18. エルゼの過去
「行こうか」
「えっ」
ギルベルト殿下はふいに私の手を取り、広間の中ほどに向かって歩き始める。
「ちょっ、ちょっと」
「兄上のファーストダンスは終わったみたいだから。皆、踊り始めるよ。僕たちも踊ろう」
「えっ、踊るんですか?」
私の問いかけに、殿下は小さく首を傾げる。
「舞踏会で踊らないなんて、不自然極まりないよ」
「そう、かも……しれませんが」
とはいえ、もうずいぶん前から踊っていない。年単位だ。私も貴族令嬢の端くれ。習ってはいる。踊ったこともある。でも、たぶん上手くはない。
わざわざ恥を搔くのもどうなんだろう。それでなくとも、醜聞の登場人物と認識されているのに。
「むしろ、ファーストダンスが終わったあとの次の曲が、一番踊る人が多い。今のうちに踊っておいたほうが、あとが楽になる」
「なるほど」
確かに、参加する人が多い今のうちに踊っておいたほうが、あまり見られずに済むのかもしれない。
私は腹を括ると、差し出された手に自分の手を乗せた。
王子さまと踊る機会など、もう二度とないだろう。楽園への土産と思って踊っておこう。これも、『もういいかな』の精神である。
私は左手を殿下の肩に乗せる。殿下の右手が私の背中に回る。その手にぐっと力が入ったのを合図にして、曲に合わせて一歩を踏み出した。
それからは、流れるように踊れた。ダンスは得意ではない私が、一生で一番上手く踊れている気がする。
上手い。ギルベルト殿下のリードは、ただ身を委ねればいいだけのように思えた。さすがは王子さま。身体に叩き込まれているのだろう。
「なんだ、踊れるじゃないか」
「ギルベルト殿下がお上手なんですよ。お世辞ではなく」
楽しい。思うように踊れている。周りのことが気にならない。きっと殿下が周りに気を配って、ぶつからないように誘導してくれているのだ。
「エルゼも十分、上手いと思うよ」
「殿下のおかげで、自然と足運びを思い出してきたんです」
「思い出してきたって……忘れるほど踊ってなかったの? 最後に踊ったのはいつ?」
しかし現実に引き戻される質問をされて、少しだけ肩が落ちた。
「いつだったでしょうか」
もう何年も前の話だ。パートナーはオスカーだった。それは覚えている。というか、それ以外に、いるはずがない。
かつての私の婚約者。
「もしかして今、他の男のことを考えている?」
その言葉に顔を上げる。ギルベルト殿下は、わざとらしく口を尖らせていた。やっぱりフィフィアーナ殿下によく似ている。
「変に誤解を招くような発言をしないでください」
苦笑とともにそう返事すると、彼はわずかに眉根を寄せた。
「僕と踊っているときに、他の男の顔を思い出されたら、それは面白くないよ」
「そういうものですか?」
「そういうものだよ」
そのあとしばらく会話が止まり、ただ音楽を聴いて身体を動かすだけになってしまう。気まずい。
だからか、ぼそぼそと言い訳を始めてしまった。黙っていればいいのに口を開いてしまったのは、夢のような状況に酔ってしまっているのかもしれない。
「……別に、懐かしく思ったとか、まだ未練があるとか、そういうのではないです。当然ですが」
「当然なんだ」
「ご存じなんでしょう?」
「起きたことは知っていても、エルゼの心の動きまではわかるはずがないよ」
「たぶん、ありふれた心の動きです」
オスカーは私の婚約者だった人。そして今は、妹ラウラの夫である人。
資金繰りが上手くいかず、没落寸前だった我がボルク男爵家は、平民だが豊かであった商家の息子、オスカーに私を差し出して資金援助を受けることにした。男爵という貴族の外戚となることを望んだ彼の実家も、それを喜んで受け入れた。ものの見事な政略結婚だ。
「最初は、大切にしてもらえていたと思います」
「そうは思えないけど」
「そう見えるように振る舞っていたんでしょうね」
政略による婚約とはいえ、オスカーは優しかった。ときどき街に連れていってくれたり、贈り物をくれたりした。私も刺繍を入れたハンカチを送ったりした。
彼となら、きっと穏やかな家庭が築けるのだろう、と信じて疑わなかった。
今思えば、なんて滑稽なんだろう。
今、彼の隣にいるのは、ふたつ違いの私の妹だ。ラウラは私と違い、華やかな容姿を持つ娘だった。性格も外見通り明るく、よく笑う子だった。
そんな彼女に惹かれるのは、必然だったかもしれない。男ならば、地味な私などより、ラウラのほうが魅力的に映るのだろう。
だが当時の私は、そんな簡単なことにも気付けなかった。
「だからまったくわからなかったし、覚悟もなかったんです」
ある日、オスカーが屋敷にやってきたと聞いた私は、いそいそと客間に向かった。
そこには、オスカーとその両親、そして私の両親、それからラウラが神妙な表情をして集まっていた。
なにかよくないことが起きている、とそれだけは確信できたが、訳がわからなかった。私は促されるままソファに座り、彼らの話を聞くしかできなかった。
結婚相手の変更を考えている、と彼の両親は言った。
オスカーの結婚相手をラウラにしたい、と私の両親は言った。
なぜ、と問う間もなく、どんどんと耳に入ってくる、聞きたくもない情報。
私の知らぬ間に、彼らは親睦を深め、男女の関係になっていた。そしてラウラのお腹には、彼の子どもが宿っているのだ、と。
「二人の関係にどうして気付かなかったのか、と今は不思議に思います」
「それだけ信用していたんだろう」
ギルベルト殿下の返答に、ああそうか、と合点がいった。
もう二度とあんな思いを味わいたくなくて、今の私は必要以上に疑り深くなっているのだ。最初から信用しなければ、裏切られたとは感じない。
あのときの私は、耳を塞ぐこともできなかった。
今まで優しかった人たちが、酷い言葉を浴びせるなんてことはないだろうと、まだ信じたかったのだろうか。
そんなこと、あるはずがないのに。
子どもがお腹の中にいるのだから、簡単に別れられるはずはない。ならば、二人を結婚させるべきだ。
元々、政略による婚約だった。相手は姉でなくても妹でいい。結婚相手をすげ替えれば、なにも問題はない。
エルゼさえ我慢すれば、すべて丸く収まる。いや、そもそも恋愛結婚ではなく、契約だった。我慢の必要すらないのかもしれない。
愛情など、お互い、持ち合わせていなかったのではないか?
オスカーはラウラの肩を抱いて、こちらを見つめていた。なにか悪いものから、身を挺して彼女を守るように。
その場に私の味方は一人もいなかった。申し訳ない、と謝意を呈してはくるが、私には恫喝にしか感じられなかった。
「確かに、私たちは義務で一緒にいたようなものですし」
「だからといって、ないがしろにしてもいいってものじゃない」
ギルベルト殿下の声に、怒気が混じった。
ああ、今になって、私の味方が現れるなんて。
「他人の心は、どうしようもないものですから」
私はそれを受け入れた。受け入れざるを得なかった。泣いて喚いたところで、なにも変わりはしないからだ。
そうして愛し合う二人は結婚した。それで一件落着のはずだった。
ところがだ。世間はそうすんなりとは彼らの仲を認めなかった。
婚約者がありながら、その妹と浮気し、あまつさえ子を成した男。不誠実な男。そんな息子のいる商家は、信頼に値しない。それが世間が下した評価だった。
いいや、その世間だって、実は面白がっていたのではないだろうか。悪人に制裁を下す正しい自分に酔っていたのではないか。
没落寸前の男爵家に、廃業も見えてきた商家。このままでは共倒れだ。
『もう許してちょうだい』
これが、母親に泣きながら言われた言葉だ。
私が仕掛けたわけではない。私はなにもしていない。私が許そうと許すまいと、もう関係がないのだ。私の手を離れたものを、私がどうにかできるわけがない。
婚約者に、妹に、そして両親にさえも裏切られた、と思った。せめて両親が私の味方でいてくれたなら、こんなに捻くれることもなかったのではないかと思う。
私は家を出て、侍女として働くことにした。幸い、渦中の人物である私を雇ってくれるところはあった。むしろ話題作りに事欠かない私という存在は、喜ばれていた気がする。
ただ、面と向かって言われたことはないが、『仕方ない』と思われていた節もあった。『こんな地味な女より、華やかな妹に惹かれるのは仕方ない』、と皆の表情が語っていた。
その通り、すべてにおいて地味だった私は、いつの間にか忘れられていった。
生き方を様変わりさせられた、という意味では、私は被害者だったかもしれない。それでも私は、彼らの破滅を見たいわけではなかった。ただただ無関係になりたかったのだ。
とにかく早く、私の人生から消えて欲しかった。
だがどうしても、罪悪感が付きまとう。もし私がオスカーに愛される女だったなら、誰も不幸にはならなかったはずなのに。
だから、実家への仕送りがやめられない。両親もそのわずかな、焼け石に水でしかない仕送りを喜んだ。だから、罪滅ぼしとして送り続けている。
『すべて、自分のために使うこと』
私が報酬を貰うとなったときに、ギルベルト殿下から出された条件だ。
もしかして、私が実家に囚われていることをわかっていたのだろうか。だから、貰ったお金は自分のために使うように条件を出したのだろうか。
だとすれば、ギルベルト殿下は少なくとも、私を憐れんでくれたのかもしれない。
「今は、私の実家も、妹の嫁ぎ先も、けっこう持ち直したようです」
「そのようだね」
「母となった人間は強いですね。妹もがんばっているみたいで」
「人を傷つけて横取りしてまで手に入れた場所だ。がんばるのは当たり前のことだよ」
だから、褒める必要はない、と言いたいのかもしれない。
「私、あまり、ここまで踏み込んで人に話したことはないんです」
だって、誰も彼も私から話す前に、いろんなことを知っていた。私が口を開く必要などなかった。
「だからこうして話せて、すこしスッキリした気がします。ありがとうございます」
「それならよかった」
私のお礼の言葉に、ギルベルト殿下は微笑みを返してくれた。
きっと今、私は、救われたのだ。




