表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

「動かせない、と言った車」

はじめまして。

『車屋さんは忙しい』をお読みいただき、ありがとうございます。


この作品は、小さな町の路地裏にある町工場――路地裏モータースを舞台に、整備士・相沢ゆずきたちの一日を描く、日常系の仕事小説です。


異世界転生も、大事件も、恋愛の大逆転もありません。

あるのは、朝のコンプレッサーの音、車検と修理の手仕事、うっかりミスと小さな達成感、それから五人分の足音が重なる、忙しい午前です。


整備や部品の話が出てくる場面では、初めての方にも読みやすいよう、できるだけ短く補足します。

詳しく書くときは、仕事が盛り上がるところだけ――オーバーロード的な説明好きの作者が、現場のリアルも少しだけ混ぜて書いています(笑)。


第1話は、車検のお客の一台から始まります。

「動かせない」と言われた車の正体は何か。

若手のゆずきが、無口な工場長や頼れる事務の先輩たちとぶつかりながら、一台を預かっていくお話です。


もし気に入っていただけたら、ブックマークや星評価、感想コメントをいただけると、次の一台を書く励みになります。


それでは、ガレージの朝からどうぞ。

「今日も忙しいかなぁ……あーー、帰りたい」


相沢ゆずきは、そう小さくつぶやいてから、路地裏モータースの裏口の錠を回した。鍵が開く音は、まだ夜明け前の空気に少しだけ大きく響く。


誰もいない店内に足を踏み入れる。昨日のオイルの匂いと、鉄の冷たさが、いつもより濃く感じられた。


――忙しい日は、帰る頃にはもうヘトヘトなのに。


そんなことを考えながら、彼女は工場のシャッターを上げた。ガタン、と金属音が路地に落ち、外の光が差し込む。まだ大通りは静かだ。店の看板は、通りすがりの人には、すぐには目に入らない場所にある。


ラジオの電源を入れると、ざあっとノイズが走った。相沢は慣れた手つきでつまみを動かし、周波数を合わせる。ぼんやりした朝のニュースが、空っぽの工場に流れ始める。


次はコンプレッサーだ。


スイッチを入れると、けたたましい圧縮音が鳴り響いた。タンクが息をつくたび、床がかすかに震える。まだ誰も来ていない時間だけに、音はやけに大きい。


「……いつもきみはうるさいねー」


つい、コンプレッサーに話しかける。でも、これが鳴らないと、今日の仕事は始まらない。


相沢は休憩室に入った。電気をつけ、業務用PCの電源ボタンを押す。ファンが回り始める音と、壁一面の整備資料――分厚い紙の本が並ぶ棚と、画面の青白い光が、同じ部屋に並んでいた。


お弁当と荷物をデスクの脇に置き、大きな欠伸を一つ。背伸びをすると、肩の骨がかすかに鳴った。


ラジオの声を背に、相沢はモニタの反射に自分の顔を映して、ぼんやり呟いた。


「今日も、車検かなぁ」


社長が朝礼で言うまで分からないことは、分かっている。それでも、予感だけは、いつも当たる気がして。


「……それだけだといいんだけどな」


一人、否定の言葉を添える。忙しいのはいい。忙しいうえに、自分のミスまで重なる日が、一番つらいから。


荷物の横に、昨日のうちに置き忘れたらしい手袋が、片方だけ転がっていた。相沢はそれを拾い上げ、ふと笑った。


あ、忘れてた、じゃない。まだ誰も来ていないから、拾えただけだ。


休憩室を出ると、工場の空気が、もう少しだけ動き出していた。コンプレッサーの音と、ラジオの声。まだ人の気配はない。


相沢は深く息を吸い、声に乗せた。


「よし、今日も頑張りますか」


張り切った調子は、いつもの朝の儀式だった。答えを待たず、彼女は事務所の方へ歩き出す。そこからが、路地裏モータースの一日の始まりだ。


* * *


事務所の脇には、古いタイムレコーダーが置いてある。相沢はカードを差し込し、ポン、と押した。紙が一枚、ゆっくりと吐き出される音がした。


――よし、これで遅刻じゃない。


安堵は短い。次の仕事が、もう待っている。


ほうきとちり取りを手に、相沢は工場へ戻った。リフトの下、昨日の作業でこぼれたらしい細かい金属の粉。待合の前の床に、タイヤから持ち込まれたらしい黒い跡。そこそこきれい、と言われる店だが、朝のうちに掃いておかないと、昼には足の下がつまらなくなる。


ほうきを動かしていると、事務所のドアが開いた。


「おはようございます、相沢さん。いつも早いですね」


声の主は、森川恵。四十五歳ほどの事務で、保険の説明も任されている。せかせかはしないのに、やることは確実に終わらせる人だ。相沢が忘れかけた伝票の束を、何度も静かに戻してくれたのも、森川さんだった。


「おはよーございます。タイムカード、切りました」


「ありがとう。では、私も」


森川がカードを切る隙に、もう一人、事務所から顔を出した。百合子さん。六十歳。事務の超ベテランで、手際だけは誰よりも早い。すでに事務所のデスクトップの画面を開き、朝の入庫予定を確認している。


「相沢さん、おはよう。コンプレッサー、もう回してるのね。えらいえらい」


「百合子さん、おはようございます。……あ、ありがとうございます」


褒められると、なぜか胸が少し軽くなる。百合子さんは、緊急の部品手配を電話一本で片づけたり、中古品の問い合わせをアドリブでさばいたりする。スマホの画面を見ながら歩く足つきまで、慣れている。


相沢がちり取りを続けていると、工場の奥から、低い足音が近づいてきた。


須藤鉄也。三十九歳の工場長で、現場のまとめ役だ。タバコの火を外で消してから入ってくるのが、いつもの流れだった。無言でうなずき、相沢のほうを見て、短く言う。


「相沢。リフト周り、あとで見とけ」


「はい。……見ます」


呼び捨てだが、嫌味はない。須藤さんは、説明より先に手を動かす人だ。「見て学べ」と言われると、相沢は不安になる。それでも、須藤さんの横で作業している時間だけは、なぜか落ち着く。


最後に現れたのは、社長の田沼進だった。五十代後半。経理も自分でやり、朝にはその日の車の事情を整備士に言い渡す。細かいことにはうるさいのに、自分の机の上は散らかっている。それでも、待合に並んだ模型のケースだけは、いつも丁寧に拭かれている。


「おー、相沢、早いな。タイムカード、全員切ったか?」


「森川さんと百合子さんは切りました。須藤さんは、今」


須藤が無言でカードを押す。田沼は書類の束を抱えたまま、待合のパンフレットが整っているかだけを見た。


「よし。掃除、あと少しで終わるな。終わったら、朝礼だ」


相沢はほうきの柄を握り直した。コンプレッサーはまだ唸り、ラジオはニュースを流している。五人分の足音が、小さな町工場に重なり始めた。


掃除が終わると、五人は工場の中央に集まった。朝礼だ。短い安全確認のあと、田沼がその日の予定を言い始める。


「今日は軽めだ。車検、一台。パンク修理、一台。それ以外は、入庫待ちのまま進める」


百合子さんが手にしたタブレットの画面と、田沼の話を照らし合わせている。森川がうなずく。須藤は腕組みをしたまま、黙って聞いている。


「パンクは、須藤。車検は――」


田沼の視線が、相沢に落ちた。


「相沢」


心臓が、小さく跳ねた。嫌な予感は、当たる。


「はい」


「お客さんのお車、セダン一台。自宅まで取りに行ってくれ。代車も渡して、鍵をもらって、積載車でここまで持ってこい」


須藤のほうを見ると、工場長はすでにパンクの方の工具を選び始めていた。あちらは、須藤さんの仕事。こちらは――


「……わかりました」


相沢が答えると、須藤が短く言った。


「パンク、俺がやる。相沢、車検、頑張れ」


励ましにも聞こえるが、逃がしてくれない顔だった。


心の中だけで、相沢は叫んだ。


(このぉ! 卑怯者めぇ!)


声は出さない。出したら、朝のうちから工場長に睨まれる。それでも、腹の底では、須藤さんと田沼社長の両方に向けて、文句の一つも並べていた。


田沼は書類の端を叩き、事務所のほうへ引っ込んでいった。模型のケースを横目に、机の山へ戻っていく背中は、細かい人のくせに、どこか楽そうだった。


「相沢さん、積載車の鍵、こちら」


百合子さんがキーホルダーを手渡す。森川が、お客様の住所と連絡先を印刷した紙を添えた。


「お客様のお車、これから出社前に預かるそうです。代車は、今朝、百合子さんが先に回してあります。お急ぎのようで、なるべく早く」


「……はい。すぐ行ってきます」


相沢は作業着の袖を整え、工場の奥へ向かった。積載車の鍵を回し、エンジンをかける。預かる車は、車検の都合で一旦、店に入れる。道が近いから、積載車で引き取って戻る――相沢は、そのやり方を何度もやっている。


店からお客様の自宅までは、道が近い。積載車で五分ほど。大通りから一本入った路地裏モータースと、住宅街の距離は、町の中では近い部類だった。


積載車を停めると、庭先に、見覚えのある一台のセダンが鎮まっていた。ガレージの前で、中年の男性が足踏みをしている。スーツ姿。時計を気にする仕草が、何度も出ていた。


相沢が降りて挨拶すると、男性は深く頭を下げた。


「路地裏モータースの方ですね。では、お願いします。鍵、これです」


鍵束が、相沢の手に渡る。冷たい金属の触れ合いだけが、急ぎの朝を物語っていた。


「お客様、お車を車検でお預かりして、こちらの工場まで――」


「ええ、あっちは任せた。それより――すまん、急いでるんだ。代車、もう来てる?」


男性は、駐車場の奥を指した。そこには、店の代車用コンパクトカーが、すでに停まっている。今朝、百合子さんが先に回しておいたものだ。車検のあいだ、自分の車の代わりに乗る代車だ。


「はい、鍵はこちらにあります」


相沢は代車の鍵を渡した。男性がドアを開け、エンジンをかける。相沢が預かった車の鍵束と、代車の鍵が、朝のうちに入れ替わる。


「助かる。自分の車、今日は動かせなくてさ。これで出社する」


「お気をつけて。お車は、こちらで預かります」


「頼んだ」


男性はスーツのまま代車に乗り込み、バックを切った。コンパクトカーのエンジン音が路地を抜け、大通りの方へ消えていく。出社へ急ぐのだ。店から近いけど、少し待たせてしまったなぁ、と相沢は思った。


相沢は積載車を、あの車の後ろに停めた。荷台を降ろす準備だ。一人だと、手順はいつもより長く感じる。


鍵をもらった以上、積み込む前に一度、エンジンをかけて確認する。現場で、動かさずにいる。


ドアを開け、シートに腰を下ろす。ハンドルを握った手のひらに、別の人の生活の温度が残っていた。


ブレーキを踏み、キーを回す。


カチリ、と音がして、エンジンが唸り始めた。振動が、ハンドルから肘へ、背骨へと伝わってくる。相沢はアクセルを踏まず、耳だけを澄ます。


高い音、低い音。カタつき、ふわつき。紙の資料や診断器の前に、整備士はまずここから始める。肌で、音で、車の具合を掴む。


「……よし。積載車に乗せて、帰ろう」


独り言を落とし、相沢はエンジンを切った。ハンドルを切り、積載車のウィンチのフックを掛ける。坂道のように傾いた荷台へ、車を引き上げていく。ガチャン、と低い音がして、四輪が鉄板に乗った。相沢は車止めをかけ、荷ずれしないよう固定する。これで、道路を走って工場まで戻れる。


店までは道が近い。積載車で五分ほど。大通りから一本入った路地裏モータースまで、町の住宅街なら、すぐだ。


相沢は運転席に乗り、バックミラーに、載せた車が荷台に映る。発進した。住宅街を抜け、見慣れた路地へ入る。遠くで、コンプレッサーの唸りが聞こえ始めた。路地裏モータースの一日は、まだ始まったばかりだった。


* * *


工場の奥に積載車を停めると、須藤が無言でうなずいた。パンクの方は、すでに作業が始まっている。相沢は息を整え、慎重にスイッチを入れた。


荷台が、ゆっくりと下りていく。油圧の低い唸り。急がない。急ぐと、車止めが緩んで、お車が動く。積載車の荷台を下ろすときだけは、相沢も背筋を伸ばす。


地面まで下りきった。あとは、ウィンチを逆に回し、フックを外す。お車が、鉄板からタイヤ一本ずつ、路地裏モータースの地面に戻る。


相沢は車止めを外し、ハンドルを真っ直ぐに戻した。荷台を元の高さまで上げ、エンジンを切る。ここまでで、ひと息つける。


――と、そのとき、思い出した。


「自分の車、今日は動かせなくてさ」


お客さんは、そう言っていた。だから代車だ。だから、積載車で引き取る。相沢も、それを当然のように受け取っていた。


でも、さっきはエンジンがかかった。


カチリ、という音のあと、問題なく唸った。アクセルは踏んでいない。それでも、始動した。つまり、**エンジン系統ではない**……?


頭の片すみで、相沢は自分に問いかける。


じゃあ、何で動かせないと言ったんだろう。ブレーキが効かない、とか、変速が入らない、とか――そういう話は、聞いていない。ただ、「動かせない」だけだった。


(……危ない思い出でも、あったのかな)


走行そのものを怖がっているのかもしれない。以前、何かあったのかもしれない。整備士が決めつけるのは、まだ早い。


相沢は、降ろしたばかりの車を見つめた。何も言わず、ただ預かった一台が、工場の空気の中に鎮まっている。


まだ外にある。荷台から下ろしただけで、リフトの上には乗っていない。このままでは、車検の話にならない。


「……まずは、動かせない、の意味を、見つけないと」


さて、どうするべきか。


相沢はドアを開け、運転席に乗り込んだ。キーを回し、エンジンをかける。さっきと同じ、問題ない唸り。それからギアをバックに入れ、リフトの方へ向けて、アクセルを踏んだ。


エンジンが唸る。


だが、進まない。


タイヤは、ほとんど地面を這うようにしか動かず、車体だけがやや前後に揺れる。ギアは入っている。エンジンの力は、車輪まで伝わっている。


相沢は一度、アクセルを抜いた。サイドブレーキのレバーを確認する。入れっぱなしではない。ブレーキペダルも、浅く踏んだままだが、そこまで強く踏み込んではいない。それでも、足を離しても、車は重い。


――ブレーキが効かない、んじゃない。


常に、少しだけ利いている。


**引きずり**。ブレーキが、離れきらない状態で、ローターやドラムに当たり続けている。走れないのではなく、**いつも少しだけ踏み込んだまま**なのだ。お客さんが「動かせない」と言ったのは、きっと、怖くて踏み切れない、というより、こういう状態だったのかもしれない。


相沢は、涙をこらえながら、一言だけ漏らした。


「引きずりかぁ……めんどうだなぁ」


声は小さかった。須藤さんには、聞かれたくない。それでも、目の端が少し熱い。面倒なのは、作業の量の話だ。直すのは分かっている。分かっているのに、朝から続く不安が、一言に乗ってしまった。


完全に固着しているわけではない。さっきの揺れが、それを教えてくれた。エンジンをふかせれば、どうにか――リフトの上まで、なら動かせそうだ。


相沢は歯を食いしばり、アクセルを踏み込んだ。エンジンの回転が上がり、車体がきしむ。タイヤが、かすかに焼ける匂いの手前まで、地面を擦る。


無理やりでもいい。バックのまま、数メートル。リフトの手前まで、ずりずりと引きずるようにして、車を動かす。


ようやく、指定のリフトの下に入った。相沢は一度、肩の力を抜いた。汗が、作業着の背中に一枚張り付く。リフトにかける前に、まだやることが残っている。


降りる前に、まず車の中の確認だ。


キーを回し、エンジンをかけた。ライトのスイッチを入れる。ウィンカー、左。レバーがカチッと鳴り、計器板の矢印が点滅する。右も同じ。問題ない。次に、ハザード。四つとも、同時に点滅するリズムが、室内からでも分かった。


チェックランプは、点灯していないか。エンジンをかけたまま、目を凝らす。赤や黄色の灯りが、余計に増えていないか。異常な表示が、静かに点いていないか。――今のところ、目立つものはない。


外の灯りだけは、運転席からでは限界がある。うちの工場には、ライトチェック用の鏡なんてない。一人でやると、おりて、のって、を繰り返す。だから、ライトチェックだけは、いつも二人係なのだ。


相沢は、半分わざとらしく、工場の奥へ声を張った。


「ライトチェック、お願いしまーーす!」


パンク修理の音が、一瞬だけ止まる。須藤が、無言でうなずいたように見えた。すぐに、車の前を通り、後ろへ回る。足音だけが、相沢の緊張をゆっくりほどいていく。


「いいぞ。全部問題ない。前後、ともにな」


須藤の声は短い。それで十分だった。


(よし。ライト関係は、大丈夫)


相沢はエンジンを切った。ボンネットの解放レバーを、運転席から引く。まだフードは開かない。次にドアを開け、外へ出る。外に立ってから、フードを持ち上げ、支えをかけた。中は、まだ触らない。慣れた手順の、最初の一歩だ。ドアを閉める。カチャ、と音がした。これでようやく、車のまわりを動き回れる。


外気が、ほっと頬に触れる。


車を、リフトに慎重にかける。うちのリフトは**四点式**だ。床下式じゃない。車の下に潜り込むのではなく、**車の横から**アームを入れて持ち上げるタイプだ。場所によっては躓きやすい。車高の低い車は、入れるのが一苦労。逆に背の高い車は、当たる位置を変えないといけない。不便、極まりない。


(あぁ、社長。今すぐ床下に変えてよぉ)


心の中だけのつぶやきだ。田沼社長には、聞こえない。それでも、言わないと、胸の奥が少し軽くならない。


四か所、アームの位置をずらし、ずらし、合わせていく。全部、四点が当たったところで、相沢はレバーを握った。リフトを、ややだけ上げる。車が、かすかに浮く。油圧の唸りが、低く続く。


「さぁて……引きずってるのは、どこのブレーキちゃんかなぁ……」


右前から、車輪に力を加えながら、がたつきを見つつ、最後に一回り、回す。ガタ、と音がして、スムーズに回った。左前も、だいたい同じ。


順番にやっていくと、**後ろの二つの車輪が、回らない**。


サイドブレーキは、入れてない……よね?


少し不安になる。相沢は、運転席に手を伸ばして、背伸びしたままレバーを除く。リフトを、やや上げたまま、地面ギリギリで車輪を試す。これは、相沢が編み出したやり方だ。リフトの上げ下げを、少しでも減らすため。いわば、インチキ。名付けて――**手間はかけるけど、時間はかけません作戦**。


リフトの油圧は、意外と重い車でも抜けるのが遅い。上げるのも、遅い。だから、ちょっとだけ浮かせて、こうするのが、再確認する最短なんだよねぇ、と、相沢は自分に言い聞かせる。もう一度、後ろへ回る。


やっぱり、後ろ二つとも、動かない。


この車、**後ろはドラム**なんだよな。


――説明しよう。


ブレーキには、大きく**ドラムブレーキ**と**ディスクブレーキ**の二種類がある。今の主流は、前輪がディスク。いわゆるブレーキパッドが、ディスクを挟んで止めるタイプだ。


一方、ドラムブレーキは、ドラム缶のような筒の中にブレーキ機構が入っている。油圧で中の部品が広がり、筒の内側に押し付けて止める。後輪に多い。


後ろが止まってる、ということは、**戻ってない**、ということだ。シューが離れきっていない。つまり、そのままドラムを外そうとしても、外れない。無理やりこじったら、中が――ここここ、壊れる?!


相沢は、思わず声に出した。


「めんどくさぁぁぁあいいいぃぃ……やだぁあ。やりたくなぁいぃぃ」


工場の向こうで、エアーの音が唸っている。須藤さんのパンクの方だ。聞こえていない。よかった、と、相沢はほっと胸を撫でた。それから、後ろのドラムを、もう一度、じっと見つめた。


ゴムハンマーで、たたいてみて一瞬だけ戻って外れないかな……。


外れないよねぇ……


そう呟きながら、相沢はリフトを操作し、車を上げていく。安全装置が、ガコン、ガコン、と音を立てて噛み合う。目の前にタイヤが来たところで止め、エアーインパクトでナットを外していく。外し切ったら、もう少しだけ、挙げる。


相沢は、身長が少し小さい。少し上げるだけで、下にもぐれる。こういうときだけ、小さな体は便利なんだよねぇ、と、自分に言い聞かせる。


下に入り、ライトを照らしていく。オイル漏れはないか。パイプやカバーが、変な折れ方をしていないか。同時に、検査ハンマーでたたき、音の鈍さで、ボルトの緩みも確かめる。


下回りは、完璧だった。


(やっぱ、ブレーキだよねぇ……)


相沢は、立ち上がって、作業着の裾を払った。


お客さんに、確認の電話を入れないと。あとは、オイル交換するかどうかも、聞かなきゃ。見積もり、出さなきゃ。


(めんどくさぁあああい……ドラム、はぐってみないと、中どうなってるかわかんないし。私の力じゃ、開かないかもしれないしーー)


はぁ、と、短い息が漏れた。


(須藤さんに、手伝ってもらおうかなぁ)


素直に、お願いしに行こう。


相沢は作業手袋を外し、須藤のいる方へ向かった。パンクの車の横で、須藤がタイヤを扱っている。エアーの音が、相沢の足音をかき消していた。


「須藤さん、ちょっといいですか」


須藤が振り向く。無言で、うなずいた。


「後ろドラム、引きずりっぽくて……私の力じゃ、外れなくて。手伝ってもらえませんか」


お願いしたところ、須藤は手を止め、相沢の車を見た。短く、言った。


「なんだ、引きずりか。相沢の力じゃ、外れないか」


相沢は、一瞬、言葉に詰まった。


(ひとこと、余計じゃ!)


内心の突っ込みは、ちゃんと決まっていた。口には出さない。出したら、本当に手伝ってもらえなくなる。


「……はい。だから、お願いします」


相沢は、素直に頭を下げた。須藤は、タバコの臭いのする手袋をはめ直し、相沢のリフトの方へ歩き出す。


リフトの横で、須藤は工具をかける。ドラムを外そうと、手を添えた。力を入れているようにも見えない。それなのに、スポッ、と音がして、ドラムが外れた。


「おい、相沢。これ、そんなに固くないぞ。すんなり外れたわ」


相沢は、目を見開いた。


(いやいや、タイヤついてたときは、めっちゃ硬かったんですけど?! そんなにすんなり外れるもんじゃないでしょうが!……でも、コツとかあったら、なんか後で聞いておきたいな。今聞いたら、なんか片方、私がやらなきゃいけなそうだし)


口に出したのは、それだけだった。


「え、えぇ?……そうですかねぇ? あ、あはは……」


須藤は、外したドラムを床に置いた。車の後ろ――ドラムをはずいた奥を、指で示す。


「原因は、ドラムブレーキの上にある、油圧を伝える部分だ。ここが固着して、シューを出しっぱなしにしていた」


相沢は、うなずいた。さっき、車輪が回らなかった理由が、一本につながった。


須藤は、工具を持ったまま、続ける。


「やり方は簡単だ。前後、どっちでもいい。引っかかってるだろう部分を予測して、前が引っかかってたら後ろに回す。後ろが引っかかってたら、前に回す。少し回しながら取るのがコツだ。そうすれば、中の細かい部品を曲げたり折ったりしないで済む。シューも、はがれにくい」


須藤は、車体に残ったシューを、指でつついた。


「でも、これだと念のため、シューは交換だな。引きずりが長い間続いたせいだろう。残りのプレーキシューの厚さが、薄くなってる」


相沢が覗き込むと、ほんとうだった。摩耗の限界に近い、薄さが、目に入る。


「ほんとだ。……じゃあ、反対側も外して、見積もり、出しますね」


相沢は、素直に言った。須藤は、うなずいて、パンクの方へ戻っていく。相沢は、反対側のドラムに工具をかけた。


(反対側も、やってもらおうと思ったのに。なんで、こういうときだけ説明して、私にやらせるかなぁ?! いじわるぅ!)


内心の文句は、ちゃんと残した。手は、もう動いている。コツは、聞いた。前が引っかかっていたのか、後ろか――相沢は、少しずつ、反対側を回しながら、外そうとする。


ま、回らない……


どうして、あんなに簡単そうに外してたのに……。周りもしないんですけど?!


(ふぬぬぬぬぬ?!)


前後、どっちにも回らない。もしかして、向こう側のほうが、症状的に軽かったのかな。


もたもたしていると、須藤に見られていたのか。


「貸してみろ。みてられん」


横から割って入られ、工具が奪われた。そして、スポッ、と、また簡単に外れた。


簡単……なんで、そんなに簡単に取れるんだ……。馬鹿力なのか?! それとも、コツの問題?! コツの問題なのか?!


相沢は、ふがいなさを嘆きながら、それでも一言だけ、口にした。


「……ありがとうございます」


須藤は、うなずいて、またパンクの音の方へ戻っていく。相沢は、外した二つのドラムを見て、ため息をついた。見積もりを作らなきゃ。お客さんへの電話も、オイルの確認も。


相沢は、作業手袋を外し、休憩室にある業務用PCの前へ向かった。画面の青白い光が、午前の仕事を待っている。


キーボードを叩き、パーツの値段と工賃を入力していく。ドラムブレーキのシュー、前後。油圧まわりの点検・清掃。車検基本料。相沢は、一つずつ、数字を並べた。計算が終わると、印刷ボタンを押し、見積書がしゅう、と吐き出された。


お客さんに、電話をしないと。


相沢は、休憩室の隅にある電話を取った。見積書の横に、印刷した連絡先が載っている。田中さん。今朝、代車で出社していった、あの方だ。


コール音が、二回、三回と続く。つながった。


「もしもし。路地裏モータースです。田中さんで、よろしいですか?」


「はい、そうです。どうでしたか」


男性の声は、まだ仕事の空気を背負っている。相沢は、一度、息を整えた。


「実は、お預かりしたお車の車検の件でご連絡しました。下回りは問題ありませんでしたが、後輪のドラムブレーキが、引きずりを起こしていました。シューの摩耗も進んでいるため、前後とも交換をおすすめします」


電話の向こうで、男性が小さく息をついた。


「そうですか。やっぱり、おかしかったんですね」


相沢は、受話器を耳に押し当てたまま、うなずく。見えない相手に、それでも伝わるように。


「アクセルを踏んでも、あんまり発進とかが鈍くて。おまけに、燃費も悪かったので、気になっていたんです」


やっぱり、だ、と相沢は思った。動かせない、と言っていたのは、怖さだけじゃなかった。体で、気づいていたのかもしれない。


「引きずりが続くと、そういう症状も出やすいです。交換と点検を進めれば、だいぶ楽になると思います。車検の基本料金と、作業工賃を含めて――合計、〇万〇千円ほどになります」


数字を言い渡すと、電話の向こうで、短い沈黙が落ちた。


「わかりました。それで、お願いします」


相沢は、受話器を持ったまま、続けた。


「ありがとうございます。あと、オイル交換はいかがですか。そろそろ、交換時期ですよ」


見積もりを作るとき、オイルの項目も、ちらりと目に入れていた。言っておかなきゃ、と思っただけだ。


電話の向こうで、男性が少し笑った気がした。


「じゃあ、お願いしようかな」


「かしこまりました。では、作業が終わり次第、ご連絡します」


相沢は電話を切り、見積書を脇に置いた。受話器を戻すと、休憩室には、まだラジオの声と、遠くのコンプレッサーの唸りだけが残っていた。


連絡が終わった相沢は、そのまま業務用PCの前に座った。椅子が、かすかにきしむ。画面を起こし、ディーラー向けのパーツリストが載ったサイトを表示させる。ログイン。今日の田中さんのお車用の一覧が、行ごとに並んだ。


必要なものに、一つずつチェックを入れていく。後輪ドラムブレーキのシュー、前後。点検で触れた油圧まわりに合わせた消耗品。オイル交換のオイルとフィルタ。品番を確認し、個数を指定し、カートへ回す手つきは、だんだん慣れてきた分、機械的になっていく。


配達は、**午後便**に指定する。


この町の部品配達は、一日二回。午前と午後。午前便に載せたい注文は、たいてい午後三時を過ぎてから入れると、翌朝届く。それで十分な日も多い。だが、今は午前十時。まだ十一時前なら、今日の午後の便に、十分間に合う。


相沢は、時計の角をちらりと見た。十時五分。間に合う。間に合わなきゃ、ドラムの作業が、明日の朝まで伸びる。


入力を終え、配達予約を取り付けた。画面に、予約番号と午後便の到着目安が並ぶ。


――部品の注文は、これで完了。


相沢は、背もたれに体を預けた。肩の力が、ふっと抜ける。朝から続いていた、電話の緊張、十一時前に間に合うかという焦り、品番を打ち間違えていないかという小さな怖さ。それが、一度にほどけた気がした。


小さく息を吐く。吸う。もう一度、吐く。


これで、部品は動き出した。あとは、届くのを待つだけだ。届くまでのあいだに、できることは、まだある。それでも、今この数秒だけは、一息ついていい。


PCデスクの横にあるバインダーを手に取る。今日の田中さんの車検用だ。追加パーツを記入するためのプリントが、クリップで挟んである。


車検は、一発で終わることもあれば、引っかかる項目が出ることもある。追加パーツが要るときは、必ずこのリストへ書き込む。書き終えたら、事務の二人のどちらかに渡す。森川さんか、百合子さんか。そこから先は、計算してもらう。


そこまでは、私には専門外だ。何をしているのか、二人しか知らない。きっと、今回の車検にかかった費用と税金、その他もろもろの事務手続きを、さばいているのだろう。


(事務も、事務で大変だなぁ……)


そう、独り言をこぼしながら、相沢はプリントの余白に、きれいな字で、手早くパーツ名を並べた。品番。数量。作業の内容を、短い言葉で横に添える。引きずりのシュー交換。前後。オイル交換。車検基本に足す追加項目――読み返して、自分でも意味が通るか確かめる。


これは、お客さん向けでもある。


「どうして、そのパーツの交換が必要なんですか」


そう聞きに来る方が、いる。説明が下手なまま渡すと、不安が残る。だから相沢は、最初からまとめておく。摩耗したシューがホイールシリンダーに当たり続けると、引きずりが悪化する。燃費や発進にも効く。オイルは交換時期――電話で了承をもらった項目だ、と一行添えた。


バインダーを閉じ、デスクの上にそっと置いた。見積書の横に、事務に渡す分がそろった。


相沢は立ち上がり、作業手袋をはめながら、休憩室を出た。コンプレッサーの音が、また近くでうるさかった。床の上には、外した二つのドラムが並び、リフトの上には、まだ、お預かりの車が、いちばん高い位置で浮いている。


車の元へ向かい、相沢は、一度、立ち止まった。


ブレーキシューだけ、外す。あとは、パーツが来たときに外す。そうしないと、ブレーキフルードが漏れて、大変なことになる。ホイールシリンダーまでは、今は触らない。シューだけ、取り出す。それに決めた。


だが、このシューを外す作業が、まためんどくさい。


作業自体は、簡単なはずなのだ。なにせ、機械的な構造だから、引っかかる部分が多い。ゆえに、パズルのように、知恵の輪のごとく、外さなくてはいけない。ドラムをはずすときとは違う。車体に付いたシューは、別の手応えだ。手が、すぐについていかない。


これが、また、本当にめんどくさい。


(……でも、そんなこと、言ってられない)


ブレーキは、この車を止めるための装置だ。整備に失敗して、「失敗しました」なんて、言えるわけがない。事故の元になる。お客さんの命に、直結する。気は、抜けない。


お昼になる前に、全部、片づけたい。オイル交換も、済ませないといけない。今、リフトはいちばん上まで上がっている。なら、オイルからやっちゃおう。抜いたら、すぐ下ろして、シューの取り外しに取り掛かれば、流れ的には無駄がない。


相沢は、慣れた手つきで、ドレンプラグの下に受け皿を置き、レンチをかける。黒いオイルが、じわりと流れ始める。待つあいだ、フィルタ用の工具を手元にそろえる。匂いは、いつものオイルの匂い。嫌いではない。ただ、午前中は、まだ長い。


オイルが、抜け切ったのを確認した。受け皿――廃油の入った容器を、両手で持ち上げる。工場の奥にある、廃油を捨てるためのタンクへ運ぶ。足元を滑らせないよう、ゆっくり歩く。ドロドロと流れ落ちる残りが、床に黒い筋を引く。


色も、どろつきも、もはや「交換時期」という言葉を超えている。


「……長い間、交換してないなぁ」


誰に聞かせるでもなく、相沢はささやいた。確信に近い、独り言だった。


容器を空にし、もとの位置へ戻す。相沢は、また車の下へ潜った。ドレンボルトを、仮止めから本番の締め付けへ。規定のトルクを意識しながら、レンチを二度、三度、確かめる。オイルフィルタも、手で押して、しっかりと締まっているか、目と指で確かめた。


下回りは、大丈夫。


そう確信したので、リフトのレバーを握り、お車を、ゆっくりと下ろしていく。タイヤが地面に触れる。シューの外しに、入る。


新しいオイルを入れるのは、最後だ。注ぎ終わったら、エンジンをかけて、オイルをフィルタまで回さないといけない。オートマの車は、多くの場合、ブレーキを踏まないと始動しない。ペダルが要る。だが、今ブレーキを踏めば、後ろのホイールシリンダーの圧力が上がり、中身がぜんぶ、出てきてしまう。


初心者のころ、何度やらかしたことか。


思い出したくもない。だから、オイルを入れるのは、最後なのである。


相沢は、リフトの下へ回り込んだ。後輪の、ドラムを外したあとの車体だ。床に並んでいるのは、ブレーキドラムだけ。シューは、ホイールシリンダーとバックプレートの上に、まだ付いたまま。そこへ手を伸ばす。ブレーキシューを、手際よく――自分ではそう思いながら――外していく。引っかかる。角度を変える。外れる。もう一枚。反対側の後輪へ移る。


須藤さんには、遠く及ばない。スピードで、あの人に勝てるわけがない。外すのも、いつ外したのかわからないほど、素早く外してのけるのだ。


(いつか、私も、あんなに効率よくできるようになるのかなぁ……)


自分を卑下しながら、それでも手は止めない。もう一枚、もう一枚。四枚目のシューが、カチリ、と音を立てて外れたとき、工場の入口のほうから、足音が近づいた。


「おい、相沢。きりのいいところまでやったか?」


須藤だった。


(この人、いつもタイミングよく来る。絶対、私の手元、見てるんだよなぁ……)


「はい、終わりました」


須藤は、うなずいて、続けた。


「じゃあ、先に休憩。ちょっと早いけど、入ってくれ。俺は、パンク修理の終わった車、お客さんに返してくるから。同時に、留守番も頼んだ」


そう言って、須藤はその場から離れた。パンクの車のキーを、もう手にしている。


それって、実質、休憩という名前の待機なのでは。


留守番ってことは、お客さんが来たら対応しろ、ってそういうことでしょ……。


相沢は、外したシューを床に並べながら、そう悟ったのであった。


午前の一区切り。リフトの上には、まだお預かりのお車が浮いたままだ。床のブレーキドラムと、並んだシュー。あとは、午後便を待つだけだ。


第1話、お読みいただきありがとうございました。


ゆずきの「よし、今日も頑張りますか」から始まって、引きずりのドラム、須藤さんの「みてられん」、田中さんへの電話まで――書いていて、町工場の空気がだんだん濃くなってきた気がします。


作中の整備の話は、できるだけ現実に近づけようとしていますが、店の設備や作業手順は、リアルな工場と違うところもあります。

「うちの現場ではこうだけど」と感想をもらえると、とても助かります。


第2話以降も、基本は一台(一案件)ごとに進める予定です。

パンクの仕事、初めて来た客、雨の日の満車など、路地裏モータースの日常を、のんびり続けていけたらと思います。


次回も、ゆずきが何か忘れていなければ嬉しいです(忘れていたら、ご容赦を)。


それでは、またガレージで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ