29. 彼女の過去
彼が息を呑む気配を感じる。
「……見ていない。病で苦しんであちこち掻き毟ったし、発疹も出ていて酷い状態だからって配慮されて、棺は開けられなかった……」
彼の声はわずかに震えていた。動揺が隠せていない。ここまで、第二王女の生存の可能性を、まったく考えていなかったのだろう。
きっと、知っているからこそ、見えないことがあるのだ。不自然な世界で生きていたら、その世界は自然だと思ってしまうのだ。
『僕たちが重大な見落としをしている可能性もあるからね。第三者の意見は貴重だ』
それは、正しかった。
王家の中で育った彼は、こう思う。病死とされている第二王女は、実は魔力を持っていなかったから殺されたのではないか、と。病気の跡がない身体を見せられないから、あるいは殺された跡が残っているから、理由をつけて棺は開けられなかったのだ、と。
また、母親は不貞を疑われたが、さすがに王女である女性を殺すことはできなかったから国に返されたのでは、と。
イーディオルス王家は、なによりも魔力の有無を重要視しているから。
あの四阿で彼は言っていた。
『中にはいたんじゃないかな、魔力のない王族も。どうなったかは知らないけどね』
おそらく、あのとき彼の頭に思い浮かんでいたのは、ゲルトルーデ殿下のことだったのだろう。
でも第三者である私は思うのだ。それはあまりにも非情ではないか、と。魔力を持たないのなら、生かしていても害などないのではないか、と。そう考える誰かはたくさんいて、きっと逃がしてくれたのではないか、と。
そのとき王家になにが起きたのかはわからない。助けたのは、父親である国王かもしれないし、密命に背いた誰かかもしれない。
私は目の前の、シャルロッテ殿下の姿をした何者かをじっと見つめる。彼女は目を細め、面白そうに笑みを口元に浮かべていた。
これはあくまで可能性だ。入れ替わりの魔法を知っていて、かつ、王女であるシャルロッテ殿下に長い間擬態できそうな人間は誰か。
教会での検査を六歳で受けて、そのとき魔力がないと判断されたとして。だが、年齢を重ねることで魔力が増幅したという、フィフィアーナ殿下の例もあるではないか。
ならば。
「ゲルトルーデ殿下、ですね?」
そう呼びかけると、彼女はまず、小さくフッと笑った。
「まあ、おかしなことを言うわね。ゲルトルーデはとうの昔に死んだわ。わたくしはシャルロッテよ。見ればわかるでしょう。あなたとは、舞踏会でも会ったわね」
「たぶん、本物のシャルロッテ殿下なら、そこは『リヒャルトお兄さまの誕生祝賀会』と言うと思います」
兄が大好きだというシャルロッテ殿下なら、大事なのはそこのはずだ。
舞踏会では、いつもリヒャルト殿下の隣を陣取るという彼女が、離れたところにいた。あれもまた、中身が入れ替わっていたことの証左だったのだろう。
「あら」
慌てた様子もなく口元を指先で塞いで、いたずらを見つかった子どものような表情をしている。そして頬に手を当てると、ほう、と物憂げに吐息を漏らした。
「がんばって言動を注意深く見ていたつもりだけれど、やっぱり難しいわね。子どもの頃とは変わっているし」
「シャルロッテ姉上が、ゲルトルーデ……?」
呆然とつぶやかれたギルベルト殿下の言葉に、目の前の女性はクスッと笑う。
「ギルベルト、わたくしのことは呼び捨てなのね? 酷い子」
そう呼びかけられた彼は、言葉を失っている。
あっさりと認めてきた。多勢に無勢の状況でもここまでの余裕を見せているのは、それでも自分のほうが有利だと確信しているのだ。
入れ替わりの魔法を使えるほどの魔力量を持っているから。
いざとなれば、この場にいる全員を葬ることもできると考えているから。
シャルロッテ殿下、いやゲルトルーデ殿下は、小首を傾げて続ける。
「困ったわねえ。ギルベルト、あなたは残しておいてあげてもいいと思っていたのだけれど、こうなると消すほうがいいかしら」
その発言に、ギルベルト殿下は拳をぎゅっと握って眉根を寄せた。
背後に控えている衛兵たちにも動揺が広がっているのがわかる。この訳のわからない状況をどう乗り切るつもりなのかと、縋るような目をギルベルト殿下に向けていた。
彼はひとつ深呼吸をすると、口を開く。
「フィフィを消すつもりなんですか」
「ええ」
迷いが見えない返事が返ってきた。
「どうして」
「だって邪魔なんですもの」
謳うように。
「王家がやってくれるかと思ったのに、幽閉どまりなのよ。がっかりだわ。さすがに『殺すべき』だと憚られるから、『幽閉するべき』って言って回ったけれど、本当にその通りにするなんて。仕方がないから自分ですることにしたの。でもやっぱり目立ってしまったわね。だから嫌だったのに」
花壇の花が咲き誇るのを邪魔する雑草を駆除したい、とでも考えているような口調だった。
「いったいいつから、入れ替わっていたんです」
「いつだったかしら。一年よりは前だけど」
焦る気配もなくのんびりと答えている。ギルベルト殿下はおそらく、ゲルトルーデ殿下をフィフィアーナ殿下の部屋に入れまいと、話を引き延ばして機を窺っているのに、彼女はそんなことは無駄だとでも考えているのか、まったく意に介していない様子だった。
「そうね、せっかくだから聞いてもらいましょうか。恨み言を吐き出す機会ももうないでしょうし。わたくしだって、溜まっているのよ」
楽しくてたまらない、とその表情が語っている。
「ええ、ぜひ聞かせてください」
ギルベルト殿下の硬い声に、ゲルトルーデ殿下の弾むような声が答える。
「じゃあ聞いてもらいましょう。魔力がないからと、わたくしが捨てられたのはわかるわよね」
「……そのようですね」
「表向きは死んだということになったようだけど、わたくし、あの教会での魔力検査のあとしばらくして、そっと城から出されたの。みすぼらしい荷馬車に乗せられて、簡素な服に着替えさせられて、それで隠れていろって。お父さまの従者だったように思うわ」
「では父上もご存じなんですか」
「さあ、それは知らないわ。今となっては興味もない」
心から興味がなさそうな顔だった。気分よく喋っているのに、余計な口を挟むなとでも思っているふうだった。
ゲルトルーデ殿下は命を奪われたわけではなかった。ただ王城を出されただけだった。
そして今、この場所に、シャルロッテ殿下の姿をして立っている。
「何日も何日も旅をして。その間にいろいろ説明されたけれど、訳がわからなかったわ。そしてようやく辺境の養護院にたどり着いた。すると言われたの。名前を変えて生きろって。そんなの急に言われても困るわよね」
そしてふてくされたように口を尖らせる。もちろん、それまで王女として傅かれていた六歳の女の子が、突然の追放を受け入れられるはずもないだろう。
「でもそのあと、強大な魔力が開花したの。七歳のときのことよ。養護院が火の不始末で火事になったの。早く逃げろって、皆、大騒ぎで。誰もがうろたえるばかりで。だからわたくしは、助けてって祈ったの。するとね」
ゲルトルーデ殿下の声が熱を帯びる。瞳がキラキラと輝く。
「雨が降ったの、養護院の周りだけに! そして鎮火したのよ!」
両腕を広げ、天井を見上げている。彼女の目には、そのときの光景が映っているのだろうか。
いつかギルベルト殿下に訊いた。雨を降らすことはできるかと。そこまでは無理だと彼は答えた。入れ替わりの魔法と同様、もちろん雨を降らすにも強大な魔力が必要に決まっている。
「皆、神さまの思し召しだって喜んでいたわ。でもわたくしだけは、もしや、わたくしの魔法じゃないかって思った。だってわたくしも王族の一員なのだもの。それから隠れていろんなことを試したの。大変だったのよ? 六歳の頃までに学ぶ魔術は基礎的なものばかりだったから、試行錯誤の繰り返しだったわ。でもそのおかげで水魔法でも火魔法でも風魔法でも雷魔法でも、なんでも扱えるようになった。皆、せいぜい一種類しか扱えないのにね。どう? 素晴らしい力だと思わなくて?」
ギルベルト殿下のほうを振り向き、にっこりと笑う。彼はその問いかけを否定することなく、頷いた。




