32. 抱擁
「こ……腰が抜けました……」
「ごめん、怖がらせて」
「こわ……怖かったんですかね……?」
「普通は怖いと思うよ。僕だって怖かった」
穏やかな声を聞いているうち、なぜだか視界が滲んだ。
「い……一時は……、ど、どうなることかと」
「うん」
「もう……完全に終わったと」
「うん」
「お、お二人とも、ご、ご無事でよかったです……」
今になって、ガクガクと身体が震えてきた。震える左手を、これまた震える右手で抑え込む。
ところがそれ以上に私を震え上がらせる、怒気を含んだ声をかけられた。
「そんなことより、自分の身を投げ出そうとしたね?」
「それは、あの」
あまりの恐怖にヒッと身が縮こまる。普段温厚な人の怒りは本当に怖い。そういえば、初めて会ったときにも恐怖を感じたのだっけ。
彼は平淡な声で話し始める。
「自分の命は、そんなにあっさり捨てるものじゃないと思うよ」
「いやでも、命には優先順位というものがありまして……」
彼らは王族で、こちらはしがない男爵家の娘だ。しかもつい先日まで生きる気力を失っていた。
どちらを守るべきなのかは、明白だ。
「つまり、僕たちよりも自分の命の優先順位は下だと?」
「残念ながら、それは自明の理かと」
「あのね、エルゼ」
ため息交じりにそう呼びかけてくると、彼は目の前で腕を広げた。
「え」
気がついたときには私の顔は、彼の胸板に押しつけられていた。
「もしあのときにエルゼに死なれたら、きっと僕は一生、自分を許せなくなっていたと思うよ」
「そ、そうですか……」
「それになにより、僕はエルゼには生きていて欲しいと願う。エルゼのいない世界は、間違いなくつまらないものだよ」
「ええと」
私の身体は硬直してしまっている。なんだろう、突然のこの甘ったるい雰囲気は。人前でいったいなにをしでかしてくれているんだろう。いや、人前でなければいいというわけではないが。
すると場に飲まれたのか、おおー、と周辺で拍手の音がし始めた。
「やっぱり本命だったんだ」
と納得したような声もした。
いやもう、なにが『やっぱり』なんだか。
「お取込み中、失礼します。ではギルベルト殿下、我々は下がらせてもらいましょう」
「そうしてもらえる? それから、あとで指示を出すから、このことはすべて内密にね」
「承知しております」
耳だけで衛兵たちとのやり取りを聞く。
あ、なるほど。舞踏会のときと同じように恋人と思わせておけば、周りが勝手に二人きりでもおかしくないと気を使ってくれる。そのための演技か。
そして少々落胆している私もなんなのだろう。当たり前のことではないか。いったいなにを期待しているんだろう。馬鹿馬鹿しい。
そんな自問自答を脳内で繰り広げている間に、何人かの足音と、そして扉が閉まった音がした。さてこれで、この部屋には関係者しかいなくなったはずだ。
彼の腕の中が妙に心地良くて、今しばらくはこうしていたい、などという不埒な感情が湧いてきたが、それをなんとか自分の中から追い出す。
それからギルベルト殿下の胸に両手を当てて、グイッと押し出した。
「あれ、嫌だった?」
そんなとぼけた声を掛けられる。
「嫌とかじゃなくてですね!」
顔を上げると小首を傾げるギルベルト殿下と、なぜか不機嫌そうに眉根を寄せるフィフィアーナ殿下が私を見つめていた。
私は居住まいを正して正座をすると、口を開く。
「訊きたいことがあります」
「なに?」
「さっきの水魔法、ギルベルト殿下ですよね」
彼は明らかに、『あ、まずい』という顔をして、目を泳がせる。
そうだ。確か彼は、あの四阿で、他にも強大な魔力を持つ者がいるのではと会話したとき、煮え切らない返事をしていた。
少なくともあのとき、ギルベルト殿下は私に隠しごとをしたのだ。
そしてこの期に及んで、まだ認めようとしていない。
「……いや? フィフィじゃないかな」
「噓つかないでください。明らかにギルベルト殿下が発動させてましたよ。それに大きな魔法は二回連続だと眠くなるんですよね。フィフィアーナ殿下、起きていますよ」
「あれくらいの水魔法と火魔法だと、入れ替わりの魔法ほどは魔力は使わないし……」
「どうして目を見て話せないんですか?」
ギルベルト殿下を正面から、じっと見つめてやる。さきほど恐怖を感じさせられたことへの当てつけもあった。
すると彼はいたたまれなくなったのか、ぼそぼそと返事をする。
「あー……まあ」
ほらね。
キッと睨みつけると、彼は身を縮こまらせた。
いつの間にやら、彼も私の前で正座をしてしまっている。
「……騙しましたね」
「ごめん」
「ギルベルト殿下、コップに水を出すだけだって」
「ごめんって」
「隠しごとはよくないと思うんですが」
「だから、ごめんって」
「エルゼ、そのへんにしてあげて。お兄さまも、いろいろあるのよ」
フィフィアーナ殿下が労るような声音で口添えしてくる。仕方ない、それに免じることとしよう。今は、それどころではないのだし。
「……私にも後日、改めて説明してもらえますか?」
「うん、必ず」
コクコクと頷くので、私も頷き返す。
すると彼は安堵の息を吐きだして、胸を撫で下ろした。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
先に立ち上がったギルベルト殿下は、こちらに手を差し出してくる。もう腰は抜けていないので一人でも立てるとは思うけど、なんとなく断りたくなくて、差し出された手を取って立ち上がる。
首を巡らせると、ゲルトルーデ殿下はまだ結界内で眠っていた。
これから彼女がどうなるのかは、私のあずかり知らないところとなるのだろう。
すべて、終わってしまった。
私はひとつ、息を吐く。それから、握られたままの手に目を落とした。いやこれ、いつまでこのままでいるつもりなんだろう。
ふと視線を感じて、顔を上げる。フィフィアーナ殿下が胡乱げな表情をして、繋がれた手をじっと見つめていた。
私は慌てて手を振り払い、そのままその手で結界内の桶を指差す。
「エルゼ?」
私の動きの意味がわからないのであろうギルベルト殿下は、首を傾げた。
「と、とりあえず」
「うん」
「あの桶に入っている水を、庭に撒いてくれますか?」
「え?」
私の要望を聞いて、彼は眉を顰める。
そうか、これでは訳がわからないだろうと、私は丁寧に補足した。
「あれは、フィフィアーナ殿下のお湯浴みに使ったものです。まだ全部捨てきれていなくて困っているんです。捨てるの、大変なんですよ」
「大変……だろうけど」
「できます?」
「できるけど」
「じゃあお願いします」
すると彼は、自分の顔を片手で覆ってため息をついた。
「エルゼは、僕の魔法をなんだと思っているの……」
「水魔法だと」
「そうじゃなくてね……」
「いや、使いこなせば便利なんじゃないかと思って」
「わかったよ……」
ギルベルト殿下が桶を指差すと、ふっと中の水が消えた。
「おお」
「すぐ外の花壇に撒いたけど」
「大変助かりました。ありがとうございます」
「そう……」
魔法を雑用に使われて屈辱なのか、彼はガックリと肩を落としている。でも使えるものは使うべきだし、役に立つことはいいことだ。
黙って見ていたフィフィアーナ殿下が、呆れたような声音で口を挟んでくる。
「エルゼはやっぱり、人の心を失っているんじゃないの?」
「合理的と言ってください」
フィフィアーナ殿下はそれには返事をせず、兄のほうを振り返った。
「ギルベルトお兄さま、こんな女なのよ?」
「こんな女ってなんですか」
「フィフィ、それもまた話をするから」
「お兄さま、変よ」
「なんの話ですか」
「うるさいわね、エルゼは黙っていなさいよ」
「とにかく部屋を出よう。フィフィはひとまず僕の部屋に一緒に来てね。父上には僕から話をするから」
「はーい」
そんなくだらない会話をしながら、私たちは半地下の部屋を出る。
扉を閉める直前、慣れ親しんだ部屋を見回す。部屋の中はほとんどいつもと同じだが、私の主人たるフィフィアーナ殿下の代わりに、シャルロッテ殿下の姿をしたゲルトルーデ殿下がいる。
だからきっともう私は、この部屋に立ち入ることもなくなるのだろう。
少しばかりの感傷を胸に、私は扉を静かに閉めた。




