干支達の夢 その三b 【とら子】
干支に関するショートショートです。今回はトラ編その2 です。長さはほぼ葉書一枚分。1分間だけ時間を下さいませ。
とら子、それが彼女の名前である。生まれは静岡中部の漁村、大
正天皇崩御の年である。今になって鑑みれば、とら子の青春は戦争
に翻弄された。
物心ついた頃から日本は神の国であり、何所かしらと戦争をして
いた。異常な事でも日常となればそれは日常であり、とら子もそれ
を当たり前のものとして大きくなった。異性にあまり縁が無かった
のは同時代を生きた女性と同じで、時代による処が大きい。だが、
とら子は威張る。
『あの頃らぁ、モテたっけねぇ。みんなが私んトコ頼みに来て行列
だったもの』
よく聞けば、千人針の頼みである。戦場での弾避けのおまじない。
寅年生まれの名前もとら子、引っ張りだこであったのは本当のよう
だ。ただし、頼みに来る者は皆女性で、これでモテていたのかは定
かではない。
戦争が終わり、世の中は一変した。出征直前親の言いつけで祝言
を挙げた夫は帰らず、とら子と父親の顔も知らぬ乳飲み子だけが残
された。それでもとら子は弱音ひとつ吐かなかった。少なくとも人
前で泣いた事など一度も無い。
『名前に負けちゃなんねえ。トラは動物の中じゃ王様だもんな』
間違っていた。
とら子には学が無かった。だが、そんな事は補って余る位に、と
ら子にはバイタリティと思い込みがあった。
女手ひとつで行商から始め、戦後の混乱期をもものともせず、高
度成長期の追い風に乗って、気がつけば地元では大手と呼ばれるス
ーパーを経営するようになったのである。名前は勿論【とら屋】だ。
私生活でも一人息子はすくすくと育ち、とら子の言いつけ通りに
大学も出て家業の道に入った。気に入らないのは家に来た嫁が、辰
年生まれの『竜子』ということだ。トラに竜、両雄並び立たず、は
古来からの謂れの通りだ。
ただでさえ嫁姑はなさぬ仲なのに、これでは波風が立たぬ方がお
かしい。
だが、とら子は持ち前の前向きさでこう笑う。
『たった一度の人生、色んな事があったほうが楽しいら。それに私
の名前はとら子だもの』
要するに自分が王様だから、目下は大目にみる、というコトらしい。
まただ。百獣の王様はライオンだって! 竜は動物ですら無い。
今年でとら子は満84歳になる。会長の座におさまってはいるもの
の、未だに現役で一日中飛び回っている。とら子の人生にはまだま
だ先があるようだ。
だが、『百獣の王はライオンだ』、この事実を知った時、とら子
はどうするだろう?
もっとも笑い飛ばして終わり、という気もするのだ。
昔の女性は強かった!あ、今もそうですかね…