3 令嬢エミリア、もふもふの兎と契約する。
セレーナと旅に出ると決めた私。その前に、これまでお世話になった人達に何かお礼をしようと思い立った。
皆に喜んでもらえるような、私にできることは何があるか考えてみた。
まず、記憶が戻る以前の私が身につけた能力といえば、貴族としての礼儀作法やマナーだけで全く使えない。……ぼんやり令嬢エミリアめ、十六年も何をやっていたんだ。我ながら呆れるよ。
せめて色んな本でも読んでいてくれたら旅にも役立ったかもしれないのに、それもしてない。もうまるで転生したてみたいな心持ちだ。
……私、本当に十六年間ただただぼんやりしていたんだなー……。
となれば、頼りになるのは前世の私が身につけた能力のみ。一番得意なことといえば、それは決まりきっている。何しろ私は定食屋の娘だ。
すでにお店の全メニューをマスターしている私は、お世話になった人達に定食を振る舞うことにした。生まれて初めて自宅屋敷の厨房に入る。
へえ、中世みたいな世界だから調理器具とか不便かと思ったけど、意外とそうでもない。火も何か平べったい板から直接出てるし。科学の代わりに魔法が発達しているというのは本当らしい。
あとは食材のチェックだね。これまで食べてきた経験から、前の世界にあった肉や野菜なんかはこの世界にも大体あるって分かっていた。お米もリゾットとかで食べたからあるはず。問題は調味料の類なんだけど……、あ、醤油も味噌もあるじゃない!
調理担当のメイドによれば、東方から入ってくるので少し高価だけどそういうものも入手できるんだとか。なるほど、さすがは侯爵家だ。
よし、これなら完全なる定食が作れる! と早速取りかかろうとしていると、調理メイドの一人が遠慮がちに。
「エミリアお嬢様、お料理は無理かと……」
ああ、そうか、今まで自分のことも一人でできなかったから、そう思われても仕方ないよね。実演してみせるのが早いか。
私はキャベツをまな板の上に置き、包丁を手に取る。
シュカカカカカカカカッ!
瞬く間に千切りになったキャベツを見て、メイド達は唖然とした表情に。ふふふふふ、千切りキャベツは定食屋の基本だよ。
「実は密かに料理の特訓をしてたんだ。じゃあ、皆も手伝ってくれる?」
やや無理のある説明だったけど、近頃人が変わってしまった私だけにメイド達は納得してくれた。全員で定食の品々を仕上げていく。
ちょうど完成した頃、呼んでおいたセレーナが到着した。
「エミリア、厨房なんかに呼び出していったいどういうつもり……、何だそれ! 見慣れない料理だけどすごく美味しそうだな!」
「豚のショウガ焼き定食だよ、召し上がれ」
ご飯、千切りキャベツを添えたショウガ焼き、おひたし、白菜の浅漬け、お味噌汁の定食をセレーナはあっという間に完食した。
「……エミリアにこんな特技があったとは、本当に美味しかったよ。だけどずいぶん大量に作ったな」
「もちろんだよ、だってこの屋敷で働いている全員が食べるんだから」
私の言葉に、一緒に調理していたメイド達は驚いた顔になる。
「わ、私達もいただいてもよろしいのですか……?」
「うん、私がお世話になったのはセレーナと、この屋敷の皆だから。せめてものお礼だからお腹いっぱい食べてよ」
「……エミリアお嬢様、以前はあんなにぼんやりなさっていたのに、ここまでお気が回るようになられるなんて……」
と涙を見せるメイド達。
……前の私、相当だったな、定食のお礼じゃ全然足りないかも。
私が過去の自分を振り返っていると、セレーナがくすりと笑った。
「以前のエミリアは放っておけなくて守ってやりたい感じだったけど、今はたくましくてちょっと頼りにもなる感じだな。私はこっちのエミリアも好きだよ」
これを聞いた私は顔が熱くなるのを感じた。
……そんなにさらっと好きとか。私の幼なじみは天性の女たらしか、これは旅先でも気をつけないと。行く先々で女性達を虜にしてしまう……。
人の気も知らないでセレーナは私の顔を覗きこむ。
「頬が赤いぞ、大丈夫か?」
「誰のせいだよ……」
「もうすぐ出発なんだから、風邪とかひくなよ。そういえば旅の支度はできたのか?」
「あ、うん、大体は。あとは馬の手配とかかな」
そう言った直後に厨房の入口から「それなら任せなさい!」と声がした。目をやると私と同じ茶色の髪をした女性が腕を組んで立っている。
「アンジェリカお姉様、どういうことですか?」
彼女はこの侯爵家の長女で私の姉、アンジェリカだ。次期当主でもあるだけに父と性格がとてもよく似ている。……つまり、妹の私を溺愛していた。
颯爽と私の前まで歩いてきたアンジェリカお姉様は、そのまま勢いよく抱きついてきた。
「お父様が許可を出してしまったから仕方ないけどね! 旅なんて私はあなたが心配でならないのよ、エミリア!」
……私がぼんやりした令嬢に育ったのは、この人のせいでもあると言っても過言じゃない。
とりあえず、体からアンジェリカお姉様を引きはがす。
「それでお姉様、任せなさいとはどういうことです?」
「エミリアのために最高の馬車を用意したのよ。屋敷の外に停めてあるから見てちょうだい」
姉の言葉に私とセレーナは顔を見合わせた。
急かされるように私達は外へと連れ出される。屋敷の前に停められていた馬車を見て、二人で揃って目を丸くせざるをえなかった。
馬車を引いているのは馬ではなく、大きな兎だったのだから。柔らかそうなふわふわの毛につぶらな瞳。まるでぬいぐるみのように愛らしい兎(ちなみにサイズだけは馬と同じ)がそこにいた。
……これじゃ馬車じゃなくて兎車だ。それよりこの生物、何?
視線をやるとアンジェリカお姉様は誇らしげに胸を張った。
「裏社会から来てもらった、えーと、何といったかしら、そうそう、ラビシェノンという種族の魔獣よ。長く人間と共にいる魔獣だから安全らしいわ」
この説明を聞いたセレーナが首を横に振る。
「魔獣が安全なんてことはありえないよ、ラビシェノンといえば割と上位種だし」
「そう、だからこの魔法の契約書を使うのよ。エミリアとセレーナのどちらかが契約できればそれでいいし、できなきゃこの魔獣は裏社会に帰ってもらうわ」
アンジェリカお姉様が一枚の紙を取り出して見せると、今度はセレーナも「なるほど」と納得したようだった。
お姉様がその紙切れを私の前に差し出し、指先で触れるように促してくる。言われるがままに軽く触れると、次は紙切れを大兎の毛に触れさせた。
すると、大兎がしばらく私の顔を見つめたのち、魔法の契約書と呼ばれるその紙は光の泡となって消えた。すぐにアンジェリカお姉様が歓喜の声を上げる。
「契約成立よ! あのマッドラビットが契約獣に! 駄目元だったけどうまくいったわ!」
駄目元だったの? あとすごく物騒な通り名が聞こえた気がするけど。
でも、何となくこのラビシェノンという魔獣が私を受け入れてくれたのは伝わってきた。それにしても、なんてもふもふな毛だろう。……受け入れてくれたなら、ちょっとだけもふらせてもらっても大丈夫かな。
そろりと近付こうとした瞬間、私の頭の中にラビシェノンのものらしき声が響いた。
(これからよろしくお願いしますね。不思議なのですが、あなたは人間というより私達魔獣に近い気がしました)
いや、誰が人外適性だ。
これって、心と心で会話してる感じなの?
(はい、契約の恩恵というべき力ですね。ちなみに、他にも恩恵があるんですよ)
そうなんだ、どんなの?
(人間の側は契約した魔獣の種族に応じて特殊な能力が発現します)
すごいじゃない! 私にはどういう能力が発現したのかな?
(私達ラビシェノンと契約した人間は、死の間際の体感時間が百倍に伸びます)
いらないよ! 死ぬ寸前の恐怖の時間が長くなるだけじゃない!
(そうでしょうか、楽しかったことを思い出したりする時間が伸びて、いい能力だと思うのですが)
……死ぬことを前提にしている時点で最悪だよ。死神みたいな魔獣と契約しちゃったな……。
この時の私はまだ気付いていなかった。
今まさにこの瞬間、私は不死身になったという事実を。