1 過去へ
その知らせは、ある程度覚悟していたことだった。
――紗耶、社長は秘書課の川島とできてるよ
先日、くぐもった声で知らせてきたのは、幼なじみであり夫の側近でもある桑田涼介だった。涼介は私の頼みに応えるために、出張先の会食現場を盗撮していてくれた。
メールに添付されたそのデータには、夫である川上龍矢の酔った声と、浮気相手である川島舞花の甘えた声とだけでなく、二人がただならぬ関係であることがわかるやりとりが記録されていた。
浮気の証拠としては充分なデータ。けど、録音されていたのは甘い関係の秘話だけでなかった。舞花と一緒になって私をなじり、平気で暴言を吐きまくる龍矢の声には、怒りよりも悲しみが強く感じられた。さらに、『せめて子供ぐらい作れたらまだ使い勝手はあるのによ』と吐き捨てたひと言が、不妊に悩んでいた私に離婚を決断させた。
もう未練は微塵もない。川上家の御曹司という肩書に甘いマスクという、理想すぎるくらいに理想的だった龍矢に惹かれていたのは、この瞬間からもはや過去のことでしかなかった。
だから、龍矢が出張から帰ってくる今夜に決着をつける。そう決意した矢先、かかってきた親友の三沢真菜からの電話で思いもよらないことを知らされることになった。
「ちょっと、涼介がピンチってどういうこと?」
焦りを隠すことなくまくし立ててきた真菜が、涼介の窮地を告げてくる。先月、龍矢の会社内で起きた個人情報漏洩疑惑について、なぜか涼介が責られているという。
「私も旦那から聞いただけだからよくわからないんだけど、どうやら涼介を犯人に仕立てあげて無理矢理解決するつもりらしいの」
真菜の話によれば、龍矢は情報漏洩疑惑について犯人にたどりつくことができなかったらしい。そのため、世間体と取引先との関係を気にして急遽涼介を犯人にでっち上げたという。
突然のことに動揺がおさまらない中、真菜に礼を告げて電話を切る。考えることが一杯あったけど、怒りとやるせなさで火照った頭では、うまく考えがまとまりそうになかった。
そんな最悪な気分の中、出張から帰ってきた龍矢がノックもなしに部屋に入ってきた。心なしか緊張した表情の中にも浮かべた勝ち誇ったような笑みに、私は嫌でもスイッチが入るのを感じた。
「龍矢、ちょっと話があるの」
無造作にネクタイを緩める龍矢との距離を詰めて冷たく言い放つと、龍矢はその手を止めて小さく鼻で笑った。
「舞花のことか?」
底冷えするような冷たい視線を向けてきた龍矢が、先手をうつように舞花のことを口にした。どうやら私の話は予想済みらしく、ならばと私も遠慮なく舞花との関係を厳しく責めたてることにした。
「で、言いたいことはそれだけ?」
一通りの詰問の後、返ってきた龍矢の言葉はそっけないものだった。別に取り乱すとか、慌てふためくといった反応を期待していたわけではないけど、あまりにも冷静すぎる態度が私の怒りを少しずつ恐怖心へと変えていった。
「龍矢、もう終わりにしたいの」
「終わりって?」
「私たち、離婚しましょう」
覚悟を決めるのにあれだけ時間がかかったのに、口にするのは拍子抜けするくらいに簡単だった。さらには、口にした瞬間、なにかが私の中で崩れ落ちていくのを感じた。
「それは無理な話だな」
「え?」
私の申し出を、龍矢はあっさり受けると思っていた。なのに、龍矢はあろうことか私の申し出を高笑いしながら拒絶してきた。
「どうして?」
「簡単なことだ。お前らみたいな薄汚い奴らの都合にのるつもりはないってことだよ」
「どういうこと? ていうか、お前らって――」
「涼介と組んでこそこそと卑怯な真似をしていたよな?」
卑下た笑みから一転してきつい表情になった龍矢が、スマホの画面をつきつけながらゾッとするような低い声をたたみかけてきた。
「俺のことを嗅ぎ回っていたようだが、罠にはまったのは自分だって知らなかったようだな」
耳障りな笑いと共に、龍矢がスマホの画面に映る動画について再生し始める。画面には、ホテルの一室で不自然にパソコンを操作している涼介が映し出されていて、流れる音声から龍矢の不倫のことを私とやりとりしているシーンだとわかった。
「そ、それは――」
まさか既にばれているとは思わなかった私は、龍矢の反撃に言葉を失ってしまった。いや、ばれているというよりは、龍矢は涼介の行動をあらかじめわかっていて隠し撮りしていたといってよさそうだった。
「まあ、お前らがしたことは気に食わないが、結果的に感謝してるよ」
「感謝って」
「この映像をうまく加工すれば、涼介は情報漏洩の犯人にできるからな」
薄気味悪く微笑んだ龍矢が、その悪魔じみた考えを話し始めた。どうやら龍矢は、情報漏洩の犯人を見つけ出すのに苦労した結果、龍矢の不倫現場をおさえようとした涼介の動きを逆に利用しようと考えたとのことだった。
「これで、親父も納得するだろう」
画面を閉じた龍矢が、ひとり納得するように呟いた。地元のみならず、全国でも名の知れた川上家の家長である義父は、三人兄弟の末っ子でもある龍矢を甘やかすことなく厳しく躾てきた。その影響か、龍矢は小さい頃から義父に頭が上がらず、今も義父の目を気にしていた。
その龍矢が恐れていたのが、任された会社の中での不祥事だった。義父に早期解決を命じられていた龍矢は、あろうことか涼介を生贄にすることで義父の叱責を逃れようと考えたのだった。
「ちょっと、そんなことが許されると思ってるの?」
「もちろん、思ってるさ。今は証言よりも映像が全てだから、加工するとはいえ情報漏洩の瞬間として映像を見せれば、親父も納得するだろ」
「そんなの、やってることが卑怯じゃない!」
「卑怯? こそこそと人のプライベートを嗅ぎ回ってた奴が言えることか?」
勝ち誇るように余裕の表情を浮かべた龍矢が、私の言葉を切り捨てていく。龍矢とは高校からのつきあいだけど、つきあってみて身に沁みたのが龍矢の狡猾さだった。
「安心しろ、今はまだお前のことは伏せてやる。妻が共犯者になると俺の立場がないからな。それに、離婚についても汚点を嫌う親父がいる限り、認めるつもりはない」
「なによ、そんな好き勝手に私が応じると思う?」
「もちろん、お前は応じるさ。今回の不祥事の損害賠償は数億円になるだろう。その金額を病気の母親を介護している涼介に背負わせるかは、お前次第だからな」
「それって、どういう意味?」
「簡単なことだ。俺のやることに黙って応じれば、涼介を完全に潰すのはやめにしてやるって話だ。それに、離婚については親父が亡くなればすぐに応じてやるから、それまでは用があるときに妻のふりをしてくれれば充分だ」
一方的な条件を悪びれることもなく語る龍矢に、再び怒りがわきあがってきた。けど、だからといってどうにかできるかといったらそうはいきそうになかった。
涼介には、病気で看病が必要な母親がいる。その状況で多額の損害賠償をされれば、たちまち生活に屈することになるのは間違いない。それがわかっているから、龍矢は譲歩するふりして私を追い込んでいるだけだった。
「これからの生活は、舞花と共にすることになっている。彼女は、ポンコツのお前と違って妊娠もしているしな。時がきたら、舞花と一緒になるつもりだから、お前は用が終わったら消えてくれればいい」
最後は吐き捨てるように言った龍矢の言葉に、一瞬で頭の中が真っ白になっていく。親族からの冷たい視線にさらされながらも耐えてきた不妊治療の日々が脳裏をよぎり、不覚にも冷たい雫が頬を流れ落ちていくのを感じた。
「それが、龍矢の本心だったわけね?」
「どういう意味だ?」
「一生愛するから結婚してほしいと言った言葉は、結局嘘だったってことでしょ? 私が妊娠できないからって、他の女に乗り換えたわけなんでしょ?」
ついにというより、今まで薄々感じていた龍矢の本心がようやく露わになったところで、私は一気に核心へ詰めよった。
「紗耶、お前何か勘違いしてないか?」
ようやく龍矢の本心を得た私に、龍矢は一切の動揺を見せることなく、むしろ嬉しくてたまらないといった感じのうすら笑いを浮かべた。
「勘違い?」
「ああ、俺は最初からお前のことなんか興味なかった。愛してるだの、結婚してほしいなどいった戯言は、全て涼介のためにやったことなんだ」
「ちょっと、それはどういう意味なの?」
「簡単なことだ。俺が生徒会長になった時、あいつはクソみたいな提案をしてきただろ? 生徒会長を決める投票を無記名方式に変えろってな。わざわざ俺が自分についてくる奴を選別しようとしていたのに、それ邪魔をしようとしてきたんだ。だから、こいつだけは徹底的に破滅させようと考えたわけだ」
龍矢は当時の怒りが蘇ったのか、眉間にシワを寄せて涼介を罵倒する言葉を繰り返した。確かに、生徒会選挙の監査役だった涼介は、生徒会長選挙の投票に名前を書くのは不公平だと訴えていたのは覚えている。他にも優秀な立候補者がいるのに、投票を機に龍矢に睨まれるのを恐れて意思に反する投票がされないようにという涼介なりの配慮だった。
それを龍矢は自分に対する反逆だと捉え、涼介に対してひどい仕打ちをすることを考えていたとのことだった。
「お前と涼介の仲の良さは一目瞭然だった。さらには、涼介がお前に想いを寄せていることも明白だった。そんな時に、お前がのこのこ近づいてきたから、俺にとっては好都合だったわけだ」
「好都合って――」
「涼介を苦しめるには、お前を奪えばいいからな。それに、涼介の家庭は金銭的に行き詰まっていたから、俺の近くで働かせることにした。そうすることで、涼介はお前を好きに扱う俺を指をくわえて苦しみながら見ることになるからな」
「じゃあ、結婚してほしいと言ったのは――」
「ああ、単に涼介を苦しめるための戯言だよ。別にお前には興味なかったし、子供でも産んでくれたらそれでよかった。後のことは、親父が死んでくれたらどうにでもなるからな」
再び薄笑いを浮かべた龍矢が、私の抱いていた幻想を粉々に打ち砕いていった。龍矢は、私を愛しているどころかそもそも興味などなかった。
その事実を知った瞬間、視界が霞んで世界が揺らぐのを感じた。龍矢は、単に自分の欲を満たすために私を利用していただけだった。
そんなこととは知らず、淡い恋心を抱き、龍矢の甘い言葉に有頂天になって結婚までした私が、本当に哀れで惨めでしかなかった。
「話はこれぐらいでいいか? もうすぐ舞花が来るから今すぐここから出ていってほしい。もし行くところがなければ、裏庭にある物置小屋を自由に使ってくれ。ガラクタのお前にはちょうどいい場所だろうからな」
わざとらしく時計に目を落とした龍矢が、愛情の欠片もない言葉で最後のとどめを刺してきた。もはやどうすることもできなくなった私は、ふらつく体にムチを打って着の身着のまま部屋を出ることにした。
○ ○ ○
どのくらい町をさまよっていただろうか。夜が深まり、人気も車の通りも少なくなる中、ただあてもなく町中をさまよい続けていた。
――私、なにやってたんだろう?
急に突きつけられた現実のショックで足元もおぼつかない中、ひたすらこれまでの人生を振り返り続けていった。
龍矢との出会いは、高校ニ年生の終わり頃だった。この地に住む者なら、川上家と川下家を知らない者はいないだろう。この町を分断するように流れる川を境に、北部を支配するのが川上家で、南部を支配するのが川下家だ。その両家が共同出資して作った高校で、私は龍矢と出会って恋に落ちた。
出会った当時の龍矢は、甘いマスクに金持ちということを一切鼻にかけることもなく、誰にでも優しかった。その龍矢が生徒会長となり、生徒会の役員をしていた涼介を通じて龍矢と仲良くなったのが始まりだった。
龍矢との交際は、みんながうらやむようなもので間違いなかった。私自身、夢のような出来事に毎日が楽しくて仕方がなかったし、純粋に見えた龍矢を独り占めできていることが誇りにも思えていた。
あの日から九年。高校卒業後、迷うことなく龍矢と結婚した私は、次第に龍矢が隠し持っていた毒牙を見せつけられることになり、今では十周年の祝いを迎えるどころか、龍矢の毒にやられた間抜けな一人の女に成り下がっていた。
――あの日に戻れたらな
交差点にさしかかり、全ての原因となる昔を思い起こしてみる。龍矢の毒牙は、あの生徒会長選挙からあらゆるターゲットに向けられていた。自分に寄る者と対抗馬に寄る者をふるい分けし、将来に渡って使える者を選別していた。その結果龍矢は、生徒会長になると同時に少しずつ毒牙をむき続け、これまでに何人もの人間を破滅させてきた。
もちろん、そんな暴挙が許されることはないけど、この町に限っては別の話だった。この町に生きる者にとっては、永年続いている川上家と川下家の存在はそれだけ絶大であり、逆らう者はいないのが現状だった。
――お母さんに電話してみようかな
考えるのに疲れた私は、ふと母親の声が聞きたくなって電話をかけることにした。
何度目かの呼び出しの後、何も知らない母親ののんきな声が胸に刺さってきた。口うるさい母親だったけど、どんな時も私の味方であり、結婚した後も川上家の見下す眼差しに耐えながらも私を支え続けてくれていた。
そんな母親の声を聞き、悲惨な現実を告げる言葉が喉に詰まった。母親は今、父親と共同で続けていた小さな飲食店を切り盛りしている。お世辞にも繁盛とはいかない店だけど、それでも今日までやってこれているのは、少なからず川上家の援助があったからだった。
その母親に、将来離婚することになる話を切り出すのは気が引けた。昨年、父親が身体を壊したこともあり、さらに負担が母親にかかっているのもわかっている。なのに、自分の不甲斐なさを口にしようとしていることが情けなさすぎて、「どうしたの?」と聞いてくる母親に唇を噛みしめることしかできなかった。
さらに心配そうに母親が尋ねてきた時だった。
『紗耶、危ない!』
不意に誰かが私の名前を叫ぶ声が聞こえてきた。ハッとして見上げた先には、赤く光る歩行者信号がぼやけて見えた。
――え?
何が自分に起きているのかわからなかった。
ただ、やっと理解が追いつき、自分が赤信号を無視して交差点のど真ん中にいることがわかった瞬間、私の目前にはけたたましいクラクションと共に、目が眩むほどのトラックのヘッドライトがすぐ近くまで迫っていた。