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雨の季節が過ぎると、この町に短い夏が来た。
気まずくなった一香とは、あの日以来しゃべっていない。梓とも、もちろん話していない。
夏休みが近づいた頃、三組の女の子が梓に告白したって聞いた。だけど梓が、女の子と付き合っている気配はない。
いつも教室の真ん中で楽しそうに笑っていて、男子とも女子とも気軽に話していて、授業が終わるとサッカー部の仲間と騒ぎながら教室を出て行く。何の悩みもなさそうに。
そして桜雪は、そんな梓の背中を見送ってから、ひとりで教室を出るのが日課だった。それなのに……。
一学期最後の日、靴を履き替え外へ出ると、そこに梓がひとりで立っていた。
いつものように肩にスポーツバッグをかけ、部活はないのか白いワイシャツ姿だった。
「綾瀬」
通り過ぎようか、立ち止まろうか迷っていたら、梓に声をかけられた。
「話があるんだ。ちょっとだけ、いい?」
終業式のあとの昼下がり。夏の太陽がまぶしくて、桜雪はまともに梓の顔を見ることができなかった。
「歩きながら話すから」
梓にそう言われ、自転車を押しながら、ふたりで並んで歩き始めた。
制服を着て、梓と一緒に歩くのなんて初めてだ。それどころか、言葉を交わすことさえ、もうずいぶんしていない。
ふたりを追い越すように、生徒たちがはしゃぎながら帰っていく。明日から夏休みだからだろう。どの子もみんな嬉しそうな顔をしている。
しばらく黙って歩き続けた梓が、やっと桜雪の隣で口を開いた。
「この前は……ごめん」
「え?」
桜雪は顔を上げて梓を見る。
「リエさんが話しかけたりして……ごめん」
「なんで謝るの?」
「だって怒られるんだろ? 俺やリエさんと話すと」
小学生の頃、自分の言った言葉を思い出しながら、桜雪は小さく首を振る。けれどそんな桜雪の隣で梓が言う。
「知ってるんだ。俺たちが嫌われてること。リエさんは何も言わないけど、じいちゃんやばあちゃんに言われたから。何で今さらこの町に戻って来たんだ。これ以上恥をかかさないでくれって」
胸が痛くなった。身内の人からもそんなことを言われていたなんて。
「俺の父さんって、綾瀬の親戚なんだろ?」
梓が桜雪のことを見る。目が合って、その視線をそらしたくなったけど、桜雪は梓を見つめたまま、かすかに首を縦に振った。
「でも父さんが死んだの、リエさんのせいなんかじゃないから。周りの人も、リエさん自身もそんなこと言ってるけど、絶対そんなことないから」
「霧島くんのお父さんは……どうして亡くなったの?」
じりじりと頭の上から太陽の日差しが照りつけた。汗がブラウスをじんわりと湿らすのがわかる。
「こんな暑かった日の夕方……何年かに一度のひどい雨が、東京に降ったんだって」
少しの間黙り込んだあと、梓がぽつぽつと話し始める。
「俺の父さん、そんな雨の中を自転車飛ばして走ってた。よっぽど急いでたのか、赤信号無視してさ。バカだろ? その時来た車を避けようとしたら転んで頭打って……そのまま死んじゃった。あっけなく」
「そ、それがどうして、お母さんのせいになるの?」
納得できなかった。梓の言うことが本当なら、それは不幸な事故だ。どうしてそれがリエのせいになるのか、全くわからない。
「俺だってそう思うよ。どう考えても、自分の不注意だよな。それはみんなわかってるはず。だからこそ父さんの家族は、やり場のない怒りをリエさんへ向けた。こんなことになったのは、父さんをこの町から連れ出したリエさんのせいだって」
「そんなのおかしい。絶対おかしいよ」
桜雪の父も親戚も、みんなおかしい。
「だけどリエさん自身も、自分が悪いって思ってるから。その時お腹の中に俺がいて、予定日よりずいぶん前だったのに陣痛が始まって。怖くなって電話で父さんを呼んだら、急いで帰ってくる途中で事故に遭った。だから自分のせいだって思ってる」
「違うよ。そんなの」
好きな人を亡くして、それだけでもショックなのに、周りの人に心無いことを言われて、自分を責めて。
梓の母親が悪くないってことくらい、中学生の桜雪にだってわかる。
「どうしてこの町に戻って来たの?」
桜雪が聞いた。
「そんな意地悪な人たちのいる町に、わざわざ帰ってくることないのに」
桜雪に向かって梓が答える。
「からだ壊したっていうか、心が壊れたから。リエさんの」
「どういうこと?」
「自殺未遂を繰り返してた。普段はあんな感じでへらへらしてるくせに、何かのきっかけで突然ぷっつり切れちゃうみたいで」
そこで言葉を切ったあと、梓は自分の首に手を当ててつぶやいた。
「一度だけ……『一緒に死のう』って言われたことがある。この首に手をかけられて……」
「うそ……」
「その時、もうヤバいなって思って。本人もそう思ったみたいで。ふたりだけで暮らすのはもう限界だから、この町に戻って来たんだ」
「霧島くん。その話、誰か大人に話したの?」
桜雪の前で、梓は首を横に振る。
「してない。したらリエさん、捕まっちゃうよ。いいんだ、別に。こっちに来てからは、そんなことされてないし」
「でも……」
「あの人はさ、俺がいないと生きていけないから」
そう言って、梓が大人びた表情で桜雪に笑いかける。
「綾瀬はやっぱり、こんな変な親子とは付き合わない方がいいよ。もう二度と話しかけたりしない。リエさんにも言っとく」
違う。何かが違う。そう思うのに。どうしたらいいのかわからない。
「やだよ……そんなの」
初めて会った日のことも。一緒に帰った雪の道も。梓の母親に抱きしめられた時のぬくもりも。全部今でも覚えてる。
「霧島くんも霧島くんのお母さんも、何も悪くないもの」
「ダメだよ。綾瀬がそう思ってくれても、周りはそう見てくれない。これからもこの町で暮らすんだったら、大人の言うことは聞いといたほうがいい」
「間違った大人の言うことでも?」
泣きそうになった桜雪の前で、梓がうなずく。
「綾瀬まで俺たちみたいに、汚れる必要はないよ」
梓の声が遠くなる。追いかけたいのに追いかけられない。
照りつける太陽の下、桜雪はひとり、その場を動けなかった。
*
開け放した窓から蝉の声が聞こえる。
ベッドの上で寝返りをうったら、じっとりとした汗がTシャツに沁みこんだ。
いま、何時なんだろう……。
ぼんやりと目を開き、天井を見つめる。
勉強や家の手伝い、やらなければいけないことはたくさんあるのに、朝から何もやる気がしない。
「桜雪? 入るぞ」
小さくノックする音と同時にドアが開いた。桜雪はあわててベッドの上に起き上がる。
「和くんっ」
「いつまで寝てるんだよ。夏休みだからってだらけ過ぎ。朝日屋のプリン買ってきたから起きろよ」
「きゅ、急に入って来ないでよ!」
桜雪の声に、久しぶりに会った和臣が首をかしげる。
「ちゃんとノックしたし。声もかけたぞ?」
「まだ私、返事してないもん」
和臣はおかしそうに笑って言う。
「はいはい、急に入って悪かったな。前はそんなこと言わなかったのに。そういえば桜雪ももう、中学生だもんな」
桜雪の座っているベッドに和臣が腰かける。そして昔と変わらない笑顔で言う。
「ちょっとは大人になったか?」
和臣の手がすっと伸び、桜雪の頬に触れた。桜雪はその手から逃げるように、ベッドから飛び降りる。
「プリン、食べに行こう。下の部屋にあるんでしょ?」
「ああ……」
「先、行ってるね」
和臣をベッドの上に残したまま、桜雪は階段を降りた。そして誰もいない台所へ行き、小さく息を吐く。
あのままあの場所にいたら、和臣にキスをされていたかもしれない。
今までだったら、それを避けようなんて思わなかったのに……どうして今日は、嫌だったんだろう。
「桜雪? 起きたの? 和臣くんが買ってきてくれたプリン、冷蔵庫にあるわよ」
母親の声が近づいてくる。
「うん、わかった」
そう答えて、冷蔵庫のドアを開ける。
ひんやりとした空気を感じながら、誰かが言っていた言葉を思い出す。
――梓って、三組の子にコクられたんだって。
冷蔵庫の中をのぞきこんだまま、桜雪は自分の唇をなぞってみる。
梓は誰かとキス、したことがあるんだろうか。
なんとなく考えてから、何も出さずに扉を閉めた。