ユリアの日記(前編)
シリウスの元婚約者、伯爵令嬢ユリアのお話です。
わたしは生まれつき体が弱くて、風邪をひくと何日も臥せってしまうような脆弱な子供だった。
お母様も体が弱くて、わたしが幼い内に亡くなってしまったし。
そんなこともあり、お父様はとても過保護だ。
段々と臥せっている時間が長くなり、お医者様に診てもらってもどこが悪いか分からず、治療代が高い治癒師に診てもらってもまるで効果がなかった。
誰にも分からない不治の病なのでは?
そう思うとどんどん気が滅入って来て、何もやる気が起きなかった。
ある日、お父様が何も書かれていない本をプレゼントしてくれた。
「この本は、ユリアが毎日思ったことを綴っていくんだよ」
日記というものだという。
5歳から書き始めた日記は、最初の頃は文字も言葉もたどたどしく、一日一行で終わっている日も多かった。
7歳の洗礼式を迎える頃には、自分でも長く生きられないと諦めていたから、日記の内容も投げやりになっている。
お父様もやつれていって、元々食が細いわたしの食事も、更に質素になっていた。
顔なじみのメイドの姿が消え、どこか邸全体が薄暗く、このままわたしと一緒に儚くなってしまうのかしらと思っていた。
しかし、転機は突然訪れた。
ハノイ伯爵家の本家、ハノーヴァ侯爵家のご嫡男、シリウス様と婚約が決まったというの。
驚いたけれど、どこか冷静に捉えるわたしもいた。
長く生きられないわたしを不憫に思って、仮初に結ばれたものなんだろうって分かっていたわ。
それなのに、シリウス様との初顔合わせの日の日記は、喜びに溢れていた。
眼鏡を掛けているのには驚いたけれど、とても美しい方で、ほんの少し笑って贈り物を手渡してくれた事を、踊るような文字で日記に記していた。
日記を読まなくても、その日の出来事は鮮明に覚えているわ。
こんなに美しい方が、本当にわたしの婚約者なのかと、夢ではないかとうっとりと見惚れていたの。
ぼんやりしているわたしが、具合が悪いのだろうと気遣って下さったことも覚えている。
美しくて優しい方。
次はいつお会いできるのだろうかと、毎日のように日記に綴っている。
オーディン学園は全寮制で、領地に戻れるのは長期休暇でなければ無理だという事など、一月に一度のお手紙に書かれていた。
お手紙は全て保存してある。わたしの宝物。
確かあの頃、わたしからは頻繁にお手紙を出していた。
ほんのつまらないささいな出来事を綴った拙い手紙が、相手の迷惑になるかもなんて、幼いわたしには思いつきもしなかった。
執事の配慮で、思い立っては書いていた手紙は、一月分にまとめられて送られていると知ったのは、ずいぶん経ってからだった。
冬は社交シーズンで、本来であれば領地から王都へと貴族たちは移動する。
その冬にシリウス様はわたしを訪れた。
ほんの2日ほどの滞在でも、嬉しすぎて熱を出すほどだった。
バカなわたし。
せっかくお会い出来たのに、熱を出して臥せってしまい、ろくにお話し出来なかったんだから。
治癒師と共に訪れてくれた事もあった。
全く良くはならなかったけれど、わたしを心配して下さったという心遣いが嬉しかったわ。
今年はついに臥せったままでの対面になったけれど、すらりと背が高くなり、一層素敵になったシリウス様は、冬だというのにお花をプレゼントして下さった。
そういえば、その時に部屋にある魔術の類が返って良くないのでは、と話していたと震える文字が綴っている。
お父様が良かれと思って、あらゆる呪術や占い、薬草やお香など、噂を頼りに集めまくっていたたくさんのモノ。
それが体に害をなしていると既に気づいていたのに。
この頃から、日記を綴る日が途切れがちになった。
いつもなら、冬よりも夏は体調が上向くのに、育成の季節に入った頃は腕を動かすのも億劫になっていた。
もうダメなのかもしれないと、薄暗い部屋で悲嘆にくれて、最後にシリウス様が暮らす王都に行ってみたいとお父様にお願いした。
体を動かすのもままならないわたしを旅に連れ出すのは大変な事で、普通なら諦めるだろうに、お父様はやつれた顔で微笑んだ。
「そうだね、王都に行こうか」
これが二度目の転機だった。
もし、わたしの願いをお父様が聞いて下さらなければ、わたしはあの薄暗い部屋で儚くなっていただろう。
今なら分かる。あのお父様の表情は『諦観』だったのだ。
ゆっくりとした行進でも、馬車に横たわるわたしへの負担はきつかった。でも、文句など言えない。
通常なら2日の道のりを、1週間かけて到着したのも束の間、タウンハウスではなく街の宿屋に泊まると聞いて、我が家の窮状を悟った。
資金繰りが悪化して、タウンハウスを手放していたのね、お父様。
ふと思い出す、使用人たちが小声で囁いていたあの噂。
「シリウス様との婚約が白紙にされたそうだ」
「じゃあ、本家からの援助もなくなるって事? また昔のように資金繰りが悪化したら、わたしたちの給金もどうなることか」
たしかあれは種子の季節の頃の噂話だった。
シリウス様との婚約は解消され、同時にハノーヴァ家からの援助もなくなったのだ。
わたしにとってはお金よりも、それが生きる支えだったのに。
この事実にわたしの具合はまた悪くなった。
せっかく王都に来ても、窓もカーテンも閉め切り、得体のしれない魔法にお香で息苦しい。
「お父様、窓を開けて。せっかく王都に来たのに街が見えないわ」
「駄目なんだよ、ユリア。せっかくの魔法や薬草の効果が薄れてしまうから」
血走る目の下の濃い隈に、こけた頬。お父様自身が病に侵されているみたいだった。
「シリウス様を連れて来るからね」
そう言って出かけたけれど、2日続けて成果は上がらず、失意の中、わたしの具合も更に悪化した。
お父様が留守の間に、メイドに窓を開けて欲しいと頼んだけど、
「旦那様に禁止されております」
と、申し訳なさそうに言っていたメイドさえ倒れた。
一体、この部屋に蔓延する魔術とお香は何なのだろう。
「旦那様、シリウス様はハノーヴァ家ではなく、シルヴァ家に身を寄せているようです」
その情報を持ってきた執事と共に最後の気力を振り絞ったお父様が出かけていく。
ああ、シリウス様なら、この得体のしれない空間を正常に戻してくれるかもしれない。
会いたい。助けて。
その願いは両方とも叶えられた。
シリウス様が連れてきた女の子は、とても強い光を放っていた。
わたしの弱った視力にも眩しく感じ、目を細めてその姿を何とか確認できた。
初対面にもかかわらず、親し気に話しかけて来て、痩せてしまったわたしの手を握ってくれた。
その強い力で悪いものを隅々まで浄化してくれたのだ。
どんな治癒師でも治せなかったわたしの病を、瞬く間に治してくれた女の子は聖女様だという。
わたしは臥せっていることが多かったので、満足に教育が受けられず、聖女様が言う事を半分も理解出来なくて悲しくなる。
聖女様はわたしと同い年で、とても可愛らしくきれいな顔立ちの女の子だ。
淡い金色の光が身を包んでいて、傍に居るだけで元気になっていく気がした。
シリウス様にだって優しく微笑みかけられる女の子が、自分とはあまりにも違い過ぎて、羨ましくも妬ましかった。
恩人を妬ましく思うだなんて、なんて自分は醜いのだろうとまた落ち込む。
聖女様が1人で見舞いに訪れた翌日、シルヴァ夫人が訪れて、自宅に招いて下さった。
宿屋を引き払い、シルヴァ家で療養出来るように取り計らって下さったのだ。
「ユリウス様の為されようは、ある意味貴族らしいですが、ずいぶん冷たい仕打ちです。ユリア様が1人でも歩けるようになるまで、我が家で宜しければご滞在ください」
とてもありがたい申し出だと、お父様は涙した。
わたしもシリウス様が暮らす家に滞在できることに喜んだわ。
でも、シリウス様はハノーヴァ家に基本帰るそうで、いつもいる訳ではないと知り、申し訳なく思いつつも、あからさまにがっかりしてしまった。
わたしたちに手を差し伸べて下さったシルヴァ伯爵夫人レティシア様は、物事をはっきり口になさる方で、最初は驚いたものの親身になっているからこそだと伺えた。
おかげで分かった事もあった。
「ハノイ伯爵、あなたは得体のしれない呪術師に高額の報酬を支払っていたようですね。ハノーヴァ家からの慰謝料の大半をつぎ込んでしまったとか。全く役に立たないどころか、返ってユリア様を悪化させるような呪術師を何故信用しているのでしょう。あれは弱った者に寄生する詐欺師です!」
糾弾されて、お父様は目に見えて萎れてしまった。
あの得体のしれないお香が、お父様の思考を鈍らせていたのかもしれない。
でも、どうしてレティシア様がその呪術師を知ったのかしら。
「あの詐欺師はここにまで尋ねて来ましたが、我が家がどういう所か知らないうつけ者でした。さっさと魔導師団の警備隊に突き出しました」
シルヴァ家のご当主は、有名な魔物討伐部隊隊長なのだそう。
奥様のレティシア様も、かつて魔導師団に所属されていた魔導師なのだと、この時初めて知った。
シルヴァ家に身を寄せて、本当に良かった。
わたしにとっても、お父様にとっても。
シリウス様は翌日顔を出して下さった。
今まで見たことがない穏やかな表情で、わたしの回復を喜んで下さる。
嬉しいのに、もうわたしは婚約者ではないのが悲しい。
「シリウスもずいぶん柔らかい表情が出来るようになったものね。これはやはりアリス様のおかげかしら」
レティシア様にからかわれて、シリウス様は驚いた後、頬を赤くした。
羨ましい。妬ましい。
わたしとは全く違う、何もかも持っている特別な女の子が。
ネガティブ@ユリア( ̄Д ̄;
後編へ続きます。