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青天の霹靂  作者: 水月
高校生編
8/8

禍福は糾える縄の如し 4

 その公園は、陸橋から続く歩道と、その下を走る車道との中間ぐらいの高さに位置していた。陸橋が整備された時に作られた、比較的新しい公園だ。多様な遊具と芝生広場、ベンチなどが配置されているとあって、子供からお年寄りまで、幅広い年齢層の憩いの場になっている。

 歩道からかなり低いところに位置しているその公園を、あゆみはじっと見下ろした。その位置からはちょうどブランコのある場所が見渡せるのだ。橋の上から見かけた人物は、まだぽつんとブランコに座り込んでいた。足の上に両肘をつき、がっくりとうなだれている。

 後ろ姿しか見えなかったが、それが要だということははっきりわかった。

 そんなに打ちひしがれた様子の男性の前に出ていっていいものかどうか、正直迷ってしまった。しかも、要の背中には他人(ひと)を寄せつけない頑なさがまだ残っていたのだ。

 高揚していたあゆみの気持ちがしぼみ始める。ぐずぐずと思いつめた表情で要の姿を見つめたあと、あゆみはふっとため息をついた。

 冷たい態度を取り続ける私に、伊崎さんは何度も手を差し伸べてくれた。今度は私の番だわ。

 そう決意して、あゆみは足を踏み出した。

 と同時に、気配を感じた要もまた振り向いていた。

 期せずして見つめ合う格好になり、二人は目を見開いた。

 あゆみは足を止め、要はゆっくりと上半身を起こす。まるで時間が止まってしまったかのように、周りの音が何も聞こえなくなった。

 最初に行動を起こしたのは、要だった。

 ブランコから立ちあがり、一、二歩歩み寄って道路の上に立ち尽くしているあゆみを見上げる。

 彼の顔には微笑みが浮かんでいた。だが、その微笑みはどこかほろ苦い印象をあゆみに与えた。

「どうしたの、こんな時間に。どこに行くの?」

 いつも通りの、穏やかな要だ。あゆみは唇をぎゅっと噛んでから、思い切って歩き出した。

「あゆみちゃん」

 慌てたように要が呼びかける。このまま歩き去ってしまうとでも思ったのだろう。だが、あゆみが公園に通じる階段に向かっていることに気付くと、驚いたように口を閉じた。

 黙ったまま、じっと凝視してくる要から視線を逸らさないようにしながら、あゆみは歩き続けた。頬にかっと血が上り、心臓が普段よりはるかに忙しく脈打ってはいるが、なんとかまともに歩くことができた。

 階段を下り、要から二メートルほど離れた場所で、あゆみは足を止めた。

 要は何も言わず、不思議そうな表情であゆみを見つめている。あゆみはすうっと大きく息を吸いこんだ。

「あの」

「はい」

 勇気をふりしぼって第一声を発したのに、間髪をいれず要に返事をされて気勢をそがれてしまう。あゆみはがっくりと肩を落とし、吸いこんだ大量の空気をそのまま吐き出してしまった。

 だが、今回ばかりは要も助け舟を出す気はないらしい。黙ったまま、ただじっとあゆみの次の言葉を待っている。

 あゆみはもう一度、ひたと要の瞳を見据えた。

「聞きたいことがあるんです」

「うん」

 要がやさしく微笑みながら返事をしてくれたので、多少なりとも気が軽くなる。あゆみはごくりと唾を飲み込んだ。

「あの、正直に答えてくださいね。ふざけたり、ごまかしたりしないで」

「うん、わかった」

「以前……その、私のことを好きだっておっしゃいましたよね」

「うん。そう言ったね」

「あれは、その、つまり……つまり、本気、でしたか?」

 すると、要は心外だとでも言うように眉を上げた。

「どうして過去形なの? 今でも気持ちは変わってないのに。あゆみちゃんが好きだ。以前告白した時も、本気だってしつこいくらい言ったよね」

 それを聞いて、あゆみは真っ赤になった。

「そう、そうでしたね。でも……私は本気にしませんでした」

「うん。知ってる」

 そう答えてから、要は考え込むように続けた。

「なぜ本気にしてくれなかったのか、今なら理由を教えてもらえるかな」

 あゆみはちょっと眉をひそめてから、観念したように頷いた。

「私、男の人から告白されるなんてことは絶対にないと思いこんでいたんです。外見も性格も地味で目立たないから」

 言葉を切って、要から目をそらす。

「でも、それは言い訳でした。本当の理由は、伊崎さんがあまりにもカッコよすぎるから」

 ちょっと唇を噛む。

「だから……本気なわけないって。からかわれてるに決まってるって。そうとしか思えなかった。あの頃は伊崎さんの性格も何もわかってなかったし」

「じゃあ、今は理解してくれてるんだ?」

 要が急に口を挟んだので、あゆみは驚いて数回瞬きした。

「ええ……はい。あの時よりは」

「ふうん」

 居心地が悪そうに身動きするあゆみを、要はなんだか楽しそうに見つめている。あゆみは嫌そうに顔をしかめた。

 この人、私がなんでここにいるのかもう理解してるはずなのに。私がしどろもどろになってるのを面白がってるんだわ。

「それで?」

 今では満面に笑みをたたえた要が、嬉しそうに問いかけてくる。あゆみは毛虫でも見るかのような目つきで要を見た。

「それで、って?」

「ここまで追いかけてきてくれたってことは、俺のことを少しぐらいは好きになってくれてるってことだよね」

 そう言ってから、追い討ちをかけるように訊く。

「追いかけてきてくれたんだろ?」

 さっきまでの殊勝な気持ちは何処へやら、あゆみはむっつりとしたまま頷いた。心の中に湧きおこる怒りを必死で抑えながら。

「じゃあ、そう言ってくれよ」

「え?」

 忌々しげに、短く言葉を吐き出すあゆみを、要はこれ以上ないというほど満足げに眺めた。その余裕綽々といった態度がまたカンに触る。

「俺のことが好きだって、言いに来てくれたんだろ?」

 その言葉で、あゆみの怒りが頂点に達した。

 あゆみは両手をぐっと握り締め、歯を食いしばりながら答えた。

「おあいにくさま。私はただ、伊崎さんが傷ついてるようだったから気になっただけです」

 一語一語をはっきりと、区切るように言う。あゆみは怒りで顔を真っ赤にしたまま、くるりと踵を返した。

 やっぱりこんな人、嫌いだ。人をおちょくっ……て……。

 数歩も行かないうちに後ろから抱きすくめられて、びっくりする。あゆみは要の力強い腕の中で体を強張らせた。

「行くなよ」

 耳元で要が囁く。あゆみはうつむいて唇を尖らせた。

「……伊崎さんが悪いんでしょ。すぐにふざけて」

「ごめん。謝るから。もう少し、こうしていて」

 ゆっくりと、あゆみの体から力が抜けていく。要は安心したようにあゆみの肩口に顔を埋めた。

「もしかしてきみから告白してもらえるかと思ったんだ。そしたら嬉しくて、笑いを抑えることができなかった。……それでも怒る?」

 切なげな囁きが、温かい吐息と共にあゆみの皮膚を震わせる。あゆみは目を伏せて、小さくかぶりを振った。

「小学生みたいだよね」

 自嘲気味につぶやく要の言葉に、あゆみは思わず頷いてしまった。一瞬の沈黙のあと、要が肩を震わせ始める。笑いをこらえているのだと、すぐにわかった。

「……あゆみちゃんのそういうとこ、すごく好き」

 笑いをにじませた声で、要がそんなことを言う。あゆみはまた真っ赤になった。

「本当だよ。今まで、こんなに好きになった娘はいなかった。あゆみちゃんだけだ」

「も、もうわかりました! わかりましたから!」

 切々と訴える要の告白を遮るように、あゆみは叫んだ。要の腕の中から逃れようともがいたが、放してくれない。あゆみを抱く腕に力がこもっただけだ。あゆみは深いため息をついた。

「あの……放していただきたいんですが」

「やだ」

「いや、だから、大の男が『やだ』って……」

「いやなものはいやだ」

「……逃げませんから」

「いや、絶対に逃げる。いつも、ちょっと雰囲気が良くなったな、と思った次の瞬間には逃げてるんだ。さっきも逃げかけただろ。今度は逃がさない」

 それにはあゆみも反論できなかった。あまりにも思い当たることが多すぎて、言葉に詰まってしまったのだ。要はそんなあゆみの顔を、得意そうにのぞきこんだ。

「ほーら、図星だ」

「も、もう逃げませんったら!」

「信用できないな」

 あゆみはむうっと唇を尖らせた。

「じゃ、いいです。信用してくれなくて」

 その尖った口調が気になったのだろう、要はちょっと不安そうに頭を引いた。じっと見つめる彼の視線を避けるように、ぷいとそっぽを向く。そんなあゆみの様子を、要は苦々しげに見守った。

「くそっ。惚れた弱みだ」

 口惜しそうにそんなことをつぶやいてから、要は渋々あゆみを解放した。締めつけられていた腕が自由になる。あゆみは素早く要から数歩離れた。

「逃げるな!」

 背後から飛んでくる声に対抗するように、あゆみはそこでくるりと振り向いた。

「逃げてない!」

 侮辱されたように感じて、あゆみは要を睨みつけた。要も同じような目で睨み返してくる。二人はそのまましばらく睨み合っていた。

 突然、ふっと要の目つきが和らいだ。あゆみはそのことに拍子抜けしたように、肩から力を抜いた。

「もうちょっとこっちに来て」

 手招きしながら要が言う。あゆみはちょっと考えてから一歩近付いた。

「もっと」

 と言われて、更に一歩。

「まだまだ」

 ……でもこれ以上は近すぎるんじゃ?

 考えが顔に出たのか、要はあゆみを見つめたまま苦笑した。

「頼むよ、あと一歩だけ」

 しばらく考えこんだあと、あゆみは小さく一歩踏み出した。それで要との距離はもう一メートルもない。手を伸ばせば届く距離だ。

 要はまだ不満そうだったが、とりあえずそれでよしとしたらしい。諦めたようなため息をついて、苦笑いを浮かべた。

 なんとなく話の糸口が掴めなくて、二人して黙りこんでしまう。あゆみは苦手な方向に話が進まないように、必死で話題を探し始めた。

「あの」

 と、二人同時に話しだす。あまりにもタイミングがぴったりと合ってしまったので、あゆみは口をつぐんだ。なんとなく、気後れしてしまったのだ。

 要がかすかに微笑んで、何? と訊いてきた。しばらくためらったあと、あゆみは思いきって口を開いた。

「あの……モデル、なさってるんですか」

 何を想像していたにしろ、その言葉は要の予想をかなり裏切っていたらしい。呆気に取られたような彼の表情を見て、あゆみはそのことを悟った。

 だが、要の立ち直りは早かった。胸の前で腕など組んで、余裕の笑みを浮かべている。

「うん、アルバイトでちょっとね」

「雑誌……なんかにも載ってるって聞きましたけど」

「そうだね。あゆみちゃんはそういうのに興味がなさそうだから、別にわざわざ言うこともないと思って」

「あ、はい。興味ないです」

 ぷっと噴き出してから、要は急いで真面目な表情を取り繕った。

「うん、そうだよね」

 今にも笑い出しそうにひくひくしている要の唇を見ながら、あゆみは内心首を傾げていた。

 この人の笑いのツボが、私にはどうしても理解できない。なんでファッション関係に興味がないことが可笑しいの?

 でも、私が知らないだけで写真集でも出してるんじゃないかと疑ってたのはある程度当たってたんだ。だって、雑誌に載ってるくらいだもの。しかも、親衛隊までいるし……。

 あれ? 彼女達、本人公認って言ってなかったっけ? てことはファンクラブぐらいあったりして。じ、実は写真集も出てたりして……。

「写真集、あるんですか」

 思い立ったらいてもたってもいられなくなって、あゆみは唐突にそんな質問をぶつけた。

 要はちょっと考えこむように眉をひそめた。

「誰の?」

「あ、伊崎さんの……」

「俺?」

 びっくりしたような要に、こくこく頷きかける。

 返事を待っているあゆみの表情を見て、要はまた噴き出しそうになった。まるでおこぼれにあずかるのを期待している子犬のような目つきなのだ。そのことに本人が気付いていないらしいということが、更に笑いを誘う。要は大笑いしたいのをこらえるのに、大変な労力を要した。

「いや、残念ながら出てない」

 実は話はあったけど、とは言わないでおく。そんなことを言ったが最後、あゆみはまた妄想を膨らませて、要の想像もつかないような反応を返してくるに違いないのだ。それを見てみたいような気もしたが、今は要の人生を左右する重要な局面だ。あゆみの気を逸らしてしまうような話題は避けた方が無難だろう。

 写真集が出ていないと聞いて、あゆみはがっかりした。自分の推理がはずれていたからだ。

 だが、要がいつも気前が良すぎるほど奢ってくれる理由がこれでわかったというものだ。相場がどれくらいかは知らないが、アルバイトとはいえ仮にもモデルをしているのなら、さぞかし稼いでいることだろう。普段身につけているアクセサリーも何気に高級品だし、今着ているTシャツ一枚を取ってもまた然りだ。

「あゆみちゃん……今はそんな話をしてるんじゃないでしょ」

 黙りこんだままあれこれ考えこんでいるあゆみに釘をさすように、要が口を挟んだ。あゆみははっと我に返り、申し訳なさそうに要を見た。

「は、そうでした……」

「まったく。ちょっとは真面目に俺の話を聞いてくれよ」

「はい。聞きます」

 生真面目に頷くあゆみを、要は困ったように見つめた。

「いや、だから……その、あれだ。つまり……俺の気持ちは、もうわかってくれたんだよね?」

 真剣な表情でそんなことを訊かれて、あゆみはぽっと頬を染めた。

「あ、ハイ……」

「で、きみも少しは俺のことを好きになってくれてる……と思っていいのかな」

「えーと、……だと思いますが」

「だと思う?」

 穏やか過ぎる要の声に、一瞬びくっとしてしまう。あゆみは恐る恐る顔を上げて、要の顔に怒りの色がないかどうか確かめた。

 だが、そこにあったのは声と同じように穏やかな表情だけ。あゆみはほっとして体から力を抜いた。

「あの……正直に言います」

「うん」

「伊崎さんのこと、嫌い……じゃないです。時々はもう会いたくないって思うくらい腹が立ちますけど。でも、それは本気じゃなくて……」

「じゃあ、ランク六からは脱出できたの、俺?」

 ランク付けの話を持ち出されて、あゆみはいやーな顔になった。しまった、と思ったがもう遅い。要はあゆみが怒って帰ってしまうのではないかと身構えた。

 だが、あゆみはその場に踏みとどまって、むかっ腹を立てちゃダメ、と自分を戒めている最中だった。ついさっき、もう逃げないと宣言したのだ。捨て台詞を残して立ち去るわけにはいかない。

 完全に落ちついたと確信してから、あゆみは口を開いた。

「……ノーコメントです。伊崎さんは……簡単にランク付けできない人っていうか。どこまでが本気で、どこからが冗談かがわからないんですよ。そうよ、だから腹が立つんだわ」

 言いながらだんだん本気で腹を立てていく様子のあゆみを、要ははらはらしながら見守った。

「わ、わかったわかった。悪かったよ。話を元に戻そう。ね?」

 あゆみは大きく息を吸って気持ちを落ちつけた。

「えーと、どこまで話したっけ……?」

「腹が立つけど、本気じゃないってところ」

「あ、そうでした。えーとつまり……。あれっ? ……もう、もうっ、何を話すつもりだったのかわからなくなっちゃったじゃないですか!」

 突然怒りを爆発させたあゆみに、要は度肝を抜かれた。が、彼女の今にも泣き出しそうな表情を見て、罪悪感にかられる。

 要は自分から一歩近付いて、あゆみとの距離を縮めた。それでも逃げ出す様子がないあゆみを、そっと、慎重に胸の中に抱き寄せる。

 あゆみはされるままになっていた。そのことにとてつもなく安心して、要は大きなため息をついた。

「ごめん。もういいよ。泣かないで」

「泣いてない!」

「うん。わかった。泣いてない」

「子供を相手にするみたいに調子を合わせないで!」

 じゃあどうしろというんだ。

 要は言葉に詰まって黙りこんだ。

 だが、そのことがかえって良かったらしい。腕の中で体を強張らせていたあゆみがリラックスするのがわかった。

 なるほど、黙ってれば良かったのか。あゆみちゃんは考えながら話すタイプだから、思考を遮られるのが嫌いなんだな。

 そうとわかれば、あとは簡単だった。

 もともと要はおしゃべりな方ではない。ただ、自分に輪をかけて無口なあゆみに、なんとか話をさせようと躍起になっているだけだ。黙れと言われれば、いつまででも黙っていられるだろう。

 要は無言のまま、あゆみの背中をなだめるように撫でた。ただひたすら、撫でた。

 そうしているうちに、要自身もリラックスしてくる。と共に、腕の中の存在に対する愛おしさが、胸の中でどんどん膨らんでいった。

 たまらなくなって、要はそっとあゆみの無事な方の頬に手を当てた。あゆみは何度か瞬きしたが、要の手を振り払おうとはしない。そのことに勇気付けられて、要はゆっくりと頭を下げた。

 ふわりと唇を触れ合わせる。あゆみのそれは、かすかに震えていた。要は目のやり場に困っているあゆみの表情をつぶさに観察しながら、やさしく彼女の唇を探った。

「……ん」

 あゆみが困ったような声を発する。要はすぐにキスを中断した。が、姿勢はまだそのままで、二人の唇は数センチしか離れていない。

「どうしたの?」

 吐息が直接かかる位置から、要が囁きかける。あゆみは恥ずかしそうに要の肩口に顔を埋めた。

「……てると……」

 あゆみのくぐもった声がかすかに聞こえてきて、要は耳を近づけた。

「うん?」

「好きに……なってきてる、と思います……」

「え?」

 思わず聞き返したが、あゆみの台詞ははっきりと聞き取れた。ただ、にわかには信じがたかったのだ。そのことを感じ取ったのか、それとももう一度言うのは恥ずかしかったのか、あゆみはそれっきり黙りこんでしまった。

 それ以上追求するのは諦めて、要はあゆみを抱きしめた。されるままになっていたあゆみの手が、おずおずとではあるが要のTシャツを掴む。背中に回すところまではいかなかったが、それだけでも大進歩だ。要は幸せそうに目を閉じて、あゆみの頭のてっぺんに頬をすりつけた。

「もうすぐ、モデル辞めるから」

 要がぽつりとつぶやくと、あゆみは身を強張らせた。居心地が悪そうにもぞもぞと身動きしたところを、要の腕に阻まれる。仕方がないので、あゆみはそのままの姿勢で口を開いた。

「……ファンの人達に苛められるから?」

 誰が、とは言わなかった。その強情さが可笑しかったのか、要が唇だけで笑う。彼の顔が頭の上にぴったりとくっつけられているので、見なくても皮膚の感触でそれがわかった。

「それもあるけど。ま、一応就職を控えてますから」

 一瞬間を置いて、

「ほんとにごめんね。その怪我のことだけど」

「……もういいですったら」

「彼女達には解散していただいたから」

「……は?」

「親衛隊だとか名乗ってなかった?」

「はあ、そう言ってましたね」

「俺公認だって?」

「はい……て、え、違うんですか」

「違うよ。そんなわけないでしょ、芸能人でもないのに。ま、追っかけというか、そんな感じの子達だったんだけど。今までは実害もなかったし、ファンだという女の子を無下にはできないからそれなりに対応してきたけどね。今回ばかりは見逃せなかったから」

「……ひどいこと、言いませんでした?」

 心配そうに問うあゆみを、要は呆れたように見下ろした。

「あんな目に遭わされたのに、心配してるの?」

「殴ったのは一人だけで……あとの三人は止めようとしてくれたし。それに、帰り際に謝ってくれたんですよ」

「殴った奴が?」

 その剣呑な声に驚いて、あゆみは顔を上げた。要の険しい表情に、息を呑む。あゆみはごくりと唾を飲みこんでから、ゆっくりとかぶりを振った。

「だったら、あれぐらい言っておいて正解だろう。俺を所有物のように思ってる勘違い野郎には」

 吐き捨てるような言い方だ。要のいつもにこにこ笑っている顔からは想像もつかないほど、鋭く冷たい形相だった。あゆみはやっと、遥が言っていた『氷柱のような目』という言葉の意味を理解した。

 そのままの目つきで、要がひたとあゆみを見据える。あゆみはぎくりとした。

「誰であろうが、あゆみちゃんを傷つける奴は許さない」

 低い声でそれだけ言うと、要は再びあゆみを抱きしめた。

 これ以上追求しない方がいい。うん、その方がいい。でないと、この人のことが怖くなりそう……。

 咄嗟にそう判断して、あゆみは黙ったまま要の胸に身を預けた。

「あゆみちゃん?」

 不意に穏やかな声で名前を呼ばれて、あゆみは飛びあがった。

「は、はい?」

 びくびくしながら返事する。すると、要はあゆみの両肩をしっかりと掴んで、腕の長さの分だけあゆみの体を離した。体をかがめて、戸惑っているあゆみの顔をのぞきこむ。

「きみが、好きです。つきあってくれますか?」

 あまりにも真剣な顔で要がそんなことを言うので、あゆみはついつられて頷いてしまった。いや、承諾するつもりではいたのだが。

 険しかった要の表情が、みるみるうちに緩んでいく。あゆみの目の前で、それはあっという間に満面の笑みに変わった。まるで百面相のショーみたいだ。あゆみはぼんやりとそんなことを考えた。

「ありがとう」

 そう囁きながら、また抱きしめられる。あゆみは要の脇腹のあたりに手を置きながら、抱かれることが癖になりそう、などと思っていた。要との接触はそれほどに心地よいものだった。

「それにしてもあゆみちゃんって」

 ふと要がつぶやく。

「意外に……胸があるよね」

 ……?

 胸……胸って……む、胸ぇ!?

 あゆみは何気なさを装って、すっと要の腕の中から身を引いた。顔ではにっこり笑っていながら、その実内心は煮えたぎる怒りで荒れ狂っている。

「あゆみちゃん?」

 要の声を聞くか聞かないかのうちに、あゆみは握りしめた拳を彼の顔に向かって振り抜いていた。不意をつかれた要の驚いた声と、鈍い音が重なる。

 あゆみはひりひりする拳を握りしめたまま、殴られた頬を手で押さえて呻いている要の姿を冷ややかに眺めた。その憤懣やるかたないという表情を見た瞬間、要も自分の失言に気付いたようだ。しまった、というように顔をしかめている。

 何か言おうとする要の機先を制して、あゆみは侮蔑のこもった声で吐き捨てた。

「デリカシーのない人って、大ッ嫌い」

 言うなり、踵を返して走り去る。そんなあゆみの後ろ姿を、要は諦めの境地で見送った。

 今追いかけても無駄だろう。どうせまたランク六に格下げされたに違いない。くそっ、あゆみちゃんが奥手だということを忘れてた。せっかくいいところまで行ったのに。

 それにしても。

「あゆみちゃん、ぐーはないだろ、ぐーは。女性だったら、普通はぱーじゃないのか……」

 独りごちる要に、晩夏の夜風は冷たかった。

アホです。学習しないエロ親父です。

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