■ 後 編
少し重い引き戸をそっと開けると、そこは相変わらず墨汁とカビ臭さが
混ざったようなにおいがした。
書道部の部室。 楽しい想い出と切ないそれが溢れる、その場所。
どこか考え深げに、恐る恐る部室内に足を踏み入れるシオリ。
ショウタはキョロキョロと懐かしそうに朗らかに微笑んでそれに続いた。
当時、ふたり並んで座った席につく。
後ろに引いたイスの脚がギギギと嫌な音を立て、静かな室内に響き渡る。
シオリはスっと背筋を伸ばし、あの頃と同じように机と体の間を握り拳
ひとつ分くらい離して構える。
すると、ショウタも隣席に腰掛けて、体をシオリの方へ向け当時同様に
穴が開くほどシオリの涼しげで美麗な横顔を凝視した。
まっすぐ前を向いていたシオリが我慢出来ずに思わずぷっと吹き出す。
『よくそうやってショウタに見られたよね・・・?』
するとショウタも嬉しそうに顔を綻ばた。
『あんまり至近距離で見るチャンス無かったからねぇ~・・・。』
そしてそれは独り言の様に、なにか遠く想い出しているかの様にショウタの
口から零れた。
『ずーーーっと・・・
・・・シオリを見てたかったんだよねぇ・・・。』
シオリは卒業式のあの日、ショウタと最後にふたりでここに来た事を
想い出していた。
そっと目を伏せ、机の上で絡めた細い指先を見つめながら小さく呟く。
『ねぇ・・・
・・・卒業式にも、ここで逢ったよね・・・。』
うんうんと微笑んで頷くショウタに、シオリは当時の胸の痛みを想い出し
ちょっと熱いものが込み上げる。
『 ”迷惑かけんのはこれで最後だから ”って、言って・・・
ショウタが、なんか・・・
・・・すごく、申し訳、なさそうに・・・ して、て・・・。』
急激にあの日の胸の痛みが甦り、シオリは慌てて俯き涙声を鎮めようとした。
あの時のショウタの哀しそうな顔はきっと一生忘れられない。
愛する人にそんな想いをさせてしまった事に、いまだに胸は切なく痛んだ。
『なんだ、どした? どした??』 ショウタはやさしく微笑んでシオリの
細い肩を抱く。 そしてやさしく肩を撫でた。
”ダイジョーブ ”とこどもに言い聞かせる様に。
”そんな過ぎた事など、なんでもない ”とでも言う様に。
ショウタの大きな手に自分の震える手を乗せると、今まで言わずにいた
”あの日 ”のことを、シオリがはじめて口に出した。
『あの時、ね・・・
泣きながら部室を飛び出して行ったショウタを引き留めたくて・・・
私・・・ どうしても・・・
どうしてもね、ショウタと離れたくなくて・・・
窓から見えるどんどん小さくなっていくショウタに、叫んだの・・・
”ヤスムラ君、いかないで ”って・・・
ほんとはね、窓を開けて叫びたかったのに・・・。』
そう言うと、机をそっと立ちあがり窓辺に行きそれに指を掛けるシオリ。
『相変わらず、開かない・・・
あの日も、この窓・・・ 全然開かなかったの・・・
ショウタを、呼び止められなかった・・・。』
すると、目元を赤くして涙声で呟くシオリの隣に立ちそっと目を遣ると、
窓の桟に指を掛けたショウタ。 カチリと小さく音が鳴ってそれはいとも
簡単に上方へと鈍い音を立てスライドして開いた。
『あれ・・・ 開くよ?』 キョトンとしてシオリを見つめるショウタへ
シオリも潤んだ目で負けじとキョトンとした顔を向ける。
『・・・え?』
『ほら、ここのストッパー押し上げたら・・・ すぐ開くよ?』
シオリが絶句して固まった。
よく考えてみると部室でふたりで昼食をとる様になった頃、早々と部室に
やって来て空気の入れ替えをするのはショウタの役目だった。
シオリはこの窓を自分で開けた事が殆ど無かったことに気付く。
ただ闇雲に出っ張りに指を引っ掛けガムシャラに開けようと必死だった、
あの日。 カチリと鳴るまでストッパーを押し上げなければこの窓は開かない
という事実を、10年近く経って今日はじめて知った。
暫し呆然とし、自分のバカさ加減にシオリが体を屈めて笑い出した。
呆れ果てていつまでもケラケラと高い笑い声を上げ笑い続ける。
あの日、泣きじゃくってショウタの名前を叫んだ自分
もう生きていけないと思う程、ショウタを失って絶望した自分
この窓は、こんなにいとも簡単に開いたというのに・・・
ショウタが嬉しそうに愛しそうに頬を緩めて、言う。
『シオリってさ~・・・
意外に、抜けてるトコあるよな~・・・?』
いまだ窓際に立ち笑いながら窓を何度も何度も上下にスライドさせ開閉して
照れくさそうにしているシオリ。 その華奢な肩にそっと手を置き向き合い
ショウタはやさしく見つめる。
『まゆ毛見られんのスゲェ嫌がる割りには、
ケッコーな確率で、見えちゃってるし。』
そう言って丁度自分の口許にある、今も覗いてしまっているハの字の眉に
唇を尖らせてフっと息を掛けた。
すると、前髪がかすかに揺れて相変わらず愛おしいその眉が更に恥ずかし
そうに困り垂れて現れる。
ショウタはそっと身を乗り出すと、シオリのおでこに小さくキスをした。
チュっと短く音が響く。
あたたかくて、やわらかくて、切ないその温度。
こんなに愛しいと思える相手なんて、
世界中探したって、他にはいない・・・
ショウタがそっとおでこから唇を離すと、シオリは目を細め微笑んで呟く。
『学校でキスするの、3回目・・・。』
一度目は、放課後シオリを待って机に突っ伏し眠るショウタの頬へシオリが
小さくキスをした。
二度目のそれは、ショウタがシオリとの別れに怯えひと気の無い西棟で無理
やり唇を押し付け乱暴にしたキス。
シオリの胸に、目まぐるしく当時の歯がゆい想い出が込み上げる。
震える胸にそっと手を当てて、目を落とした。
すると、
『え・・・・・・・・?』
ショウタがあからさまに目を見開いて固まっている。
『ん?』 シオリが見つめ返すと、どこか青ざめたような顔でショウタが呟く。
『・・・に、に2回じゃね・・・?』
『え?』 言われている意味が分からず、暫し考えていたシオリにその意味が
分かる。 一度目のキスは眠っているショウタにこっそりした為、ショウタは
それにいまだに気付いていないのだと。
『え、ちょ・・・ 待った! ちょ、待った待った!!
ほら、あのー・・・ 西棟でさ・・・
乱暴に、俺が、そのー・・・ しちゃったのが、1回でしょ・・・?
で、今が2回目じゃね??
え? ええええ?? え???
ちょ! え、誰と・・・?
シオリ、誰とあと1回学校でしたの???』
27才のいい歳した男が、アタフタと10年前のことを動揺しまくって目を
白黒させている。 その取り乱しっぷりをシオリは呆然と見つめそして体を
よじらせて笑った。
『え? 誰・・・?
高1? 高1んとき、付き合ってる奴いたの??』
『聞いてないよ!聞いてないよ!』 と壊れたように延々繰り返すあまりの
ショウタのひっ迫感に、シオリの笑いは止まらない。
笑って目尻の涙を指先ですくいながら、シオリは言った。
『 そんなの・・・
・・・ ”好きな人 ”とに決まってるじゃない・・・。』
あの日。
(大好きだよ・・・。) シオリはそう心の中で呟いて座っていたイスから
そっと腰を上げ少し前屈みになると、いまだ眠り続ける顔をやさしく見つめ
その頬に小さく小さくキスをした、歯がゆく恋しいあの放課後。
はじめてのキスは、
シオリからした事にショウタはまだ気付いていない
『バカねぇ~・・・。』 シオリは愛おしそうにショウタの胸にぎゅっと
抱き付いて目を瞑った。
そして、小さく小さく呟く。
『他に誰がいるってゆうのよ・・・。』
そろそろ校舎を後にしようとしたふたりに、背中から声を掛けられた気配に
振り返る。 すると、そこには当時シオリの2-C担任だった教師の姿。
当然だがあの頃より歳を取っていて、ほぼ白髪になっている懐かしい顔。
『お前たち・・・
ヤスムラとー・・・ ホヅミ、だよな・・・?
よく覚えてるよ、修学旅行では散々迷惑かけてくれたもんなぁ~?』
懐かしい思い出に教師が大口開けて笑っている。
すると、ショウタがそれを遮り胸を張る。
『ヤスムラとヤスムラ、です。』
『ん?』 訊き返した教師に、ショウタが続けた。
『さっき、婚姻届だして来たんで・・・
ヤスムラ ショウタと、ヤスムラ シオリです。』
微笑んでふたりは、左手の目映い環を教師に向けて自信満々に突き付けた。
春の青い風が爽やかに校舎を吹き抜ける。
来客窓口に置かれたままの名簿が、その風に吹かれてパラパラと音を立て
めくれた。
それは、まるで世界中の人に見せつけるかのようにそこに在った。
”平成**年度卒業生 ヤスムラ ショウタ 27才
〃 ヤスムラ シオリ 27才 ”
【おわり】