて、桜雪はまともに梓の顔を見ることができなかった。


「歩きながら話すから」

 梓にそう言われ、自転車を押しながら、ふたりで並んで歩き始めた。

 制服を着て、梓と一緒に歩くのなんて初めてだ。それどころか、言葉を交わすことさえ、もうずいぶんしていない。

 ふたりを追い越すように、生徒たちがはしゃぎながら帰っていく。明日から夏休みだからだろう。どの子もみんな嬉しそうな顔をしている。

 しばらく黙って歩き続けた梓が、やっと桜雪の隣で口を開いた。


「この前は……ごめん」

「え?」

 桜雪は顔を上げて梓を見る。

「リエさんが話しかけたりして……ごめん」

「なんで謝るの?」

「だって怒られるんだろ? 俺やリエさんと話すと」

 小学生の頃、自分の言った言葉を思い出しながら、桜雪は小さく首を振る。けれどそんな桜雪の隣で梓が言う。

「知ってるんだ。俺たちが嫌われてること。リエさんは何も言わないけど、じいちゃんやばあちゃんに言われたから。何で今さらこの町に戻って来たんだ。これ以上恥をかかさないでくれって」

 胸が痛くなった。身内の人からもそんなことを言われていたなんて。


「俺の父さんって、綾瀬の親戚なんだろ?」

 梓が桜雪のことを見る。目が合って、その視線をそらしたくなったけど、桜雪は梓を見つめたまま、かすかに首を縦に振った。

「でも父さんが死んだの、リエさんのせいなんかじゃないから。周りの人も、リエさん自身もそんなこと言ってるけど、絶対そんなことないから」

「霧島くんのお父さんは……どうして亡くなったの?」

 じりじりと頭の上から太陽の日差しが照りつけた。汗がブラウスをじんわりと湿らすのがわかる。

「こんな暑かった日の夕方……何年かに一度のひどい雨が、東京に降ったんだって」

 少しの間黙り込んだあと、梓がぽつぽつと話し始める。

「俺の父さん、そんな雨の中を自転車飛ばして走ってた。よっぽど急いでたのか、赤信号無視してさ。バカだろ? その時来た車を避けようとしたら転んで頭打って……そのまま死んじゃった。あっけなく」

「そ、それがどうして、お母さんのせいになるの?」

 納得できなかった。梓の言うことが本当なら、それは不幸な事故だ。どうしてそれがリエのせいになるのか、全くわからない。

「俺だってそう思うよ。どう考えても、自分の不注意だよな。それはみんなわかってるはず。だからこそ父さんの家族は、やり場のない怒りをリエさんへ向けた。こんなことになったのは、父さんをこの町から連れ出したリエさんのせいだって」

「そんなのおかしい。絶対おかしいよ」

 桜雪の父も親戚も、みんなおかしい。

「だけどリエさん自身も、自分が悪いって思ってるから。その時お腹の中に俺がいて、予定日よりずいぶん前だったのに陣痛が始まって。怖くなって電話で父さんを呼んだら、急いで帰ってくる途中で事故に遭った。だから自分のせいだって思ってる」

「違うよ。そんなの」

 好きな人を亡くして、それだけでもショックなのに、周りの人に心無いことを言われて、自分を責めて。

 梓の母親が悪くないってことくらい、中学生の桜雪にだってわかる。


「どうしてこの町に戻って来たの?」

 桜雪が聞いた。

「そんな意地悪な人たちのいる町に、わざわざ帰ってくることないのに」

 桜雪に向かって梓が答える。

「からだ壊したっていうか、心が壊れたから。リエさんの」

「どういうこと?」

「自殺未遂を繰り返してた。普段はあんな感じでへらへらしてるくせに、何かのきっかけで突然ぷっつり切れちゃうみたいで」

 そこで言葉を切ったあと、梓は自分の首に手を当ててつぶやいた。

「一度だけ……『一緒に死のう』って言われたことがある。この首に手をかけられて……」

「うそ……」

「その時、もうヤバいなって思って。本人もそう思ったみたいで。ふたりだけで暮らすのはもう限界だから、この町に戻って来たんだ」

「霧島くん。その話、誰か大人に話したの?」

 桜雪の前で、梓は首を横に振る。

「してない。したらリエさん、捕まっちゃうよ。いいんだ、別に。こっちに来てからは、そんなことされてないし」

「でも……」

「あの人はさ、俺がいないと生きていけないから」

 そう言って、梓が大人びた表情で桜雪に笑いかける。

「綾瀬はやっぱり、こんな変な親子とは付き合わない方がいいよ。もう二度と話しかけたりしない。リエさんにも言っとく」

 違う。何かが違う。そう思うのに。どうしたらいいのかわからない。

「やだよ……そんなの」

 初めて会った日のことも。一緒に帰った雪の道も。梓の母親に抱きしめられた時のぬくもりも。全部今でも覚えてる。

「霧島くんも霧島くんのお母さんも、何も悪くないもの」

「ダメだよ。綾瀬がそう思ってくれても、周りはそう見てくれない。これからもこの町で暮らすんだったら、大人の言うことは聞いといたほうがいい」

「間違った大人の言うことでも?」

 泣きそうになった桜雪の前で、梓がうなずく。

「綾瀬まで俺たちみたいに、汚れる必要はないよ」

 梓の声が遠くなる。追いかけたいのに追いかけられない。

 照りつける太陽の下、桜雪はひとり、その場を動けなかった。


 *


 開け放した窓から蝉の声が聞こえる。

 ベッドの上で寝返りをうったら、じっとりとした汗がTシャツに沁みこんだ。

 いま、何時なんだろう……。

 ぼんやりと目を開き、天井を見つめる。

 勉強や家の手伝い、やらなければいけないことはたくさんあるのに、朝から何もやる気がしない。

「桜雪? 入るぞ」

 小さくノックする音と同時にドアが開いた。桜雪はあわててベッドの上に起き上がる。

「和くんっ」

「いつまで寝てるんだよ。夏休みだからってだらけ過ぎ。朝日屋のプリン買ってきたから起きろよ」

「きゅ、急に入って来ないでよ!」

 桜雪の声に、久しぶりに会った和臣が首をかしげる。

「ちゃんとノックしたし。声もかけたぞ?」

「まだ私、返事してないもん」

 和臣はおかしそうに笑って言う。

「はいはい、急に入って悪かったな。前はそんなこと言わなかったのに。そういえば桜雪ももう、中学生だもんな」

 桜雪の座っているベッドに和臣が腰かける。そして昔と変わらない笑顔で言う。

「ちょっとは大人になったか?」

 和臣の手がすっと伸び、桜雪の頬に触れた。桜雪はその手から逃げるように、ベッドから飛び降りる。

「プリン、食べに行こう。下の部屋にあるんでしょ?」

「ああ……」

「先、行ってるね」


 和臣をベッドの上に残したまま、桜雪は階段を降りた。そして誰もいない台所へ行き、小さく息を吐く。

 あのままあの場所にいたら、和臣にキスをされていたかもしれない。

 今までだったら、それを避けようなんて思わなかったのに……どうして今日は、嫌だったんだろう。

「桜雪? 起きたの? 和臣くんが買ってきてくれたプリン、冷蔵庫にあるわよ」

 母親の声が近づいてくる。

「うん、わかった」

 そう答えて、冷蔵庫のドアを開ける。

 ひんやりとした空気を感じながら、誰かが言っていた言葉を思い出す。

 ――梓って、三組の子にコクられたんだって。

 冷蔵庫の中をのぞきこんだまま、桜雪は自分の唇をなぞってみる。

 梓は誰かとキス、したことがあるんだろうか。

 なんとなく考えてから、何も出さずに扉を閉めた。

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