暑中ノ事
理念と本心の間。
六月の初めに、母方の祖父が死んだ。その訃報を母から電話で知らされた。亨年八十八歳だったらしい。私はその時京都の下宿にいて、翌日に実家の方へ帰省することになった。
祖父は生前、書道を嗜み、仏教書を読んでいる人で、とにかく偏屈者だったと思う。
前の盆に、祖父の家へ遊びに行った時に、祖父が書いた書が掛けてあって、これは何と書いてあるのか知らと聞いたら、どうも坐花酔月と書いてあるらしかったが、私にはどれが坐でどれが花なのかも判らなかった。私は高校生の頃書道部に在籍していて、一度だけ私が書いた(典拠はもう忘れたが)、何かの臨書を祖父に見せたことがある。これだけ書ければ上出来だと言って、毎年正月に書いてくれと依頼された。私は自信が無いから素っ気なく断ったし、そもそも祖父は目が悪かったから安直な賛辞、適当なことを言っただけだ。
それと仏教書を読まされた。今はもう何が書かれていたか、人間の真理が秘められていたのかも知れない。思い返すと私は全然判らなかったのに、ああなるほどね、なんてことを得意に言っていたように思う。私が分かった風にそう答えると、祖父はニヤニヤ笑いながら私の顔を眺めた。
◇
通夜は夕方に行われた。私は単なる親戚集まりで酒宴を開催する感覚だったが、その親戚、友人、知り合いというのが予想以上に多くて、八十人くらいが集合した。知られざる祖父の交流関係で、私はその交流に於ける血筋をうまい具合に引き継がなかったようだ。が、親戚一同、そして父からは、お前は似ていると頻繁に言われる。そして何より私自身が漠然と思っていた。私は男兄弟の三男坊で、兄二人は現実的なことをまず考える節がある。従兄も概して外れていないと思うが、私は観念的なものを好み、祖父も考えることが好きだった。それは話をする相手がいないことにも起因するだろうが、私はそっちの方が正しいように思う。だから、盆や正月に実家へ帰った時、祖父と話すのは大概私で、馬が合っていたのだろう。祖父が言うことに、私は一々反論し、向こうも簡単には折れない、私と祖父は面倒くさい奴だ。親戚にこのことを言ったら、きっと爺さんも嬉しかったのだろうよ、と変なことを言われた。
私は実質的な生き方に憧れているから、簡単に悲しんだりはしない。もちろんこの祖父の死に対しても、悲しさという感情を意図的に回避するように努めた。当然の回避、そもそも八十八歳まで生きたのだから大往生ではないか。私はその冷たさが却って現実的ではないかと考える。人間同士は表面上の付き合い、それで充分ではないかと思うのである。しかし、私の母は泣いていた。
◇
翌日に葬儀が行われて、その日は午前中から暑かった。京都に劣らない暑さ、私は少し眩暈を起こした。
葬儀屋に着くと母の妹家族が先に到着していた。妹の娘は中学二年生で、大人しい静かな子だ。待機室で、児童文学(私が聞いたことがない作家だった)を退屈そうに読んでいたので、おい、元気でやっているかと一声かけておいた。その子は愛想笑いだけして、再び本に目を戻した。この子はユキちゃんという女の子で、相当の人見知りであり、今でもそうだが、私と中々話してくれない。
十一時頃から葬儀が始まって、坊さんが南無阿弥陀仏云々カンヌンと唱え始めた。私はすることがなくて祖父の遺影を凝視すると、百閒だと思った。つまりは鳩のような顔立ちで、今思えば、人格や精神、思想までもが似ている。生前は全く百閒と重ねることは無かったが、冷静に観察すると他人の忠言を聞き入れず、自分のみを頼むところがあって、「偏屈に美学あり」確かにそうかも知れない。文学仲間だった芥川龍之介も見間違うかもしれない。百鬼園先生を、弛緩させて眼鏡を外せば、それが私の祖父でほぼ間違いは無いと思われる。
祖父は草花を愛した。手入れをしている最中に私が呼んだ時、その振り向き方、その風景を私は何故か妙に記憶していて、面白くなかった。
◇
火葬の段階に入って、本物の祖父を見るのが最後になって、私は一応拝顔した。祖父の顔は血の気が無くて、まるで剥製のようで、これは祖父ではないと思った。痩せ細って、こんなにも覇気が無かったのか、死んでいるから仕方ないのだが、それでもいつもの元気は何処に行ったのか、と考える。
生前の祖父は五月蠅い訳では無かったが、元気があった。独自の理念を信じている風があって、それが一々私と議論になる由縁だ。いや結局は私自身も同系統の人間で、単純に自分の思想を言い合っていただけなのだろう。祖父は知らないが、私は議論自体を目的にしているところがあった。正しさを究明するのではなく、単に言い合うだけの全く無為なことをしていたのだと思うと、本当にあれは何だったのかと疑問を抱かざるを得ない、全く。しかし私は無意義を愛す。
祖父は肝臓癌で死んでしまったが、実は奇妙な暑さにやられたのではないかと夢想する。これは異常に暑いということではなくて、どんよりとした空気と反射する日差し、そこに潜伏する悪魔が殺したのではないか。白日ノ闇、私は悪魔を憎まない。悪魔と祖父が勝負して、単に祖父が負けただけのことだ。きっと体力が続かなくて、呆気なくやられてしまったのだと思う。運動は苦手そうで、一瞬の内にザックリやられてしまったのだ。だが私はそれに対して切なさや悲しさは感じなかった。おそらく私は私自身が死ぬ瞬間に対しても、何も思わないだろう。一人で勝手に不可解な納得をして、未練や愛着などは知らない、散歩に出るような足取りで、冥途をふらつくのだろうと思う。
◇
毎年盆に親戚が母方の実家に集まって酒を飲み、祖父がいない会合は今年が初めてになる。あと二ヶ月後にはその時が到来する。祖父の書や仏教書、祖父が育てた草花を見るたびに、祖父の幻影を見るのだろう。壁に掛けられた坐花酔月という書は何処が酔で何処が月なのか、今をもってしても、おそらく判然としない。私は祖父の遺品によって、変に懐かしく思うのかも知れない。
だが、暑中の只中に屹立している私にとっては、祖父の死は、風が吹き抜けただけにしか過ぎない。人間、死んでしまえば終わりだ。死は過ぎ去ってしまい、それに対する感傷は一体どれだけの実質的価値を有するのであろうか。感傷は無価値だ。私は感傷を否定し、無視する態度でこの先を生きていくのである。
私は自然に湧き起こる、クダラナイ感傷が憎かった。
◇
心に何も揺らぐことを認めず、他人に対して無関心、無愛想、私は私自身が他人の思想、言動によって支配され、左右されるのが恐怖であった。
祖父が死んで数週間後に、私は変な夢を見た。
私が京都の下宿で横になっていると、向かいには見たことのない背の高い洋館が聳え立っている。その壁面には今にも消えかかりそうな弱々しい日向が出来ていて、もうじき消える、もうじき消えると考えながらも、頭のどこかで、まだ消えないでくれと念じていた。そうして日向がだんだん薄く崩れて、夜という名の日蔭が広がっていった。それをじっと見詰めていると、私は胸が張り裂けそうなほど切なくなった。
さっきまで日向が出来ていた洋館の壁には、暗い影が落とされている。私の下宿の部屋も日が落ちて、矛盾を孕んだ空虚だけが取り残されていた。私は次第にその闇と私の身体が引き合さって、溶融ていく感覚に襲われて、気附くと私は空虚そのものになっていた。
私の身体は冷たい水で、私は私自身に溺れているようだった。