1 令嬢エミリア、時間を戻す力に目覚める。
時間は戻せない。そう言った直後に彼は婚約破棄を告げてきました。人の運命とは些細なことで変わってしまう。今日、私はそれを痛感したのです。
発端は昨晩開かれた夜会にありました。学生をしている貴族が集う、定期開催のパーティーです。ただお茶を飲んで雑談をするだけの簡単なもの。侯爵家の次女である私、エミリアは婚約者のオリバー様とそこに出席しました。
オリバー様は公爵家の長男。私達は学園を卒業したら結婚することが定められていました。つまり、私は正式に公爵家に入ることになります。幼い頃から決まっていたことであり、私もオリバー様をそういうお相手としてずっと見てきました。
だけど、昨晩の夜会で全てが変わってしまったのです。私のクラスメイトで友人でもあるマリリスさんの気分が突然悪くなり、私とオリバー様の二人で介抱することに。マリリスさんを連れて別室に移動したものの、私が水を取りにいっている間に彼女はオリバー様と消えてしまいました。結局、二人は戻ってこず、その夜は私は何も分からないまま屋敷に帰ったのです。
そして翌朝、学園で突然オリバー様から婚約破棄を告げられました……。
「時間は戻せない、君との婚約を解消させてほしい。……僕の運命の人はマリリスだったんだ」
どうやら昨晩、マリリスさんと外の空気を吸いにいってそのまま二人で長く語り合っていたらしいです。それで自分の運命の相手は彼女だと気付いたのだとか。
……そ、そうですか、私ではなかったのですね……。
私は呆然と学園の廊下を歩いていました。
早くもオリバー様の決断が噂になっているらしく、皆が私に哀れみの視線を向けてきます。いたたまれず逃げるように私は校舎を出ました。
馬車に乗ろうとしたその時、私の名前を呼びながら駆けてくる女性が。
「話は聞いたぞ、エミリア! 大変なことになっているじゃないか!」
「……あ、セレーナ、そうなんです。私、婚約破棄されてしまいました……」
彼女は私の幼なじみで伯爵家の五女、セレーナです。風変わりな子で、まるで男性のような言葉を使います。性格もとても活発で、私と同じ十六歳という年齢ながら騎士団にも所属している、本当に変わった子です。
セレーナは昔から何かと私の世話を焼いてくれます。……きっとぼんやりしたところのある私が放っておけないのでしょう。
今回もやはり彼女は黙っていられないようです。
「オリバーめ……、……斬り捨ててやる。剣を取ってくるからもう一度あいつの所に行こう」
「まままま待ってください! そんなことをしたら大問題になってしまいます!」
何とか止めようと必死にすがりつく私を見て、セレーナは大きなため息をつきました。
「……正直、私はこうなってよかったと思ってるよ。オリバーと一緒になってもエミリアは幸せになれない」
「ずっと以前から、セレーナはそう言っていましたね……」
「どう見てもあの男は浮気する。それからマリリスの方もな、あの女も相当やばいぞ」
そう、セレーナはマリリスさんについても前々から気をつけるようにと言っていました。私にはよく分からないのですが……。
頭を傾げながら馬車に乗る私を見て、セレーナは「だからぼんやりしてるんだよ……」と再びため息をついていました。
マリリスさんは決して悪い人ではありません。彼女は平民の出身ですが、努力が認められて男爵家の養女になりました。また、学園でも努力を怠らず、勤勉で誰にでも優しい彼女を私は心から尊敬しています。
セレーナはマリリスさんのことをよく知らないから誤解しているだけです。こんな状況になってしまいましたが、それでも私はマリリスさんを大切な友人と思って……、……あら、あそこにいるのは。
馬車の窓から、当家の屋敷の前に立つマリリスさんの姿が見えました。彼女は申し訳なさそうな表情でこちらに向かってお辞儀を。とりあえず、上がってもらって私の部屋でお茶を飲むことにしました。
カップに手をつけるより先にマリリスさんはもう一度深々と頭を下げました。
「エミリア様、こんなことになってしまい、本当に何とお詫びすればいいのか……」
「マリリスさんのせいではありませんよ。何と言いますか……、色々と、タイミングがよくなかったのでしょう……」
こう言った直後に、私の目からは止めどなく涙が溢れてきました。
慌てた様子でマリリスさんは私にハンカチを。やっぱりとても優しい子です……。
「……今日のところは出直してきた方がよさそうです。エミリア様、本当にごめんなさい……」
マリリスさんは席を立つと静かに部屋から出ていきました。
……ああ、駄目です、今日はもう何もやる気が起きません……。まだお昼前ですけど寝てしまいましょう……。
と、ふとテーブルに置かれたハンカチに目が行きました。
これは確か、マリリスさんが大切にしているお母さんの形見のハンカチでは? 幸いまだ涙は拭っていませんし、急いでお返ししなくては。
私はハンカチを取るとマリリスさんを追って部屋を出ました。どうにか屋敷の廊下で彼女に追いつくことができ、声をかけようとしましたが……。
マリリスさんが自分の侍女と話しているのを見て、つい物陰に隠れてしまいました。
「ふふ、これで一応きちんとエミリア様へのお詫びも済んだわね。彼女には感謝してもしきれないわ、公爵家夫人の地位を譲ってもらったんだから」
あ、あれは、本当にマリリスさんですか……? 普段と全然雰囲気が違うのですが……。それより今、公爵家夫人の地位を譲ってもらった、と……。
見たことのない笑い方をするマリリスさんに、侍女は頭を抱えながら。
「……お嬢様、あまりにひどいです。エミリア様はお嬢様が貴族社会や学園に馴染めるようにとてもよくしてくださったではないですか」
「だから感謝してるって言ったでしょ。お礼に市場で買った安物のハンカチを差し上げたわ。ああ、あれは母の形見って設定だっけ」
「……エミリア様が気の毒でなりません」
「彼女が悪いのよ、貴族の令嬢でもあそこまでぼんやりした子はそうそういないでしょうね、ふふ」
手に持ったハンカチを私は無意識に落としていました。
……わ、私はただ、利用されただけ、だったのですか……。
……う、うぅ……。
うぅ……、うぅ……! 心の中に今まで感じたことのない感情が……!
これは、いけません、真っ黒な感情に心が支配されそうです……!
このままでは気が狂ってしまいます……!
うわぁ――――……!
キィ――――――――ン……。
――――。
気がつけば、目の前にはセレーナの顔がありました。不思議そうな表情で私のことを見つめています。
「……エミリア、今すごい顔してたぞ」
「そ、そう、ですか……?」
……おかしいです、私はさっきまで自宅の屋敷にいたはずなのに。ここは学園の、いつもセレーナと二人でランチを食べている部屋。テーブルにはお昼ご飯が広げてありますし。
……おや、この献立には見覚えがあります。確か昨日のランチとまったく同じ。
…………、……まさか、……いえ、そんなことあるはず……、ですが、まさか……。
心配してまだ私の顔を覗きこんでいるセレーナに視線を返しました。
「……あのセレーナ、私はまだオリバー様と婚約中でしょうか?」
「ああ、残念ながらまだ婚約中だ。何だ、ついに破棄したくなったか?」
……間違いありません、時間が丸一日戻っています。いったいどうしてこんなことが起こったのでしょうか?
あ! 頭の中に何かが流れこんできます! これは私の知らない世界、私の知らない私の記憶……!
……思い出しました。
……いや、……思い出した。……私には別の世界で生きた記憶がある。