表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

冷遇夫がお探しの私は、隣にいます

掲載日:2026/02/19

「サフィール……またそんなふうに僕を見つめて、かわいいね」


 寝室から漏れ聞こえる、怪しげな言葉。それは夫である、ロシェの声で間違いない。けれど、いつも素っ気ない冷たい声色をしている彼からは想像もつかない甘ったるさで、耳を舐める。


「……まだ欲しいのか? 本当に、欲張りだな……」


 やはり、聞き間違いなどではなかった。一人しかいないはずの夫の寝室。いつも冷たい夫が、この壁の向こうで誰かと愛し合っている──シャノン・サヴァティエは、人生で一番立ち会ってはいけないところに立ち会ってしまっていた。


 気持ち悪い。もっとまともな形で知りたかったです……ロシェ様。


 ハーブティーと小さなメレンゲ菓子を乗せたトレイをしっかりと持ち、シャノンは音を立てないように足早に屋敷の離れへと戻った。


 様々な感情が、頭と胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。自室に戻る気にもなれず、ラウンジのテーブルにトレイを置くと、そのまま星空のお茶会をひとりぼっちで開催することにした。


 そもそもサフィールって誰ですか? 愛人がいるなら、さっさと言ってくれればいいのに! 私のこれまでの苦労は一体なんだったのですか!?


 ロシェはシャノンの夫であり、国境を守る辺境伯家の当主だ。前妻が駆け落ちし、傷心の彼の下へ嫁いでほしいと王命を受けてここへ来た。いわゆる政略結婚だった。


 傷ついているロシェに無理をさせないようにと、適度な距離は常に意識してきた。妻としての当たり前の日常の会話も、触れ合いも全て諦めて、屋敷の離れで別々で暮らしてきた。


 それでも出会えば挨拶は欠かさずしていたし、妻としての役目を果たそうと公務への同伴も積極的に申し出ていた。少しだけで構わないから、たまに会話がしたいとも訴えた。そんなシャノンに対し、ロシェの反応はといえばこうだ。


『……おはよう』

『政務が忙しいから難しくて』

『今日はもう疲れているから』

『公務は僕一人で十分だよ』

『僕への気遣いはいらないよ』

『君は自由にしてていい』


 冷たく淡々とあしらう声。(うつむ)き気味で合わない視線。迷惑そうに微かに寄せられた眉根。あからさまな態度で、ずっと遠ざけられてきた。


 たとえ迷惑だとしても、このままというわけにもいかないのが夫婦という関係なわけで、毎日毎日挫けず努力してきた。今日だって会話ができなくとも、せめて彼を労れたらとハーブティーを持って部屋を訪ねようとしたところだった。


 前妻に裏切られて、人間不信になってしまったのかもしれない。そんなふうに考えながら、ずっと距離感に悩んできたのに。


──この仕打ちである。


「愛する人がいるなら、正妻の座なんていくらでも譲ってあげるわよ。本っ当、失礼な方!」


 淑女としてあるまじき暴挙、メレンゲ菓子三粒を鷲掴みにし、口の中へと放り込む。誰かに見られたら絶対に「はしたない」と叱られるだろうが、今日はもうそんなこと気にしている気分ではない。そうしてむしゃくしゃとした感情ごとハーブティーを飲み干そうとカップに手をかけると、「にゃあ」と小さな声がシャノンを咎めた。


「あら……こんばんは、アンブル。お散歩?」


 窓から差し込む月明かりの下に、白くて愛らしいお客さんがやって来る。アンブルはロシェの愛猫であり、シャノンがここへと嫁いでくる前から住んでいる大先輩だ。琥珀色(こはくいろ)の瞳が美しい白猫で、『アンブル』という名前もそこからつけられたと“侍女が”言っていた。


「良かったら、お茶会に付き合ってくれると嬉しいわ。それに今は、ご主人様のところに帰らない方がいいと思うの。“げげー”な感じですから」


 アンブルはトコトコと近づいてくると、シャノンの隣の椅子に飛び乗ってきた。新たなお茶会の参加者は、ちょこんとお行儀よく座り、じっとこちらを見つめてくる。


 この屋敷の離れはロシェの住む屋敷と廊下で繋がっており、アンブルはそこを通って散歩がてら会いに来てくれる。そのおかげか、アンブルはシャノンにも心を許してくれていた。


「アンブル、あなたのご主人って、ちょっと酷い人よね。私はずっと、この離れから心配して気にしてたのに。はぁ……それもただ迷惑なだけだったんでしょうね」


 白くてサラサラの毛並みを撫でると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。隅々まで手入れの行き届いた艶感に、アンブルがどれほどロシェに愛されているのかが伝わってきて……キュッと小さく胸の奥が疼いた。


「ねぇ、この可愛いお手々で、私の代わりにベシッとおしおきしてやってくれないかしら……なんてね?」


 力なく漏れた笑いは、空虚という泡に包まれて爆ぜ消える。開いた窓から吹き込む静かな夜風が、何事もなかったかのように髪を梳いて吹き抜けていった。


「冗談よ、ごめんね。でもね、うん……もしかしたら、もうすぐアンブルともお別れかもしれない。そのときは、あなただけでもお見送りに来てね」


 ロシェに愛する人がいる以上、ここに居場所はない。とはいえ黙って引き下がるのは癪だ。思いきりロシェの有責で離縁してやろう。


 アンブルは何も言わず、ゆらゆらと気ままにしっぽを揺らしている。けれど月光を浴びた琥珀色の瞳が、一瞬だけ閃いたような気がした。


「おやすみなさい、アンブル。話を聞いてくれてありがとうね」


 耳の後ろを一撫でしてから、別れを告げる。アンブルに打ち明けられたおかげか、心なしか胸の内がスッキリとしていた。


 動き出すにしても明日からだ。そうしてその日は思いきり寝ることにした。何をするにも、一に体力、二に体力だ。そう頭で唱えれば、あんな嫌なこともすっかり忘れて深い眠りに落ちた。



* * *



 するりと、何かが頭を撫でる。誰かの息遣いを近くに感じ、半分寝ぼけたまま奇妙な感触に目を薄く開いた。サラリと零れる灰色の髪。その奥に澄んだ空のような明るい青の瞳が見える。それらが朝日の中で宝石のように煌めき、愛おしそうに笑みが綻ぶ。


「起こしてしまったか……おはよう──」


 ロシェ様がなぜ私の寝室に!?


 柔らかな声が耳に届いた瞬間、ビクッと体が跳ねる。ずるりと布の上を滑り落ちる感覚に、手足がバタつく。直後、「うにゃにゃ!」という間抜けな声が喉の奥からあふれ、ドタンと床に転がった。


「だ、大丈夫か、アンブル! びっくりしたのか?」


 アンブル……?


 ベッドの上から目を丸くしたロシェが、シャノンを見下ろしている。彼の両腕が抱きしめるようにこちらへと伸びると、軽々と持ち上げられた。そのまま膝の上に乗せられると、片手を背中に添えられ、もう片方の手が優しく頭を撫でた。


 明らかに小さくなってしまった体に、白くてふわふわの小さな丸い手。そしてシャノンをアンブルと呼ぶロシェ。よくよく見れば、部屋の内装がシャノンの寝室とは違っている。


 もしかして私、今アンブルになってる……?


 夢としか思えないのに、夢にしては妙に生々しい。先ほど寝台から落ちたときの衝撃もしっかり感覚として残っている。


「痛くなかったか?」


 心配そうな眼差しが、シャノンへと注がれている。頭を撫でる手つきは穏やかで、心地良くて……けれど胸が締めつけられて苦しい。


 ロシェ様に、こんなふうに優しくされたこと……なかった。


 妻であるシャノンの知らない、けれど愛猫のアンブルは知っているロシェの一面。彼にとって“妻”とは、どこまでもどうでもいい存在なのだろう。離れに追いやって、ろくに関わりを持とうともしない。嫁いでからの一年、一体なんだったんだろうという虚しさすら芽生えていた。


 シャノンは寝台の上や室内を見回す。せっかく寝室にいるのだからと、彼の愛人『サフィール』の姿を探したが、彼女はすでに帰された後のようだった。


 シャノンがどんなに努力しても一瞥(いちべつ)すらくれなかったあの“傷心の旦那様”を落としたのが、一体どんな絶世の美女か一目見てやろうと思っていたのに。残念……あぁ、本当に残念でならない。


 とはいえ、この姿から戻る方法もわからないのだ。どうせそのうち出会うだろう。なんならこれを利用して証拠をたくさん集めるのも悪くない、そう思い始めた頃だった。


「ロシェ様、ロシェ様っ! 起きていらっしゃいますか!?」


 ノックにしては異様に乱暴な音と、ロシェを呼ぶ大きな声。ロシェが入室を許可すると、中へ入ってきたのは家令のペリードだった。


「何かあったのか?」

「無礼をお許しください。奥様が、今朝からどこにもいらっしゃらず……屋敷の者たちで探しているのですが、まだ見つかっておりません。急ぎロシェ様にご報告せねばと」


 シャノンを撫でていたロシェの手が止まり、強張る。小さく息を呑んだかと思うと、落ち着きを取り戻すように静かに吐息が落ちた。


「置き手紙はなかったか?」

「いえ、何も……屋敷を出た形跡もなく、本当に忽然と消えてしまっていて」

「わかった。僕も急ぎ支度をして、シャノンを探そう。ペリードは捜索に戻ってくれ」

「承知いたしました」


 ペリードは足早に部屋を立ち去ると、再び朝の静寂が訪れる。シャノンは、「消えていない。私はここにいる」と必死で訴えようとした……が。


「にゃーにゃにゃ! うにゃにゃ、にゃにゃーにゃぅ!!」


 ダメだ、全然人の言葉にならない!


 言葉がダメならと、ロシェの胸を前足でたしたしと掻いた。けれど彼はシャノンをそっと抱きしめると、静かに頬を擦り寄せた。


「わかってるよ。シャノンのことが心配なんだろう?」


 違う、違う!! わかってない、なーんにもわかってないですから!!


「ちゃんと見つけるから、いい子で待ってるんだよ」


 ロシェはシャノンを寝台の上に下ろすと、ぽんぽんと頭を撫でて支度に取りかかる。安心させるように微笑みながら、振り返る間際の瞳は、どこか泣いているようにも見えた。



* * *



 それから一日、ずっとロシェについて回っていた。ロシェたちはシャノンを見つけることができず、屋敷内は騒然としたまま夜を迎えた。


 ロシェの後ろを歩いているが、彼の背中はすっかり疲れ切っている。そのまま彼と共に寝室へと戻ると、見慣れない黒い子猫が一匹、寝台の上で丸まっているのが見えた。


「ただいま。夕食遅くなってごめんね」


 ロシェは厨房で受け取った猫用の食事を、床へと置く。すると黒猫はピクリと顔を上げ、待ってましたと言わんばかりに飛びついた。ガツガツと美味しそうに喰らいつき、チラッとこちらを見る。まるで「こうやって食べるんだよ、知らないの?」とでも言っているような視線だ。


「アンブルもお腹すいただろう?」


 ロシェはそう言うと、食事の入った皿をシャノンの目の前に置き直す。食事はほんのりと温かいのか顔に微かな湯気を感じ、美味しそうな匂いが鼻先を掠める。


 え……これに、顔を突っ込んで食べるのですか? ひ、人としての尊厳というものが……!!


 直接皿に口をつけて食べるなんて、メレンゲ菓子を鷲掴みして食べられるシャノンでも抵抗感がある。カトラリーが使えずとも、せめてお皿をテーブルの上に置きたい。心まで猫に染まったわけじゃないと、皿を睨みつけたまま硬直していた。


「……そうだよな。アンブルはシャノンのこと、好きだったもんな。心配なのはわかるけど、元気で出迎えられるようにちゃんと食べないと。シャノンは……きっと、僕が見つけてくるから。な?」


 ぽんぽんとシャノンの背中を撫でながら、ロシェが力なく笑う。その笑顔を狡いと感じるのに、ズキリと胸が痛んだ。


 ずっと放置していたくせに、今さら必死でシャノンを探している。後でしわ寄せが来るとわかっていて政務を最小限に絞りながら、他の時間は全て捜索にあてていた。


 アンブルの体を借りてるなら、ちゃんと食べてあげないと弱っちゃうわよね……


 これもアンブルを死なせないため。人としての尊厳をかなぐり捨てて、かぶりつこうとしたときだった。顔面がズモ……っと柔らかいふかふかに包まれる。


 ……え?


 視界が黒い。ついでに干したての布団のような匂いもする。


「あ、こら! サフィールは欲張りすぎだ。これはアンブルの分だよ」


 サフィール……サフィール……!?


「そんなかわいい顔でおねだりしてもダメ」


 黒かった視界が開けると、黒猫……サフィールを抱っこしているロシェの姿が見えた。


 え、じゃあ……あのときって愛人と過ごしてたわけじゃなくて? あぁぁ、なんてこと……あなたを一時でも疑った愚かな私をお許しください……!


 シャノンは自分の方が盛大に品のない勘違いをしていたことを、深く深く恥じた。全身が熱く、人の姿だったら茹でたてのエビのようになっていたことだろう。


 こんな疑いをロシェへ向けてしまったことが、チクリと心の底の方に刺さる。


 元の姿なら、すぐに謝ることもできるのに。


 けれど今は猫だ。「申し訳ありません」と口にしたところで、どうせにゃーにゃーとしか声にならない。それがもどかしくて、全身がそわそわと落ち着かなかった。


 そんなシャノンの気持ちなど素知らぬ顔で、サフィールはぐっと背中を反らしている。つやつやの黒いしっぽの先まで、気持ちよさそうにピンと伸び切っていた。



 * * *



 二日目も、朝から晩までロシェはシャノンを探し続け、シャノンはアンブルとして彼の後ろをついて回った。ただ闇雲に足を運ぶだけでなく、屋敷から出た形跡の調査をし、事件と事故と自らの失踪、全ての線を視野に入れながらあらゆる可能性を一つずつ潰していった。


 二日目ともなると、いよいよただ事ではないと屋敷の者たちは皆一様に表情を暗くした。けれどその中で一人、誰も責めることなく鼓舞していたのがロシェだった。


 それでも見つけられない。当然だ。シャノンはどこにも行っていない。アンブルになってここにいるのだから。


──そしてシャノンは今、ロシェの執務室の机の上で、ででーんと横たわっている。


 なんで私がこんな格好で……でもこれしか……!


 机の上にお腹丸出しで寝そべるなんて、物凄い抵抗感がある。けれど今は、手段を選んでいられなかった。


 彼は今、シャノンの実家へ「そちらへシャノンが帰っていないか?」という内容の手紙を書こうとしている。娘が失踪したともなれば、両親は黙っていない。両家の関係も冷えに冷え込んでしまう。シャノン自身が無事でここにいる以上、波風を立てるようなことは避けたかった。


「アンブル、どいてくれないか? 手紙が書けなくて困るんだが……」


 ロシェは宥めるように声をかけてくるが、シャノンは重石になったつもりで動かず、机から下ろされてはまた乗って寝そべりを繰り返している。再びこちらへと伸びた彼の手を、しっぽでシャッと払った。


「これが書けたらたくさん撫でてやるから、少しだけ待っててくれ」


 ロシェに抱えられて床に下ろされても、シャノンは猫の身体能力を使ってすぐさま執務机の上に飛び乗る。すでに文字を書き始めていたペンへ、シュッシュッと前足でじゃれつき、便箋を台無しにしてやった。


「アンブル……どうして……」


 ロシェは声を震わせると、くしゃりと顔を歪めた。これまで必死に抑え込んできたものがあふれるように、澄んだ空色の瞳がじわりと潤む。


「心配じゃないのか? シャノンに何かあったら、僕は……」


 こらえきれなくなった雫が、空色からぽろりと零れ落ちる。透明の粒はパタッと音を立てて砕けると、新しく用意したばかりの便箋に丸いシミを作った。


「僕のせいだ……僕が、また間違えてしまったから……前のときと、同じだ……」


 頭を抱えた彼の右手が、ぐしゃりと前髪を巻き込んで握りしめられる。机の上に置かれたままの左手は震えていた。その手の甲にペタリと、手を重ねるつもりでシャノンは前足を置いた。


 いなくなったせいで、前妻のことを思い出させて泣かせてしまった。屋敷の従者たちにも迷惑をかけてしまっている。今すぐにでも戻って、安心させてあげたい。けれど、戻り方がわからない。慰めにもならない前足が、あまりにも無力だった。


 せめて言葉が話せたら──言葉……?


 シャノンはふとあることを思い出し、ロシェの袖に噛みついてぐいぐいと引っ張った。そうして机から下りて扉の前へ行き、また戻って袖を引っ張る。


「アンブル、ついてきてほしい……のか?」


 執務机の前から立ち上がりかけたロシェに、扉をカリカリと優しく引っ掻いて促す。彼が扉を開くと外に出て、振り返りながら案内した。


 彼を連れてきたのはシャノンの寝室だ。その隅に置かれた机に飛び乗り、一番上の引き出しを開けようと引っ掻く。ロシェが代わりに引き出しを開けてくれると、その中にある一冊の手帳を取ろうとした。


「……シャノンの日記? これで何かわかれば……!」


 ロシェは手がかりが掴めると思ったらしく、ここにはいないはずのシャノンに一言謝ってから日記を開く。けれど、そこに失踪した理由も手がかりも何一つ書いていない。書いてあるのは、この屋敷で過ごしてきた日々で素直に感じてきたことばかりだ。


 初めてロシェと出会い、どういう思いで嫁いできたのか。

 挨拶を返してくれて、その微かな笑みに心が弾んだこと。

 妻として頼りにしてもらえない悲しみと虚しさ。

 団らんのひとときを作ろうとしても拒まれる切なさと不満。

 それでも、「忙しい」「疲れている」と聞けば心配していたこと。


 たった一年だけれど、一年の思いの全てが、この手帳には詰まっている。


「シャノン……」


 ロシェの声が、力なく滑り落ちる。低く、風に揺らぐ蝋燭の火のように、空気に溶け消えていく。


「すまなかった……君の言葉が、本当に、全部……本心だったなんて……」


 ロシェは日記を手にしたまま、膝から崩れるようにしゃがみ込んだ。シャノンは机から下りて、彼を見上げて見守ることしかできない。ぽろぽろと伝い落ちる涙を拭いたくて、彼の膝の上へと乗った。


 白い小さな丸い手で、ペタペタと彼の涙に触れる。すると彼の手が伸び、ぎゅうっと優しく抱きしめられた。押し殺すような嗚咽と吐息が、体の震えと共にこちらへと伝わってくる。


「今度こそ上手くやろうって、追い詰めないように距離を置いたのに。また失敗して……僕はもう、人に優しくする方法がわからない……」


 ロシェの前妻への対応はそれとなく聞いている。穏やかに愛情を傾けて関わりを持ち、前妻の方も彼に好意的に接していたらしい。


 けれど駆け落ちという形で、妻を失った。


 愛情を踏みにじられ、信じていた姿は建前だった。互いに歩み寄れているようで、その実前妻の心は別の人のものだった。


 妻に裏切られた、傷心の辺境伯。きっとこんなふうに、人知れず一人で泣いていたのかもしれない。


 それならそうと、どうして「信じることが難しい」と一言言ってくれなかったのですか! そうすればこんな行き違い、しなくても済んだのに……


 歩み寄ろうとして、届かない──その寂しさと虚しさは、シャノン自身もよく知っていた。


「……アンブル、ありがとう。こんな僕でも、傍にいてくれて」


 切なくてか細い声が、シャノンを苛む。傷心のロシェに歩み寄るとか、気を使っているなんて……相手を思いやっているような気になっていただけの傲慢だ。


 気づかないうちに上から目線で、傷ついている彼にずっと“してあげている”と思っていた。ロシェばかりに非があるわけではない。そんな考えだから、ずっと心が歩み寄ることがなかったのだと思い知らされた。


 言葉を持たない猫のシャノンは、これまでの後悔と罪悪感を抱きしめて、ロシェの頬に頬を擦り寄せて涙を拭った。


 何の役にも立たない親切心なんか捨てて、拒絶されたとしても勇気を持って、たった一言「寂しい」と……素直に言えばよかっただけの話だった。


 ロシェはシャノンを抱きしめたまま静かに泣き続け、やがて机にもたれかかるようにして疲れて眠ってしまった。日記を握りしめたまま眠る姿は年齢よりもあどけなく、辺境伯という肩書きに対し、あまりにも繊細で脆い。その頬に残る涙の痕を手の先でそっとなぞる。


 猫の体ではブランケットを運ぶのは難しく、シャノンも彼の隣で丸まって眠りについた。



 * * *



 何かがギュッと巻きつくような感触が、シャノンの意識を揺り起こす。ふっと目を開けると辺りは明るく、目の前には泣き腫らした空色の瞳が見えた。


「帰ってきてくれたんだね……無事で、本当に良かった……」

「ロシェ、さま……?」


 彼の名前を呼ぶと、閉じ込めるように抱きしめる腕が深くなる。息遣いが胸元から伝わってくるほどの近さ。鼓動の音に合わせて、体温がじわりと染み込んでくる。


「おかえり、シャノン……」


 どこに行っていたんだ、なぜ勝手にいなくなったんだ、とは一言も聞いてはこない。ただただ優しく、無事に帰ってきてくれたことに安堵し、喜んでくれている。


 この人はこういう人なのだ、とシャノンは彼の腕の中で静かに噛み締めながら、彼の背中へと手を添える。その手がもう、白くてふわふわの小さな手ではないことに気づいた。


「本当は、ずっと隣にいましたよ?」

「……え?」


 ロシェは不思議そうに目を丸くし、軽く首を傾げる。あれだけ探しても見つからなかったのに、隣にいたと言われても納得いかないだろう。きっと本当のことを話しても、信じてもらえるかわからない。


 けれど、だとしても……


「今日こそ、私の話を聞いてくれませんか? 紅茶もお淹れいたしますから」

「……もちろんだよ。僕からも、君に話したいことも、謝りたいこともたくさんあるんだ」


 涙の乾ききらない瞳が、窓から射し込む朝日のように輝いている。アンブルだったときにしか向けられなかったロシェの笑顔が、今はシャノン自身へと向けられている。ブワッと柔らかな熱を灯した胸が、強く高鳴っていた。


「にゃぁ」


 猫の鳴き声がして目を向けると、いつの間にかアンブルとサフィールが、シャノンの寝台の上にちょこんと座っていた。


 そっか、やっぱり夢じゃなかったのですね。不思議な出来事だったけど……


「ありがとう、アンブル。ついでにサフィールも」

「アンブルとサフィールが何かしたのか?」

「ふふ……それも後でお話ししますから」

「あぁ、ゆっくり聞かせてくれ」


 ロシェはアンブルたちにしていたように、柔らかく目を細めてシャノンを見つめる。彼の両手がそっとシャノンの手を取り、優しく優しく包み込んだ。


 くすっと小さく笑うシャノンとロシェの声を、二匹はどうでもよさそうに聞いている。朝日をいっぱいに浴びながら、アンブルはくぁぁ……と一つ、大きなあくびをしていた。


 やがて屋敷の中は、ゆっくりと温かな笑い声に包まれていく。優しい香りの紅茶と甘いお茶菓子に、猫になっていた不思議な話を添えながら。

お読みくださり、ありがとうございました。


このお話は長編を執筆する傍ら、息抜きに少しずつ書いていたものです。

ちょっと切なくて、ちょっと笑えて、ちょっと温かな気持ちで終われるような物語として執筆しました。


この物語と同時に執筆していた長編「嘘が匂いますね、公爵様〜愛を騙る夫の後悔〜」も完結しております。

もしよろしければ、そちらも覗いてみていただけたら嬉しいです。


これからも執筆を続けて参りますので、また別の物語でもご縁がありましたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ