その6 その日の風景
「給料――とったどおぉぉぉぉぉぉ!」
給料袋を手にした亜美が、伝説の秘宝を入手した探検家のように勝ち鬨の声を上げた。
「おめでとう、亜美ちゃん。お祝いのケーキよ」
「わーい♪ ありがとう、ゆっきー」
白鳥由紀からケーキ入りの箱を受け取り、亜美のハッピー気分はさらに上昇。
吟遊詩人の仕事はいつでも好きなときに活動するだけで定額の給金が貰える。ただしちゃんとやる気がないと駄目で、会長はその気質を見抜いてしまう。本当に好きでなければ続けることのできない職業なのだ。
初任給を手にした少女のほほえましい喜びようをまえに、質量を持ったグレーの人型シルエット――トルバ協会会長セルカモンがきもちよく笑った。
「おめでとう、亜美君。なかなかさまになっていたようじゃないか」
「そんなことあるかもないかもー。ただ、どきどきして、たのしくて……それを味わっていけたらなって」
「うむ、いいね。その心構えを忘れずに、これからもどんどんやってくれたまえ」
「はーい。やっれるかなっ、やっれるかなっ、はてはてふむん〜♪」
澄んだその明るさが、白月亜美という少女の放つ真昼の月のかがやきである。
燕尾服を着た猫紳士は今日もまた川辺で魚釣りに興じていた。
亜美が、吟遊詩人になったことやはじめて給料をもらったことなどを話すと、猫紳士はピンとはねたヒゲをさすりさすり祝辞を述べた。
「ようやく生活の土台が整ったようだね。お金は大事に使いなさい。銀行に口座を作って預けておくといいだろう」
「そっか、盗まれたりしたら大変だもんね〜」
「その心配はないな。このリタ・ツマクに、そういったことを行う輩は来ることができない。ここでは殺害や窃盗、過剰な暴力沙汰などは決しておきないようになっているのだ」
それなら警察の仕事も忙しくはないのだろう。リタ・ツマクにおける仕事形態は苛酷な労働など存在しない。さらに給金の格差もほとんどなく、みんながそれぞれ好きなように楽しんで仕事ができるのだ。
「それと、リタ・ツマクの住人は決して歳をとらず、病気にもかからないということは知っているね?」
亜美はうなずいた。その辺は絵里から聞いている。知ったときは、自分がもう成長しないのだということを悲しく思ったが、現実世界で死んだ身なのだから仕方ないと納得した。
それにずっと若い姿のままでいられるというのも悪くないではないか。
「あっそうだ。そのことで疑問に思ったんだけど……ここの住人は普通に暮らしているかぎり、まず死ぬことはないんだよね?」
「そのとおりだよ。自殺か、不慮の事故で致命傷を負わないと死ぬことはない。ここで死んだら、以前にも言ったとおり、その者が本来逝くべきだったところへ逝くだけだ」
「じゃあ……住人が増えていっていっぱいになっちゃう危険性ってないの? リタ・ツマクはたしか日本の関西全域くらいの広さだって聞いたけど」
「世界の理というものはよくできているものでね、それも杞憂なのだ。まずリタ・ツマクの住人となる者はそれほど多くない。また、ここでの生活に心底から飽きた場合、本人が願えば本来の死後の世界へ逝くことができる。それと、別の異境から来訪してくる者の許可を得れば、片道切符でその異境へ連れていってもらうことも可能だ。そしてそういった事例は毎年必ずいくつか発生し、ゆえに、住人のバランスは保たれているというわけだ」
「へえ〜、そうなんだあ。おじさん、ホントなんでもよく知ってるねー。じゃあここに危険がピンチになることはないってことだね。漫画なんかだと、そんな世界でも大事になる展開とか起きて盛り上がるんだけどな〜」
何気なしに亜美がそう口にすると、猫紳士はにんまりと笑んだ。
「ほほう。おまえさん、そう、思うかね? なるほど、なるほど」
「ど、どうしたの? そんな意味ありげに笑われたらすっごく気になるよ」
「なあに、気にすることなど何もない。そのうちわかることだ。それよりも、活きのいい秋刀魚が釣れたから、一緒に食べよう」
釣ったばかりの秋刀魚を二匹、七輪で焼き始める猫紳士。たちまちいい匂いがたちこめて、亜美は目の前のご馳走に意識が傾いたのだった。
常に黒い満月が空にかかる月闇郷。
中心部に位置する広大無比な水晶の宮殿――流れる調べはFF2ラストダンジョンのBGM。
最奥部は吹き抜けの天井になっており、寂寞とした蒼穹と、永遠の皆既日食たる暗黒の月がその世界を象徴するように異貌の存在を誇示している。
クリスタル・ガラスの玉座に十代前半くらいの少女が坐していた。
白月亜美と瓜二つの容姿だった。相違点といえば、髪型と髪飾りが左右逆なのと、黒い衣服がデフォルトの亜美に対して、この少女は白亜の上品な上着とミニスカートを身につけている。
彼女の名は黒月真美といった。
玉座から腰を上げて広間に下りると、銀水晶の麻雀卓が床からせりあがってくる。三方から現れたのは、青いインバネスを着た黒猫のクアールと、デスライダー、鉄巨人。真美が席に着くと、三体は敬意をあらわして低頭し、卓を囲んだ。デスライダーは馬に乗っているし、鉄巨人は巨体にすぎるので席を必要としない。
このように奇妙な面子で開始される麻雀。それからしばらく時間が経過して、半荘オーラスは真美が圧倒的なトップで終了した。これは接待麻雀でも出来レースでもない。それでいていつも結果は彼女の勝ちなのだ。
真美は玉座に戻って腰を下ろすと、肘掛についた右手に頬を傾け、眉根を寄せて鳶色の瞳を細めた。
「つまんなーい」
退屈とも倦怠ともつかぬ溜息。
されどもこれは、どうにも仕方のないはなしなのだ。彼女が月白郷に登場するのはまだまだもう少しばかり先のことなのだから。
亜美と絵里はリタ・ツマク温泉の近くにあるカラオケボックスに来ていた。
「あー、そういや亜美は吟遊詩人だし、カラオケよりも歌声喫茶とかのほうがよかった?」
「うたごえきっさは知らないけど、あたしカラオケは好きだから全然問題ないよー」
「そかそか、よかったよかった。じゃあ私から歌っていい? 二曲くらい」
「うむ、どんどんやってくれたまえ」
トルバ協会会長の口調を真似る亜美。絵里は手早く選曲入力をはじめる。
リタ・ツマクの歌だけでなく現実世界の曲まで網羅されていることに亜美はびっくりした。ほんとうに奇妙に繋がっている部分が多いなと思わずにはいられない。絵里が歌ったのは最近の流行歌らしかった。
友達がマイクを置くと、今度は亜美が二曲歌った。こちらは現実世界の曲で、中森明菜の『水に挿した花』と久石譲の『冬の旅人』である。
情感いっぱいに歌い終わると、拍手とともにツッコミが入った。
「いや、いい歌だと思ったけど……なんで懐メロなの!? てゆーか二曲目はなに? 初めて聞いたわよっ」
「うにゅ? 二曲目は昔やってた昼ドラの主題歌みたい。ちなみに一曲目は水曜日の夜九時に昔やってた二時間ドラマの主題歌なんだって。どっちもお母さんが昔ハマってたみたいで、家でよくCD流してたから、あたしもすっかり気に入っちゃったんだよ〜」
「そっか……思い出の曲なんだ」
「うーん、そういうことになるのかなあ。あっ、続けてもう一曲歌わせてっ。せっかくカラオケきてしんみりするのもなんだし、今度は新しい曲にするから」
ふっとした追憶が胸をひたしたが、手をぱたぱたと振って、場の空気を変えるようにすぱぱっと選曲する亜美。
新鋭の双子アイドルとかちつくちての新曲『スタ→トスタ→』だった。
絵里と別れた亜美は、リタ・ツマク商店街にあるゲームセンターに行った。ここもやはり現実世界のアーケードゲームに対応しており、最新のものと、レトロゲームコーナーもある。
レトロゲームのほうへ足を向けると、以前熱中した『モンスターランド』を発見。さっそく五十円玉を入れてプレイ。ワンコインクリアは当たり前でひたすら自己ハイスコアの更新だけを目標にしていた、かつてモンスターランドの帝王と自称していた頃の腕は鈍っておらず、アルゴリズムをふんだんに発揮した彼女はゲーム自体を楽しみながら軽々とクリアしてハイスコアをたたき出した。
ゲームセンターを出ると、商店街の出口近くに位置する『餃子の王将』で餃子二人前を注文した。やはり餃子は王将に限る。普通の中華料理店の餃子よりもひとまわり大きく、安くて美味しい。ただし、亜美は最近まで『餃子の王将』と『大阪王将』が同じものだと勘違いしていたのであるが。
望月公園に足を運ぶ亜美。今日は望月樹の近くに白マントの青年の姿はなく、かわりに黄土色の僧衣を着た禿頭の男たちが樹のまわりで行を積んでいた。インド風である。
興味を持って話しかけてみると、彼らは幻の町アケルナルという異境から来たらしい。
「あなたはカメを信じますか? いぇーす、カメでおまんねぇーん」
「真実はえてして奇妙で滑稽なもんだ。が、真理は美しい。おわかりか?」
「右手にけんだま、左手にコーラ。いや、違うな……。右手にけんちん汁、左手に高麗にんじん。これも違う……。あれぇ……?」
「ねぇ、きみ、世界は神様でいっぱいなのだよ。ほら、うしろ!」
「わたくし、無言の行を積んでおる。――あ、喋っちゃった!」
「この世はすべて、夢、幻。おわかりか?」
僧侶たちそれぞれの語る内容はきっと深いのだろう。
よくわからないけれども、亜美は眼を閉じて少し瞑想してみた。そうすると、春の陽射しの暖かさ、歌うようにそよぐ風を、身体いっぱいに感じ取れたような気がした。
ルネサンス様式の建物の中で麗らかにフィドルを弾くメルカッセ。賛美歌の旋律が空気に流れて薄まったとき、質量を持った黒い人型のシルエットが入ってきた。
「頑張っているようだな。その調子で練習を重ね、セルカモンのところのヒヨっ子に実力の差を思い知らせてやるといい」
洒落た仕草でそう言った人物――ミンネジンガー協会会長のクリスタンである。
「ええ、勿論そのつもりです」
自信に満ち満ちた少女の声音。
「まっていなさい白月亜美。父と子と聖霊の御名において、聖なるメロディであなたの愚蒙なる心を浄化してあげます」
メルカッセは、玻璃の窓に広がる夕暮れの空へ紺碧の瞳を向け、不敵に微笑した。