第2章|恋文じゃないかもしれない
九月に入ると、「葉月の君へ」の投稿は毎週水曜日のリズムに落ち着いた。
文子は気づけば、火曜日の夜になると少しそわそわするようになっていた。明日の朝、どんな言葉が待っているのだろう、と。
| 雲が高くなってきた。
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| 空の端っこが少しだけ秋を思い出して、
| 風が言葉を選びはじめる。
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| 8月が、静かに姿勢を正す午後。
季節の移ろいを丁寧に掬い取るような言葉。でも、どこか人のぬくもりが感じられる。
| 校庭の隅の雑草が、やけに立派だった。
| 誰にも見られていない場所ほど、
| ちゃんと咲いている。
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| そのことに、誰も気づかないままで。
この投稿を読んだとき、文子は電車の中で思わず息を止めた。
なぜだか分からないけれど、この文章に胸を突かれたのだ。「誰にも見られていない場所ほど、ちゃんと咲いている」という一文が、自分のことを言われているような気がして。
その日の昼休み、同僚の美里が声をかけてきた。
「文子ちゃん、最近なんか雰囲気変わった?」
「え?」
「なんていうか、ふわっとしてる時がある。恋でもしてるの?」
文子は慌てて首を振った。
「そんなことないよ。ただ、最近読んでる文章があって」
「文章?小説とか?」
「うーん、詩みたいな感じかな。SNSの」
美里は興味深そうに眉を上げた。
「へー、詩。意外。文子ちゃんってそういうの読むんだ」
そう言われて、文子は自分でも驚いた。確かに、普段の自分なら詩のようなものに心を動かされることはなかった。実用的なもの、効率的なもの、分かりやすいものを好む性格だった。
それなのに、「葉月の君へ」の言葉は違った。
まるで、誰かがそっと耳元で囁いているような親密さがあった。
| コンビニの帰り道、
| 歩道に小さなセミの羽が落ちていた。
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| もう夏は、ほんの一歩ぶん、
| 後ろに下がっているらしい。
ある水曜日の朝、文子はこの投稿を読みながら、ふと気づいた。
この人は、誰に向けて書いているのだろう。
「君」という言葉が時々出てくる。でも具体的な名前は一度も出てこない。住んでいる場所も、年齢も、性別さえ分からない。
それでいて、とても個人的な感情が込められているような気がする。
もしかして、これは恋文のようなものなのだろうか。
でも恋文にしては、あまりに静かすぎる。激しい想いや、会いたいという気持ちは感じられない。むしろ、遠くから見守っているような、諦めにも似た優しさがある。
| 自転車のチェーンの音が、今日はやけに遠くまで響く。
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| 乾いた風が鳴らす音は、
| 誰かの記憶を追いかけているみたいだった。
この投稿を読んだとき、文子は確信に近いものを感じた。
これは、誰かを想って書かれた言葉だ。
恋文、というほど直接的ではないかもしれない。でも確実に、特定の誰かに向けられた想いがそこにはある。
では、その「誰か」とは一体誰なのだろう。
そして、なぜこの人は、その想いを直接伝えずに、こうしてSNSに投稿しているのだろう。
文子は、「葉月の君へ」の過去の投稿を遡って読み返した。
最初の投稿からずっと、一貫して「君」への想いが綴られている。でも、その「君」が誰なのかを示す手がかりは、どこにもなかった。
きっと、この想いは届かないものなのだ。
届けることができない、あるいは届けてはいけない理由があるのかもしれない。
だから、この人はこうして、誰にも届かない場所に言葉を置いているのだろう。
そう思うと、胸が少し痛んだ。
同時に、こんな美しい言葉を読ませてもらえることに、申し訳ないような気持ちになった。
これは本来、自分が読むべきものではないのかもしれない。
でも、やめることはできなかった。
| 図書館のガラス越しに見えた雲が、
| 少しだけ泣きそうな顔をしていた。
|
| たぶん、あれは秋のはじまりじゃなくて、
| 夏の見送りなんだと思う。
九月最後の水曜日。
この投稿を読みながら、文子は窓の外を見上げた。
確かに空の色が変わっている。夏の終わりを告げる、少し寂しい青だった。
「葉月の君へ」という人も、きっと同じ空を見上げているのだろう。
そして、会えない誰かのことを想っているのだろう。
文子は、窓の外の変わりゆく空を見上げながら思った。
どこかで、この美しい言葉を受け取るべき人が、普通の日常を送っているのだろう。
そして、いつかきっと気づく日が来るのだろう。
自分に向けられた想いに。
次章予告|第3章「本当は誰に?」
文子は「葉月の君へ」の投稿が誰かへの想いを綴ったものだと確信する。そして、本来の相手を見つけて届けたいと思うようになる。




