火打ち石
文化祭で展示した小説で、「童話」と「石」と云う縛りです。投稿する際に一部加筆・修正をしました。
火打金と火打石は少年の宝物で、それは少年の祖父から貰った物なのであった。それらを収納する火打袋などは無く、剥き出しである。火打石を祖父から渡された時に「火は魔除けになるから、もし厄に会ったら切り火 を切れ」と云われて、少年は今でもその言葉を信じ続けて、学校へ行く時も肌身離さず持ち歩いている。ただ学友などにはこの事は話さずにいて、それは何故かと云ったら、その学友に盗られてしまったらどうしようか、と云う恐怖のためである。火打石が少年の、何よりもの誇りなのであった。
しかし、少年は一度もその火打石で火を起こした事が無かった。とても大切な物だから、使うのは勿体無いと云う考えで、もしも厄に会った時、本当にその時だけ、思い切って使ってみようと内内決めていたが、祖父から貰った時以来、いや生れてから、厄なんてものは全く見ない。
少年は一方に於いて、退屈であった。この火打石で起こした火炎と云うものが見たい、でもそんなに軽々しくは使えない、そんな矛盾とモドカシサを感じていた。
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或る夕方、少年はいつも通り帰路に着くと、ノラ猫が一匹だけ道の真ん中にしゃがみ込んでいる。その猫は少年を視界に捉えると、じっとこちらを凝視して、一歩近寄ると猫は少し向こうへ進んで、またこちらを見返した。一歩近付く毎に少し離れて、暫くすると道から外れ、横の竹藪の中へ入って行った。少年は追いかけようかどうか迷ったが、少年はいくらか猫に対して愛着があったので付いて行く事にした。少年が竹藪に足を踏み入れた途端、空がドンヨリと曇りだして、紫がかった重たい雲が一面を埋め尽くしたのである……。
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竹藪の中はなんだか妙な怖さがあって、風が吹く度にガサガサと笹の葉が揺れて、少年はやっぱり自分の家に帰ろうと思った。しかし、周囲は無数に屹立した竹が生えているばかりで、元来た道と云うものが分からなくなった。まるで竹藪全体が何かの生き物で、竹の檻に囚われてしまったようだった。少年はもう二度と家に帰れないのではないか、そんな気持ちさえ胸中に湧き起こって来た。
少年はズボンのポケットの中にしまってある、火打石を手で握り締めて、そしてまた歩き出した。
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さっきまで追いかけていた猫はいつの間にかいなくなって、少年はただ無闇に、竹藪の中を歩いていた。だんだん足が疲れてきて、両足が単なる棒キレみたいであった。それでも必死で歩きまわって、外に出られる道を探した。
三十分ほどだろうか、暫くして、少年は少しひらけた場所を発見した。そこは竹が全然生えておらず、そして何より、ムラサキ色の袴を履いた女が佇んでいる。その女は水々しい、張りのある白い肌で、莞爾と少年を見つめて笑っている。少年は人間がいる事に安心し、先に抱いていた恐怖心は比較的軽くなった。だが、握り締めていた火打石から手を離す事はしなかった。前方に佇んでいる女は清楚な女であるが、唇が生々しい赫色をしている。この赫さは到底口紅で塗ってあるのではなくて、それよりも深くて汚い色であった。この不気味な赫い唇によって、少年はいつまでも火打石を手放せないのである。少年はこの女に距離を置きながら、「外に出るにはどっちに行けばいいでしょうか」と恐る恐る訊いた。
女は莞爾笑っている。
「すみません、外に出るにはどっちに行けば……」
女は莞爾笑っている。
女は何度訊いても笑っているだけで、少年の問いに対して、なんの返答もしなかった。女は少年を見つめ続け、不意に少年に、
「もうこの竹藪の中からは出られません」
と云った。女がだんだんと少年の方にすり寄って来るので、少年は早く逃げようと思ったが、足がびくともしなかった。
女の着物から青白くか細い腕が伸びて来て、少年の首を掴んだ。女の握力は凄まじくて、これはもう女ではないような気がしてきた。女の瞳は妖しく光って、鬼のような形相になっていた。
少年は恐怖の中、死に物狂いで握り締めていた火打石をポケットから出して、火打金に打ち当てた。その瞬間、火打石と火打金の擦れたところから、美しい火花がぱっと散って、女は後ろに仰け反った。少年はもう一度女に向って切り火を切ると、女は苦しみながら「お前を絶対に殺してやる」と云って、奥の方へ走り去って行って、次第に見えなくなった。女が去ると、少年は疲れてその場にドッと寝転がった。暗闇を割いた一瞬の火花は、まるで赫々と咲く曼殊沙華のようで、少年は祖父から貰った火打石から出た火花を、鮮明に記憶しておこうと思った。そう考えている内に、女を追い払った安心から、気が緩んで眠ってしまった。
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少年が目を覚ますと見慣れた、いつもの帰り道に出ていた。竹藪の中に入った時は夕方であったが、今は真っ暗で、周りから虫の鳴き声が聞こえてくる。ザワザワと葉を鳴らす竹藪を少年は暫く眺めて、暗闇の中、一人で歩いて帰った。少し歩いては背後を確認して、誰も付いてこないのを見て一時の平穏を得ている。それを五、六遍繰り返した。その時も、少年は火打石を大事に握り締めていた。
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家に着くと少年の母親が、玄関の前に立って、辺りをきょろきょろしていた。向こうからトボトボ歩いてくる少年を見つけると、母親は駆け出して、
「こんな遅い時間まで何処に行っていたの」
と云って、少年を抱きしめた。