2. 鏡の中の私
魔道具である銀製のブレスレットを身に着け、私は毎日、その半地下の部屋に通った。
牢屋のようだと感じたその部屋は、王女が住まうところとしては物足りないかもしれない。しかし私に与えられた私室よりも立派な部屋だった。
大きなベッド、そのベッドの脇にはサイドテーブル。壁に掛けられた振り子時計、大きな鏡。誰も訪ねてこないはずなのに、ソファセットまである。私が住みたいくらいだ。
そして仕事自体は、大したものではなかった。彼女に三度の食事を運び、身体の清拭を行い、お召し変えを手伝って、髪を梳かして身なりを整え、部屋を綺麗に掃除する。それくらいだ。
意外なことに、会話をするなと言い含められているのは幸いだった。相手をしなくてもいいのだから、楽なものだ。
挨拶くらいはしてもいいが王女の発言に返事をするな、という厳命には首を捻るしかないが、だからといってあの場で、「なぜですか」と訊き返せるわけもなかった。王城の侍女を取りまとめる侍女頭。つまりシュルツさんの言葉は王族の意向と考えていい。私はひたすら、「かしこまりました」と返すしかできなかったのだ。
推測することはある。きっと、極悪非道な性格の王女と言葉を交わして、取り込まれることを恐れているのだろう。洗脳されるとでも心配しているのかもしれない。
しかし王女は、その見た目からして、まったく害があるようには見えなかった。
私がゆっくりとその柔らかな御髪を梳いていると、すこし首をこちらに回して、おどおどと小さな声で話しかけてくる。
「ね、ねえ……。おしゃべりしましょう?」
上目遣いで、媚びるような声を発する。
今までもこうして、何人もの使用人に話しかけてきたのだろう。そして誰も返事をしなかったのだろう。もちろん私もそうしている。それは仕事のうちだ。何度かそうして話しかけられたが、私は頑として口を開かなかった。
だが、きゅっと口元を引き結んでいないと、うっかり返事をしてしまいそうになる。
何度もお世話をしているうち、疑念が湧いてきたからだ。
悪いのは、閉じ込められている王女か。それとも、閉じ込めた何者かか。
表向きは、王女が悪いことになっている。極悪非道な性格だからと。
でも、言葉を交わさずとも何度も接していると、侍女頭から言われたことが真実なのかどうか、わからなくなってくる。
そもそも、極悪非道だと聞かされていても、王女がなにか悪事を働いたのを見たわけでもない。具体的な悪事も、知らされていない。
つまり、罪もない王女が、なんらかの陰謀に巻き込まれて、監禁されている可能性があるのだ。
何度も話しかけているうち諦めたのか、黙々と作業をする私を見つめるだけになった王女は、ベッドの上に座り込んで、俯いていることが多かった。
「お母さま……」
そして王女は、置かれていたうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、肩を震わせて鼻をすするのだ。
そのたびに、ものすごい罪悪感が私を襲ってくるようになった。
私が閉じ込めたわけでも、結界を張ったわけでも、もちろんいじめたわけでもないのに。
だが彼女は、五年前に亡くなった側室であった母親はもちろん、国王である父に会うこともなく、誰とも言葉を交わさず、小さくなって震えるしかできないのだ。そして私は薄情にも、声をかけることもなく眺めるだけなのだ。
ふと、少しくらいいいのではないか、とそんな気になった。もし言われたとおりに極悪非道だったとしても、十一歳なら矯正も可能かもしれない。心を尽くせば、きっと返してくれる。
だって罪もない少女なのだとしたら、あまりにも可哀想だ。
私は部屋の外を守っている衛兵たちが、結界の強固さに甘えて仕事をサボりがちなのを知っている。そして今日は、最たる不真面目な兵が、欠伸をしながら扉から離れたところで座りこんでいたことも。
ごくりと唾を飲み込む。大丈夫、バレやしない。少しくらい、大丈夫。仮に本当に極悪非道であったとしても、私がしっかり気を持てばいいだけの話。
「あ、あの、殿下……」
念のため距離を取りつつ、おずおずと話しかけると、王女はパッと嬉しそうに華やぐ顔を上げた。その瞳はわずかに潤んでいるように見えた。
「今、わたくしに話しかけてくれたの?」
「は、はい。失礼ながら」
「そう、ありがとう」
王女はニヤリと片方の口の端を上げ、落ち着いた声でそう礼を述べた。
えっ、と身を引いた瞬間に、私の視界は奪われる。一瞬のうちに完全な白があたりを覆い尽くし、あまりの眩しさに反射的に目を閉じた。
「なっ」
今、なにが起こったのか。訳がわからない。私の思考はまったく追いついていない。
それでも瞼の外側の白が去ったことがわかると、慌てて目を開ける。
「え……」
驚くべきことに、目の前にいるはずの王女は、そこにいなかった。
代わりに背筋を伸ばしてベッドの脇に立っていたのは、間違いなく、栗色の髪と瞳を持つ、私自身だった。
「え?」
これはいったい、なんなのか。もしかすると、大きな鏡がそこにあるのか。だが私の姿は私の動きとは連動せずに、自分の姿を見下ろしている。
「は?」
呆けた声が自分の口から出てくる。視界はなぜか、いつもよりも低い。
唖然とする私には構わず、私の姿をしている何者かは口元に弧を描くと、満足そうな声を出した。
「よし、成功ね」
なにが?
ふと、壁に掛けられた鏡が視界に入った。こわごわとそちらを振り向く。
驚愕の表情を浮かべて鏡に映っているのは、姿を消したフィフィアーナ殿下だった。
頬に手を当てると、鏡の中の王女も頬に手を当てた。
「な……なに……これ」
状況を鑑みるに、鏡に映るフィフィアーナ殿下の中身は私で、そこにいる私の中身は……フィフィアーナ殿下、ということでいいのだろう。
信じられないが、信じるしかない。
私と王女の中身は、入れ替わったのだ。




