禍福は糾える縄の如し 3
「よろしかったらお上がりくださいな」
母が愛想良く声をかけたが、要は、いや、もう遅いので、と礼儀正しく断った。
「じゃあまた今度、ゆっくり遊びに来てくださいね」
などと言いながら、母がこちらに戻ってくる。部屋の入口付近に立ち尽くしているあゆみとすれ違いざま、彼女は笑いを含んだ声で囁きかけた。
「イイ男じゃないの。いつの間に彼氏なんてできたの?」
反論しようと思った時には、母はもうすでに奥に引っ込んでしまっていた。勘違いした母の陽気な鼻歌が聞こえてくる。あゆみはがっくりと肩を落とした。
「こんばんは」
要が声をかける。あゆみはしぶしぶ挨拶を返した。
「ちょっと、いいかな」
いや、全然良くないです。
むすっとしたまま黙っていたが、要の声を聞きつけた母がキッチンから勝手に「どうぞ、どうぞ」なんて返事をしてしまった。あゆみは忌々しげに姿の見えない母を睨みつけてから、玄関に歩み寄ってサンダルに足を入れた。
「何かご用ですか」
ふてくされたあゆみの顔を、要はまじまじと見つめている。さっき鏡で見たばかりなので、あゆみは自分が他人の目にどう映っているかを正確に把握していた。頬の腫れは氷水のおかげでいくらか引いていたが、時間が経つにつれて手形がはっきりと浮かび上がってきていたし、一部分などミミズ腫れになっている。おそらくロングヘアがつけていた指輪が当たったのだろう。
「どうしたんだ、その顔。それに、腕も」
表情と同じように、険しい声だ。あゆみは思わず彼の顔を見上げた。強い感情に燃える瞳とまともに目が合って、ぎくりとする。あゆみは慌ててうつむいた。
ちょっとためらってから、あゆみは肩をすくめた。
「いろいろと込み入った事情があって」
彼女達のことを要の耳に入れても仕方ないだろう。厚底リーダーの最後の様子を見ていたら、今後はもうこんなことはなさそうだったし。
「誰かに殴られたんだろう?」
不気味なほど静かに要が訊く。あゆみは黙ったままそっぽを向いた。
すると、要はあゆみの頭上で重いため息を吐き出した。
「……なんで言わないんだ。俺のせいだって。……俺のせいなんだろう?」
あゆみは驚いて要を見たが、事の顛末を彼が知っているはずはないと思い直す。それでも、どこか悲しげな要の瞳はまるで、何もかも知ってるよ、と言わんばかりだった。
「そんなわけないじゃないですか。どうしてそんな風に思うんですか?」
むっつりしたまま、あゆみが言う。だが、決して要と目を合わさないようにしているその態度から、それが嘘だということは明白だった。少なくとも、要はあゆみのそういう性格をきちんと把握していた。
「……ごめん」
静かな声で、要が謝る。あゆみはごまかしきれなかったことを悟って唇を噛んだ。
「……どうして?」
「まだ白を切る気か?」
「じゃなくて。どうしてわかったんですか?」
すると要は、やっぱり、というように顔をしかめた。しまった、と思ったが後の祭だ。
だが、あゆみがうっかり暴露してしまったことは、単に要の推測を裏付けただけのようだった。そもそも要が今ここにいるということは、今日の事件を誰かから聞いたということに他ならないではないか。そうでなくて、どうしてこんなにタイミング良く家まで訪ねてこられるだろう。
じっと見つめるあゆみに苦笑いを返しながら、要は口を開いた。
「岩本くんだよ」
「岩本さん?」
「ああ。遥を通じて連絡があった。あゆみちゃんを痛めつけたのは俺の知り合いじゃないかって」
「痛めつけた……ってほどじゃ」
困ったように答えながら、あゆみは頭をフル回転させていた。
岩本さんが来たのは、ロングヘアに殴られた後だった。彼女が大声で泣いて……その時、岩本さんが来て……。一体いつ、彼女達と伊崎さんが繋がったのだろう?
「それが痛めつけてなくて何だって言うんだ!」
思わずといった様子で声を荒げてから、要は口をつぐんだ。びっくりしているあゆみから目をそらして、ごめん、とつぶやく。深く傷ついたようなその表情を見ていられなくて、あゆみも目をそらした。
しばらくの沈黙の後、要が唐突に問いかけた。
「今、ご両親ともいらっしゃるの?」
「え、あ、は、はい」
「申し訳ないけど、呼んできてもらえるかな」
「え……なんで……」
「頼むよ」
有無を言わせぬ強い口調で言われると、それ以上反論することはできなかった。あゆみは渋々頷き、居間にいた両親を伴って戻ってきた。一人になるのはいやだったのだろう、結花も一緒だ。
怪訝そうな顔の両親が現れると、要は
「申し訳ありませんでした!」
と言いながら頭を下げた。腰のあたりまで、深々と。呆気にとられている大沢一家に頭を下げたまま、続ける。
「お嬢さんが怪我をしたのは、僕の責任です。今後は絶対にこんなことがないようにします。本当に、すみませんでした」
両手をぴしっと脇につけて上半身を九十度に曲げたままの要の姿を、両親は戸惑ったように見つめていた。それから、互いの目と目を見交わす。思いきったように声をかけたのは、父だった。
「まあまあ、えーと、名前……は何だったかな」
「伊崎要です」
その姿勢のまま、要が答える。
「じゃあ、伊崎くん。もう頭を上げてくださいよ。どういう事情があるのかは知らないが、あゆみが文句を言っていない以上、私達にどうこう言う権利はないのでね」
そこまで言ってから、父はあゆみの方に向き直った。
「あゆみは伊崎くんのことを怒っているのか?」
急に話を振られて、あゆみはかぶりを振るのが精一杯だ。すると父は温厚そうな顔に微笑みを浮かべた。
「ほらね。でも、わざわざあゆみを心配して来てくれてありがとう。もういいから、今日は帰りなさい」
はい、と言いながら要が上半身を起こす。そうしながら、ちら、とあゆみの顔を見る様子を、両親が微笑ましげに見守っていた。
「あゆみ、門の前までお見送りしなさい」
にこやかな父に促されて、あゆみは頷いた。いつになく落ちこんだ様子の要をなんとなく放っておけないような気がしていたので、渡りに船といった感じだ。
不意に、あゆみの脳裏に遥の言葉がよみがえった。
『このところ、ほんと、見てられないぐらい落ちこんでるから……』
あの時は、まさかそんな、と本気にもしなかったのだが、要は本気で落ちこんでいたのだろうか? そういえば食欲がないとも言っていた、と思いついて、あゆみはこっそり要の顔を観察した。
特にこれといって変わったような様子はないが、言われてみればちょっと頬がこけたかもしれない。だが何よりも、要の唇に微笑みの影すら浮かんでいないことが、なんとなく異様だった。
「夜分遅くに申し訳ありませんでした。失礼します」
礼儀正しくそう挨拶して玄関を辞する彼の後を、あゆみは慌てて追いかけた。
門までの短い道のりを、要は大股に歩いていく。いつもなら冗談の一つも飛ばしているはずなのに、今日はあゆみの方を振り返ろうともしなかった。こんな要は初めてで、あゆみは戸惑いと共に焦燥感を覚えた。
門扉の金具がこすれる金属的な音が響く。だが、それが開かれることはなかった。要がそのままの姿勢で立ち止まってしまったのだ。
あゆみに背を向けたまま、要はしばらく黙り込んでいた。気軽に声をかけられるような雰囲気ではないと感じて、あゆみも黙ったままその場に立ち尽くす。
やがてゆっくりと振り向いた要の顔には、苦渋の表情がくっきりと刻み込まれていた。
「あゆみちゃん……」
「は、はい」
「本当にごめん」
あゆみは、大きくゆっくりと首を横に振った。要の言い方があまりにも苦しそうだったので、何も言えなくなってしまったのだ。
「それと、俺をかばおうとしてくれて、ありがとう。……でも、俺があゆみちゃんを守りたかったよ」
そう言いながら、なんだか泣き出してしまいそうに唇を歪める。その表情に、あゆみの胸が締めつけられた。あゆみは両手で胸を押さえて、ひたと要を見据えた。
「もう、迷惑はかけないから」
最後ににこっと笑いながら、要が言う。だが、すぐに背けたその顔には、やはり苦しげな表情が宿っていた。
「じゃ」
カチャン、と音がして金属の門扉が開く。要の広い背中から頑なな拒絶を感じて、あゆみはあとを追うことができなかった。住宅街の静かで暗い道のりを歩み去る要の後ろ姿を、じっと見送ることしか。
「このまま別れてしまって、いいの?」
不意に背後から声をかけられて、あゆみはびくっとした。振り向くと、いつの間にここまで来ていたのか、母が立っている。あゆみはぱちぱちと瞬きしてから、困ったように答えた。
「いいも悪いもないよ。寄せつけてもくれなかったし……」
「そりゃあ女の子に怪我をさせたとあってはね」
「でもあれは……」
「事実はどうあれ、伊崎くんはあゆみの怪我が自分のせいだと思ってるんでしょ? だったら、彼の気持ちは推して知るべしじゃないかしら」
黙りこんでしまったあゆみの顔を、母はひょいとのぞきこんだ。
「しかも、あゆみはただの女の子じゃないんでしょ? 伊崎くんが大事に思ってる女の子なんじゃないの?」
いたずらっぽい母の台詞を聞いて、あゆみは驚いた。
「な、なんで?」
「そんなの、彼の顔を見ればわかるわよ」
あゆみは困惑したように母を見た。
「私は……お母さんみたいに自信を持てない。確かに告白みたいなことはされたけど、あの人、ふざけてばっかりだし……」
「そう? 告白の時もふざけてた?」
「……わかんない。本気にしなかったから」
拗ねた口調で答えると、母は困ったものだというように微笑んだ。
「どうして本気にしなかったの? 嘘をつくような人なの?」
「ううん! そんなことは……ないと思うけど……」
「だったら本気だったんじゃないの」
「でも、いつでも私のことをからかってばかりなんだよ。キスされた時だって……」
と言いかけて、慌てて口を閉じる。だが時すでに遅し。母は目をきらめかせながらあゆみの顔をのぞきこんだ。
「あらー、もうキスもしてるんだ。あゆみも隅におけないわねぇ」
あゆみは顔を真っ赤にして、母の冷やかしに抗議した。
「茶化さないでよ、お母さん! と、とにかく、突然のことで私の方は心臓ばくばくしてたのに、伊崎さんはけろっとしてたのよ! そのあと平気な顔で普通の話をするんだから!」
すると母は考え込むように顎に手を当てた。
「うーん……それは、あゆみがすごく動揺してるように見えたからじゃないかな。ほら、野生動物みたいなものよ。人里に出てきた鹿とか猿って、追いつめすぎるとすぐに逃げちゃうじゃない?彼もそう思ったんでしょ」
「わ、私は鹿とか猿と同程度ですか……」
今日はよくよく猿と縁がある日だ……。
「そうそう、それよ。ま、猿とは言わないけどね」
「お母さん……」
「ね、あゆみ、今日の伊崎くんの態度、あれもふざけてた?」
母の話はあまりにも方向転換が早すぎてついて行けない。あゆみはため息をついてから、ゆっくりとかぶりを振った。
「ううん。今日は、怖いくらい真剣だった」
笑ったのは最後だけ、しかもその顔も引きつってたし。心の中でそう付け足す。
「あゆみは伊崎くんのことが嫌いなの?」
あゆみは驚いて母を見た。
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ、好き?」
この問いには、即答することはできなかった。素直に好きと言うことはできないが、だが、じゃあ好きじゃないのかと問われると、それもまた違うように思う。
気難しい顔で考え込んでいるあゆみの肩を、母がぽんぽんと叩いた。
「好きになりかけてる、ってとこかな」
穏やかな声でそう告げられて、あゆみはまた驚いたように母を見た。
「なんで?」
「うん? なんとなく」
そう言った母の笑顔がまぶしくて、あゆみは目を細めた。
「あゆみはね、なんでもかんでも生真面目に考え過ぎなのよ。たまには何も考えずにぽーんと飛びこんでごらん。きっといいことが待ってるから」
母の楽天的な性格は知っていたが、ここまでとは思わなかった。あゆみはぽかんと口を開けて母の能天気な顔を見つめた。
「ほら、追いかけなくちゃ。今の気持ちを素直に打ち明けてみなさい。でないといつまでも伝わらないわよ」
早く、と追いたてられて、あゆみはとりあえず頷いた。
門扉を開けて出ていきながら、ふと不安になって母を振り返る。母は勇気づけるようににっこり笑って、手を振った。
あゆみは大きく頷いて走り出した。要が去った方向へと。
確か、要は車ではなかった。いや、それとも家の前に横付けするのを遠慮しただけか。もしどこか他の場所に停めてきていたのだとすると、追いつくのは不可能だ。
お願い、電車で来てて、と祈るように心の中でつぶやきながら、あゆみは駅までの道を走り続けた。
が、いつまで走っても要の姿は見えない。ついに駅前の商店街に辿り着いたが、そのどこにも要の姿はなかった。息を切らしながら近くをうろうろしてはみたが、やはり探し当てることはできなかった。
とぼとぼと家に戻る帰り道、あゆみは陸橋の上でゆっくりと立ち止まった。欄干に両腕を乗せ、橋の下の道路を行き来する車の往来をぼんやりと眺める。会社帰りのサラリーマンが多いのか、渋滞こそしていないものの、ひっきりなしに通行する車でいっぱいだった。
みんな、帰る家があるんだな……。ふとそんなことを思って、あゆみはぷるぷると頭を振った。
何を考えてるの、私にだって帰る家はあるじゃない。両親と結花が待っている、温かい家が。
だが、胸の中にぽかんと大きな穴が開いてしまったような感じは否めなかった。あゆみは、それが要との別れのせいだいうことを渋々認めてため息をついた。
あの最後の時、要の様子は今までと明らかに違っていた。多分、あゆみに永遠の別れを告げていたのだと思う。『もう迷惑をかけない』とは、そういうことだろう。
あゆみはのろのろと欄干から手を下ろし、ゆっくりと歩き出した。
これは罰だ、と思った。要のことをぞんざいに扱ってきた罰だ、と。
本当の気持ちに気付くのが怖くて、きちんと向き合おうとしなかった。いつでも要が行動を起こしてくれることに安心しきって、自分で何とかしようと思わなかった。それより何より、自分に自信がないために、要の告白を本気にしなかった。いや、本気にしないよう、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
遊園地で文句も言わずに結花に付き合ってくれた要。将来の夢を瞳を輝かせて語ってくれた要。親子丼が好きな要。水族館の人ごみで、あゆみを守るように腕を回してくれた要……。
要はいつだって自分に正直だった。思ったことを言い、したいこと、するべきことを行動に移した。確かに時々ふざけることはあったけど、私が逃げ腰になってしまった時ばかりだったのだということが、今ならわかる。
もう会えないのかな。
そう思うと、じんわりと目頭が熱くなった。
前から歩いてくる人に泣きそうな表情を見られたくなくて、あゆみは顔を背けた。
背けた視線の先に、公園が見える。なんとなくぼんやりとその公園を見ながら歩いていたあゆみは、ぶらんこのところに見覚えがあるような人影を見つけて足を止めた。
眼鏡を取って手で涙を拭い、もう一度きちんと眼鏡をかけなおす。それでも、かなり遠い公園にいる人影の名前を断定することは不可能だった。
だがあゆみにはわかった。
伊崎さんだ。あれは絶対に伊崎さんだ!
確信に近い何かが、あゆみの体を突き動かす。あゆみはいてもたってもいられなくなって、公園に向かって走り出した。