第3章|本当は誰に?
十月に入ると、「葉月の君へ」のツイートは確実に変化していた。
文子はそれまでと明らかに違う空気感を感じ取っていた。季節の描写や日常の風景だけだったものが、徐々に「誰か」の存在を匂わせ始めていた。
| 書架のいちばん上の段にあった本、
| 背表紙が少しかすれてたけど、
| 君は迷わず手を伸ばした。
|
| あの光景、なぜか今でも焼きついている。
このツイートを読んだ瞬間、文子の胸に奇妙な感覚が走った。
図書室の風景。背の高い書架。手を伸ばして本を取る仕草。
なぜか、とても身近に感じられる光景だった。
でも、それはきっと偶然だろう。誰もが経験するような、ありふれた記憶なのだから。
文子はそう自分に言い聞かせた。
| 踏切の音って、どこか懐かしい。
|
| 会話が途切れて、空気が変わって、
| 思ってもいなかったことを言いそうになる。
|
| だから、通り過ぎるまで黙っていた。
次の週のツイート。
これを読みながら、文子は通勤途中の踏切で立ち止まった。確かに踏切には、時を止めるような不思議な力がある。普段は話している人も、あの音が鳴ると自然と黙ってしまう。
この人は、誰かと一緒に踏切を渡ったことがあるのだろう。そして、その時に言いたいことがあったけれど、結局言えずに終わったのだ。
文子の中で、確信が固まりつつあった。
これは恋文だ。
直接的な愛の言葉は使われていないけれど、確実に特定の人への想いが込められている。
でも、その相手は一体誰なのだろう。
そして、なぜこの人は、その想いを直接伝えずに、こうしてSNSに投稿しているのだろう。
文子は昼休み、一人でコーヒーを飲みながらそのことを考えていた。
きっと、何か事情があるのだ。
もしかしたら、その人はもう結婚しているのかもしれない。あるいは、遠くに住んでいて会えないのかもしれない。或いは、既に亡くなってしまったのかもしれない。
どんな理由があるにせよ、この人の想いは宙に浮いたまま、誰にも届いていない。
それは、とても切ないことだった。
| 洗濯物を取り込むタイミングで、
| 季節がほんの少し、遠ざかっていく。
|
| 君はそんな瞬間にさえ、
| 名前をつけたがる人だった。
このツイートを読んだ時、文子は思わず声に出して笑ってしまった。
「名前をつけたがる人」
確かに、そういう人がいる。季節の変化や、空の色や、雲の形にまで、独特の名前をつけたがる人。詩的で、感受性が豊かで、少し変わっている人。
この「君」は、きっとそういう人なのだろう。
そして、この投稿者は、そんな「君」のことを愛おしく思っている。細かな癖や仕草まで、すべて愛している。
文子は、そんな風に誰かに愛されたことがあっただろうか、と考えた。
自分のちょっとした癖や、無意識にしている仕草まで、誰かが覚えていてくれたことがあっただろうか。
思い出そうとしても、すぐには浮かんでこなかった。
でも、なぜか胸の奥が温かくなった。
きっと、どこかに存在するのだろう。こんな風に誰かを想っている人が。そして、こんな風に想われている人が。
| 公園のブランコ、
| 風が吹くたびに誰もいないのに動いていた。
|
| 誰かが残していった言葉みたいに、
| 静かに、揺れていた。
この詩的な表現に、文子はまた心を奪われた。
誰もいないブランコが風で揺れる光景を、「誰かが残していった言葉みたい」と表現する感性。
この人は、きっと詩人なのだ。プロかアマチュアかは分からないけれど、確実に詩を愛している人だ。
そして、その「君」も、詩を理解できる人なのだろう。じゃなければ、こんな風に想いを綴らないはず。
文子は、「葉月の君へ」のプロフィールページを改めて見た。
フォロワーは少しずつ増えているけれど、まだ数十人程度。投稿に対するリアクションも、いいねが数個つく程度で、リプライはほとんどない。
この人の想いは、まだ本当の相手には届いていないのだ。
そう思うと、文子は何とも言えない気持ちになった。
この美しい言葉たちが、宙に浮いたまま消えてしまうなんて、あまりにも悲しすぎる。
何か、自分にできることはないだろうか。
この投稿者と、その想いの相手を引き合わせることは。
でも、手がかりがあまりにも少なすぎる。「君」の正体を示すような具体的な情報は、どの投稿にも含まれていない。
文子は、これまでの投稿を最初から読み返してみることにした。
何か、見落としている手がかりがあるかもしれない。
スマートフォンの画面をスクロールしながら、文子は一つ一つの投稿を丁寧に読み直した。
八月七日の最初の投稿から、今日まで。
季節の移ろいとともに、この人の想いも少しずつ形を変えている。最初は遠い記憶のような曖昧さがあったのに、最近の投稿はより具体的で、より切実だ。
まるで、思い出が鮮明になってきているような。
あるいは、想いの相手に近づいているような。
文子は、ふと思った。
もしかして、この人は既に「君」を見つけているのだろうか。
或いは、最初から知っていて、ただその人に気づいてもらいたくて、こうして投稿を続けているのだろうか。
だとしたら、その「君」は、今このツイートを読んでいるかもしれない。
自分に向けられた想いだと気づかずに。
文子は、スマートフォンを見つめたまま、考え込んだ。
もし自分が、誰かにこんな風に想われていたとしたら。
気づくだろうか。
気づいたとしたら、どう思うだろうか。
そんなことを考えているうちに、文子の心の中に、小さな願いが生まれていた。
この投稿者の想いが、ちゃんと相手に届いてほしい。
そして、もし可能なら、自分もその手助けをしたい。
この投稿者の想いが、ちゃんと相手に届いてほしい。
そして、もし可能なら、自分もその手助けをしたい。
文子は、来週の水曜日を心待ちにしながら、スマートフォンを閉じた。
きっと、また新しい手がかりが見つかるだろう。
次章予告|第4章「あの日の手のひら」
文子の心に、初めて「これは私?」という疑念が芽生える。ある投稿に含まれた記憶の断片が、彼女だけが知る過去と重なり始める。




