禍福は糾える縄の如し 2
一旦学校から帰って結花の世話をしてやると、あゆみは岩本が勤めるスーパーに向かった。
遥と別れてから、要について考える時間は十分にあった。だが、あゆみは敢えて考えないようにしていた。自分では認めようとはしなかったが、胸に渦巻く穏やかならぬ感情がなんなのか、見極めるのが怖かったからだ。
あゆみはその問題を頭の片隅に追いやって、今夜の献立という差し迫った問題に頭を悩ませることにした。
気にする必要なんてないと思いつつ、やはり岩本と顔をあわせるのは気まずかった。きょろきょろとあたりを見ながら買いものをする自分が情けない。だが、岩本と鉢合わせすることなくレジに辿り着いた時は、後ろめたく思うほどほっとした。
支払いを済ませ、カゴの中身を買い物袋に入れ替えると、あゆみはそれを持って店を出ようと歩き出した。
もう少しで自動ドア、というところで、横の通路から出てきた岩本とばったり出会ってしまう。
「あ」
声を出したのは岩本だった。あゆみは口をぽかんと開けたまま彼を見ていたのだが、その声で我に返った。
慌ててお辞儀をして、店を出る。背後で岩本が引き止めたそうな素振りをしていることはわかっていたが、無視した。
店を出て、大きく深呼吸してから振り返る。ガラス越しに、岩本が正社員らしい店員から何かを言いつけられているのが見えた。そのことに更に安堵して、あゆみは広い駐車場に足を踏み出した。
「あ、やっぱりあの娘よ」
突然どこからか女性の声が聞こえてきた。だが、自分とは関係ないと思ったので、あゆみはまっすぐに歩き続けた。
「ちょっと、待ちなよ」
すぐ後ろで別の声が聞こえて、あゆみは立ち止まった。半信半疑のまま、くるりと振り返る。
そこには派手に着飾った四人の女性が立っていた。一見年齢不祥だが、多分大学生だろうと見当をつける。OL風に見えなくもないが、OLが夕方のこんな時間に外をうろついているわけがないと思ったのだ。
あらまぁ。揃いも揃って、お化粧の濃い人達……。
そんなことを思いながら問いかけるように首を傾げる。
「この娘よ、絶対。間違いない」
四人中、ただ一人の黒髪の女性があゆみを指差しながら断言した。
失礼な。人に向かって指を突きつけるなんて。
むうっと眉をひそめたあゆみを、以前の遥よりもきつい金色に髪を染めた、リーダーらしい女性が馬鹿にしたように見下ろす。厚底の、いかにも歩きにくそうなサンダルを履いたその彼女は、あゆみよりかなり大きかった。
「こんなメガネザルが? 見間違いじゃないの?」
「メガネザル?」
思わず、あゆみはぼそっとつぶやいた。
確かに眼鏡はかけている。それが洒落もそっけもない黒ぶち眼鏡だという自覚もある。だが、サルと言われる筋合いはない!
「あのですね」
文句を言いかけたあゆみの声にかぶせるように、厚底リーダーが口を開いた。
「あんた、伊崎要の何なの?」
伊崎要、と聞いて、あゆみはぽかんと口を開けた。
が、なるほどと納得する。彼女らはきっと要と同じ大学に通っていて、ご多分に漏れず彼のあの外見に憧れてでもいるのだろう。
その質問に、妹の友人です、と答えるのはたやすい。たやすいが、あゆみはそんなに簡単に目の前の女性達を満足させるのはいやだった。むっとしたように眉をひそめ、ぶっきらぼうに問い返す。
「どうしてそんなことをあなたに答えなきゃいけないんですか? 大体あなた達、何者なんですか」
「あたし達、要の親衛隊よ」
また別の女性が口を挟む。
その口調より何より、あゆみは『親衛隊』という言葉に呆気に取られた。たった今声を発した女性のマスカラが真っ青だったことにも度肝を抜かれたが、親衛隊発言に比べたら些細な問題と言えるだろう。
「親衛隊ぃ?」
呆れたようなあゆみの言葉に恥じらいを見せたのは、最初に声を上げた黒髪の女性だけだった。他の三人は『なんか文句あるの』、とでも言いたげなふてぶてしい態度のままだ。
「そうよ、親衛隊よ。要も公認してるんだからね」
青いマスカラが堂々と胸を張る。
「いや……親衛隊って、芸能人じゃあるまいし」
ていうか、今のご時世でも、親衛隊っているのか?
そんなことを考えていたので、あゆみは四人の女性が驚いたように顔を見合わせたことに気付かなかった。
「あなた、知らないの?」
黒髪の女性が恐る恐る訊く。あゆみは怪訝そうに眉をひそめた。
「何をですか?」
「要がモデルしてること」
「モデル?」
……てあの、ファッション誌なんかに載ってる、あのモデルですか?
「えー、何こいつ、信じらんなーい。要だよ、知らないの? 今は単なるアルバイトだから雑誌に載る程度だけど、いろんなモデルクラブからオファーが来てるんだよ」
厚底リーダーが馬鹿にしたように言う。
だがあゆみは別に口惜しくも何ともなかった。反対に、要がモデル業を続けると思いこんでいる彼女達を気の毒に思ったほどだ。
だって、伊崎さんの夢は一級建築士になってビルを建てることなんだもの。
そんなことを考えながらぼんやりしていると、車のクラクションが鳴り響いた。どうやら通行の邪魔をしているらしい。咄嗟に一歩後退ったあゆみの腕を、厚底リーダーが痛いぐらいの力で掴んだ。
「何……」
「こっちに来な」
と言いながら、店の裏口の方にぐいぐい引っ張っていく。あゆみはしばらく抵抗したが、やがて仕方なく彼女について歩き出した。四人相手では勝ち目はない。
店の裏手のゴミ置き場で、やっと彼女は手を離した。
「ねえ……もうやめようよ。モデルだって事も知らないような娘が、彼女のわけないよ……」
黒髪の女性がおずおずとそう提案したが、残りの三人からぎっと睨まれて口をつぐんだ。
「一体アンタは何者なのよ!」
今まで口を挟まず黙っていたロングヘアの女性がヒステリックに叫ぶ。厚底リーダーよりも青いマスカラよりも、この女性が一番怖そうだった。
このままではマズイ、とあゆみは思った。
大体、好きでもない人のためにこんな目にあうなんて、理不尽過ぎるではないか?
「伊崎さんの妹の友人です」
あっさりと、そう答える。
すると、四人の女性はまた顔を見合わせた。
「あんた、バカ? どこの世界に妹のオトモダチなんかと二人きりで水族館に行く男がいるのよ。言い訳するなら、もっとそれらしいこと言いなさいね」
厚底リーダーが見下げ果てたという口調で断罪する。あゆみは得心したように頷いた。
なるほど、この騒ぎの元凶はそれか。水族館に行った時、黒髪さんに目撃されてたのね……。
「そうよ、そうよ!」
口々に言う彼女達をまともに見返しながら、あゆみはしれっと続けた。
「でも、ホントですから。何なら今から伊崎さんの妹さんを呼び出しましょうか?」
すると親衛隊達は、どうしよう、というように目と目を見交わした。
が、その中でただ一人、ロングヘアだけが鬼のような形相であゆみを睨みつけていた。あ、ヤバい、と思った瞬間に、ひゅっと風を切る音が聞こえて左頬に衝撃が走る。どうやら渾身の力を込めたとみえて、平手打ちされたらしいと悟った時には、あゆみはふらふらとよろめいて店の壁にぶつかっていた。
「澄ましてんじゃないよっ! あんたなんか、あんたなんか、要に弄ばれて終わりなんだからねっ! いつだってそうなんだから、アイツはっ!」
あ、やっぱり?
買い物袋を下げていない方の手でひりひりする頬を押さえながらも、冷静にそんなことを考えている自分が、あゆみは可笑しかった。
思ったことがそのまま顔に出てしまったのだろう、にやりと笑ったあゆみを見て、ロングヘアの目がつり上がった。
「……っ! バカにして……っ!!」
「ちょっ……やめなよ!」
厚底リーダーが止めに入ってくれたが、一瞬遅かった。ロングヘアがバッグを振り上げて、あゆみに殴りかかる。あゆみは咄嗟に両腕で頭をかばった。
「なんであんたなんかっ! なんであんたなんかっ!」
バシンバシンと音がするほどに数回殴られた後、他の三人がようやくロングヘアを取り押さえる。あゆみが恐る恐る顔を上げた時には、彼女はへなへなとその場に座り込んで、声を上げて泣き出していた。
「要があんたなんか相手にするわけないわよぅ」
泣きながらもそう主張するロングヘアの肩に、厚底リーダーがいたわるように手を置く。あゆみは目の前で展開していることについていくことができずに、ただ黙って彼女達の様子を眺めていた。
「おい、おまえら、何してる!」
突然鋭い声が響いて、あゆみは顔を上げた。
店の表側から、岩本がこちらを見つめている。あゆみの姿を確認した岩本の顔が、憤りに歪んだ。
「ち、ちょっと、ヤバいよ」
青いマスカラがうろたえたようにつぶやいた。厚底リーダーが慌ててロングヘアを助け起こす。黒髪もそれに手を貸した。
走ってくる岩本とは逆方向に歩き出しながら、厚底リーダーがちらっと振り向いた。
「ごめん、痛い目に遭わせるつもりじゃなかった」
今までの行動はともかくとして、その目は真剣だった。あゆみはわかったというようにこくんと頷き、足早に去っていく彼女達の後ろ姿をぼんやりと見送っていた。
「ちょっと待てよ!」
そう言いながら追いかけようとする岩本を、思わず引き止める。
「やめて!」
すると岩本は足を止め、びっくりしたようにあゆみを振り返った。
あゆみはひりひりする頬に引きつった笑みを浮かべて、寄りかかっていた壁から身を起こした。背中の汚れを払い、殴られた時に落とした買い物袋を拾う。その時にはもう岩本が目の前まで来ていた。
「大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
目を合わさないようにして、答える。
岩本はしばらく黙り込んでから、ぐっとあゆみの腕を捕まえた。その場所から岩本の熱が伝わってきて、あゆみはうろたえた。思わず顔を上げて岩本の怒った顔を見つめる。
「事務所に救急箱があるから」
そう言われて見下ろしてみると、腕に何箇所かひっかいたような傷があった。あちこちが赤くなっているところを見ると、ひっぱたかれた左頬もそんな感じなのだろう。あゆみは顔をしかめた。
岩本に連れられて、裏口から事務所に入る。中には店の制服を着た従業員が数名いた。岩本が事情を説明すると、正社員の名札をつけた若い女性が、てきぱきと手当てをしてくれる。引っかかれて血が滲んでいるところには絆創膏、腫れた左頬にはビニール袋に入れた氷水。しばらく当てておいてね、と言われて、あゆみは素直に頷いてお礼を言った。
「じゃ俺、仕事があるから」
そう言って事務所を出ていく岩本に、あゆみはぺこりと頭を下げた。
「あの、ありがとうございました」
ちらっと振り返った後、彼は片手をちょっと振ってから出ていった。
氷水を頬に当てたまま歩くのは気が進まなかったが、今から帰らないと夕食の支度に間に合わないし、頬を腫れあがらせたままにしておくと家族に心配をかけるしで、あゆみは仕方なくその格好のまま帰途についた。
家に帰ると、案の定結花があんぐりと口を開けた。
「お姉ちゃん、どうしたの、それ!」
あゆみは情けなさそうに笑った。
「うん、ちょっとね」
そうごまかしてキッチンに引っ込む。ついてきた結花に、どうしたの、どうしたのとうるさく聞かれたが、生返事で済ませていると、やがて別のことに気を取られたらしくキッチンから出て行った。
あゆみは苦笑を浮かべて結花の後ろ姿を見送った。所詮は小学二年生だ。もうこれでうるさくつきまとわれることはないだろう。
だが、両親となるとそうは行かない。家族揃った夕食の席上で、あゆみは両親から質問攻めに遭ってしまった。
だが、うん、ちょっと、と言ったきり何も言おうとしないあゆみの態度に顔を見合わせたあとは、二人とも問い詰めるのを諦めたようだった。あゆみがこうと決めたら一歩も退かない頑固な性格だということを知り尽くしているからだろう。
夕食の後片付けをしている時、玄関のインターホンが鳴った。ちょうどすぐ近くにいた母が受話器を上げる。一言二言話しただけで、母は受話器を元に戻して玄関に向かった。
洗い物はいつもは母の仕事だが、来客ならと自分ですることにする。が、いくらもたたないうちに玄関にいる母に呼ばれて、あゆみは泡だらけになった手を急いですすいだ。
「なあに、お母さん……」
ぱたぱたとキッチンを出たところで玄関にいる母に問いかけたあゆみは、思わず目を見開いた。
にこにこしている母の前にかしこまって立っていたのは、なんと、伊崎要だったのだ。
いつも微笑みを絶やさない要の顔が、いつになく険しい表情をたたえている。そのことも、あゆみの驚きを深めた。
あゆみの腫れている頬と絆創膏だらけの腕を素早く見回した要の顔に、緊張が走った。
親衛隊! 昭和生まれなので(笑)