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その冬二回目の雪が降った日、綾瀬桜雪は初めて霧島梓と出会った。
――何してるんだろう。
授業はとっくに始まっている時間だった。
朝から少し風邪気味だった桜雪は、母と一緒に病院へ行き、薬をもらって登校してきた。
門の外で母の車を降り、小学校の敷地内にひとりで入る。そこで桜雪は、見慣れない背中を目にした。
派手な色の服に金色の髪、ランドセルではなくリュックサックを背負った小柄な男の子。
誰だろう……こんな時間に、こんな場所で、何をしてるんだろう。
そんな疑問が頭をよぎったけれど、関わるべきではないという気持ちも強かった。
桜雪の見慣れたのどかな風景に、全く馴染まない後ろ姿。この学校の子でないことはもちろん、この町の子でないこともなんとなくわかる。
そんなどこの誰だかわからない人間を、簡単に受け入れてはいけないと、桜雪は幼い頃から教えられていた。
それなのに……なぜここで立ち止まってしまったのか。
白い息を吐きながら、じっと空を見上げているその横顔に引き寄せられた。
空? いや、違う。その視線はもっとずっと遠くを見ている。
説明のつかない感情に戸惑っていると、気配に気づいた男の子が振り返って桜雪を見た。
「雪……」
「え?」
周りの音が雪に吸収されて、初めて聞く少し掠れた声だけが、桜雪の耳の奥まで響く。
「雪が降ってる」
当たり前のことを言ったあと、その子は嬉しそうに笑った。桜雪は「うん」と頷くしかできない。
冬に雪が降るのは当たり前だ。今年も数日前に初雪が降り、母は「また長い冬が始まる」とため息を漏らしていた。
「すげえ。積もるかな?」
「そうだね……今日は積もるかもしれないってお母さんが言ってた」
「マジで? すげえ!」
男の子が空を仰いで手を伸ばす。雪がそんな彼の上から、小さな花びらのように舞い落ちる。
こほんとひとつ咳が出て、桜雪は体を震わせた。早く教室へ入らないと、風邪がひどくなってしまう。風邪をこじらせたりしたら、また母が父に叱られる。
慌てて昇降口へ向かおうとした時、職員玄関から若い女の人の声が聞こえた。
「梓ー! 何やってんのー! 先生が呼んでるよー」
桜雪の前に立つ男の子を梓と呼んだ女の人が、寒そうに体を擦りながら外へ出てくる。
雪みたいに真っ白なコートの下に、お葬式に着るような真っ黒いワンピース。大きく開いた胸元で、派手なネックレスが揺れている。高いヒールの靴も、手に提げた小さなバッグも、こんな雪の日には似合わない。
「うわ、雪? 寒いはずだわー」
「積もったら雪合戦できるかな?」
「雪合戦する友達なんて、あんたいないでしょ」
あははっと声を上げて笑い、その人は梓という男の子の腕に絡みつき体をすり寄せる。
「でも梓には、リエさんがいるもんねー」
「髪、くすぐったい」
まるで恋人同士のような素振りを見せつけられ、桜雪は困って目を泳がせた。抱きつかれている梓は慣れているのか、特に迷惑そうでもない。
「今、先生と話してきたから。あんたはちゃんと勉強してきなよ?」
「わかってる」
「ちゃんと勉強しないと、私みたいなおバカになるからね?」
もう一度おかしそうに笑ったあと、彼女の視線が桜雪に移る。
「あんた何年生?」
「ろ、六年です」
「じゃあうちの息子と同じだわ。この子梓っていうの。今日からこの学校に通うんだよ。かわいいでしょ?」
六年生だったのか。桜雪より背が低いから、下級生なのかと思っていた。
「ちなみに私はリエ。梓のママ。あんたはなんて名前?」
戸惑いながら桜雪は答える。
「綾瀬です。綾瀬桜雪」
「あやせ……さゆ?」
「桜に雪って書いて桜雪」
一瞬顔をしかめたあと、リエと名乗った人がすぐにまた笑顔を見せる。
「へぇー。超カワイイじゃん、その名前! 梓もそう思わない?」
桜雪はちらりと、腕を組まれたままの梓を見る。彼が何て答えるか気になったから。けれど梓は、さりげなく桜雪から視線をそらして言う。
「そんなことより、リエさん俺もう行くよ。先生が呼んでるんだろ?」
ほんの少しだけ、がっかりした。祖父がつけてくれたこの名前、実は密かに気に入っていたから。
だから「かわいい」と言われれば嬉しいし、「そんなこと」とあしらわれると少し寂しい。
「あ、そうだった。ねぇ、桜雪ちゃん。梓を職員室まで連れて行ってくれる?」
「はい」
返事をしながら、桜雪は目の前に立つリエという人を見上げる。
息子と同じ髪の色をした、お姉さんと言ってもおかしくないほど、若くて綺麗な母親だった。けれど桜雪の知っているお母さんに、こんなお母さんはいない。
「うちの子ね、転校ばかりで友達いないから。桜雪ちゃん、仲良くしてやってね?」
リエは息子の腕から手をほどくと、その頬にチュッと音を立ててキスをした。そしてアクセサリーのたくさんついた手をひらひら揺らし、校門を出て行ってしまった。
「あきれた?」
雪の落ちる中、ぼんやりと立ち尽くす桜雪の耳に、梓の声が聞こえる。
「あれ、うちの母さん。自分の生まれた町に戻ってきたからご機嫌なんだ。俺は初めて来た場所だけど」
「前は……どこに住んでたの?」
顔を向け、おそるおそる聞いてみる。
「東京。その前は千葉。埼玉にも住んでた。リエさんの仕事が変わるたびに引っ越してたから」
自分の母親のことを「リエさん」と呼ぶ梓がそう言った。
桜雪は引っ越しも転校もしたことがない。この町から出たこともあまりない。「東京」なんて、テレビでしか見たことのない街だ。
何と答えればいいのかわからない桜雪の前で、梓が小さく笑った。そしてもう、母親のことなどどうでもいいように空を見上げる。
「雪、積もればいいなぁ……」
桜雪は黙ってその横顔を見た。梓の金色の髪に白い雪が降りかかって、すごく綺麗だと思った。
東京からの転校生、霧島梓の姿を初めて見たこの学校の子は、誰もが少なからず驚いたことだろう。
まるで外国人のような髪の色。派手な柄のついたパーカーにピンク色のパンツ。
「あんな服、この辺の店には売ってないよね。さすが東京の子だよね」
隣に座る桜雪の親友、富田一香が小声でささやく。
たった一クラスしかない六年生の教室に、転校生が来るという噂は聞いたことがなかった。
小さな学校の中、そんな珍しいニュースがあれば、すぐに広まるはずなのに。
先生でさえもよく把握していなかったくらい、梓の転校は突然だったらしい。
「霧島くんの席、まだ決めてなかったわよね。ええっと、どこに座ってもらおうかしら」
担任の女性教師が、用意した机と椅子の置き場所を探している。
「とりあえず先生のそばがいいわね。そこの窓際、少し開けてくれる?」
黒板の横にある先生の机。その前の席には桜雪が座っていた。
みんなが少しずつ机を右にずらすと、先生はそこへ机と椅子をセットして、転校生に席につくよう言った。
クラス中の視線がその姿に集中する。そんな中、梓は平然とした様子で席に座ると、桜雪の顔を見てかすかに笑った。桜雪はあわてて、隣に座った梓から顔をそむける。
このクラスでは、ふたりで机をくっつけ合っていて、桜雪も一香と机をつけていた。
だけど隣に梓が来たため、桜雪たちの席だけ三人が並ぶことになった。
「霧島くんちは境橋の先だったわよね。ちょうどいいわ。綾瀬さんのおうちの近くだから、いろいろ教えてもらうといいわよ」
先生が桜雪のほうを向き「綾瀬さん、お願いね」と言う。さっき、梓の母親からもそう頼まれたのを思い出す。
前を向いたまま「はい」と答えた桜雪の横から、一香の声が聞こえてきた。
「ねぇ、霧島くん。その髪、先生に怒られなかったの?」
好奇心旺盛で、人見知りしない一香がさっそく聞いてきた。だけどそれはたぶん、クラスの誰もが気になっていたことだろう。もちろん桜雪も。
リュックを背中からおろし、机の上に置いた梓がこちらを見る。それに気づいていても、桜雪は振り向けない。
転校してきたのは彼のほうなのに、なんだか桜雪のほうが緊張していた。
「ああ、これ? 俺もあんまり気に入ってないんだけど」
「そんな髪の人、うちの学校にはいないよ? 東京ではそれが普通なの?」
「まさか。リエさんが勝手に染めたんだ。このほうがカッコイイって。あ、リエさんって俺の母親なんだけど」
「へぇ……お母さんが?」
「うちの母さん、ちょっと変わってるから。なぁ、さっきそう思っただろ?」
梓に突然声をかけられ、桜雪の心臓がどきんとした。
「そうなの? 桜雪」
一香が桜雪の顔をのぞきこんでくる。今朝、雪の中で梓と会ったことは、一番仲の良い一香だけに話してあった。
「そんなことないよ。すっごく若くて綺麗なお母さんだった。お姉さんと間違えちゃうくらい」
「へぇー、私も会ってみたかったなぁ」
「会ってどうするんだよ」
梓がおかしそうに笑い出し、それにつられて一香も笑う。桜雪は黙ったまま、そんなふたりの笑い声を聞いていた。
授業が始まり、先生が黒板に向かって何かを書き始めた。
一香は机の中から教科書を取り出し、それ以上梓に質問しようとはしなかった。桜雪も教科書を広げ、隣の席をちらりと見る。
雪はしんしんと降り続いていた。今朝、母の言った通り、今日は積もりそうだ。そしてまた、この町は白い雪で覆われ、深く長く閉ざされる。
頬杖をついた梓は、窓の外の雪を眺めていた。桜雪はそんな横顔を黙って見つめたあと、開いた教科書をそっと隣へ寄せる。
「よかったら……一緒に見る?」
穏やかな時間が流れる教室の中、静かに振り向いた梓が桜雪に笑顔を見せた。